距離感
「あのとき、葉月さんはどうして海岸にいたんですか? 」
色々あったせいで頭からすっぽり抜けていたが、葉月さんは先に旅館に戻っていて、その場にいなかった。
お見送りをした私が言うのだから間違いない。
「あのとき……」
私の問いを口の中で転がすように、葉月さんが呟く。
そして、思い当たったように「ああ」と顔を上げた。
その際、葉月さんは一瞬だけバツの悪そうな顔をしたが、私が尋ねる前にその表情は消えてしまった。
「知らない神力の気配がして、それが結奈さんの居る方向だったものですから、もしやと思って見に行ったのです」
「えっ、そんなに遠くからでも気配って分かるんですか!? 」
いくら旅館のすぐ裏とはいえ、実際に泊まっている部屋からは少し距離がある。
感覚的なことなのでよく分からないが、それってかなり凄いのでは。
素っ頓狂な声を上げる私に、葉月さんがちょっと得意げな顔をする。
「ええ。とくに現世は神力や妖力が存在しませんので、ほんの僅かな気配でも気がつきますよ」
「それは凄いですね」
思わず感嘆の息を吐くと、葉月さんは嬉しそうに頬をゆるめた。
けれどまた、表情が曇ってしまう。
障子に誤って穴をあけてしまった子供のような、飼い主のスリッパをボロボロにしたことがバレた子犬のような、とにかく『取り返しのつかないことをしちゃった』という顔だ。
さすがにこれは気になって、どうしたのかと尋ねる。
すると、葉月さんはとても申し訳なさそうに話し始めた。
「……お恥ずかしながら、私、とても慌ててしまって、何の対策もしないまま外に出てしまったのです」
「なるほど……? 」
私はチラチラと此方の様子をうかがう彼に、相づちを打ちながら首を傾げた。
対策とはなんぞ。まさか部屋着で来てしまったとか、スッピンで来てしまったとか、そういう意味ではないだろう。
見当のついていない私に、葉月さんがしょんぼりと目を伏せる。
よほど皆まで言いたくないらしい。
「その……つまり……」
葉月さんはううっと小さく呻いたあと、膝の上に乗せていた拳をギュッと握りしめて頭を垂れた。
「月の下で翔月さんに会ってしまったのです。それから、異変に気づいて駆け寄ってくる皆さんにも、恐らくは見られてしまいました」
ここまで言われたら、さすがに何の事かわかる。
要するに、翔月たちは松葉色に輝く葉月さんの神々しいお姿と邂逅してしまったということだ。
「おぉう……」
私は予想以上に事が重大だったせいで、一瞬頭がショートしてしまった。
おぉう。それしか出てこない。
「ええと、それって……」
──拙いですよね。
二人の声がピタリと重なった。
葉月さんも私も、神力の特性にはかなり注意を払っていた。
知られてしまったら最後、世の理に反すると思ったからだ。
とにかく、これは拙いと第六感が告げている。
「な、なにか無いんですか?記憶を消す術とか」
「それは禁じられている術でして。神様からの許可がないと使えません」
「じゃあ、記憶の改ざん……」
「もっと駄目ですねぇ」
おぉう。
万事休す。打つ手なし。
二人揃って頭を抱えるが、そんなことをしても状況が変わらないことは承知していた。
「いっその事、知らぬ存ぜぬで通してみましょうか。もしかしたら気づかれていないかも」
葉月さんが祈るように言った。
希望的観測ではあるが、正直私もそれ以外に手立てはないだろう。
「そうですね。翔月たちも見間違いだと思ってくれるかもしれませんし」
「はい」
そこで会話が途切れて、おだやかな沈黙が落ちた。
気を抜けば閉じてしまいそうになる目をしばたかせていると、それに気がついた葉月さんが火を弱めて立ち上がった。
「そろそろお喋りは止めて休みましょう。海岸に目印を立ててありますし、朝には見つけてもらえると思います。ほら、果報は寝て待てと言いますし」
そう言って結界の外に向かう彼に、私は口を開きかけてやめた。
結界を出る直前で、葉月さんが一度だけ振り返る。
「何かありましたら外には出ず、内側から声をかけてくださいね」
それに私が頷くと、お互いに「おやすみなさい」を言って別れた。
(一緒の空間で寝てくれていいのに。葉月さん、そこだけは本当に徹底しているんだよね。なんか一線を引かれているみたいで寂しいなぁ)
冷えた体を抱えて、焚き火のそばで丸くなる。
欠伸を一つして目をつぶると、すぐそこまで来ていた眠気がずしりと身体中を覆った。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
ゆっくりと細糸を寄せていた手が、ピタリと止まる。
私たちの関係が、たとえば恋人という名前に変わったら、どうだろう。
葉月さんは私との一線を消してくれるだろうか。
誰にでも丁寧な言葉遣いの葉月さんは、年下の私にも敬語を使って話す。
そういうところも好きだけど、それでもやはり、少し寂しい。
いつか、変わるだろうか。いつか。
(はは……私、馬鹿だなぁ)
まどろみの中で、私は逡巡する自分を笑った。
【いつか】もなにもないだろうに。
葉月さんとの今の繋がりは、私が無理やり繋いだものであって、けして確かなものではない。
彼が常世に戻るとき。それはきっと、葉月さんとのお別れを意味している。
もちろん、私は一緒に常世へ行くつもりだけれど、今の距離感では、葉月さんが私を頼ることは無いだろう。
レオドール様から連絡が来る前に、果たして関係を変えることはできるのだろうか。
果たして私にその勇気が、覚悟が、あるのだろうか。
そこまで考えて、今度こそ私は眠りに落ちた。
前門のトラ後門のオオカミ。 オオカミの術玉だけに!
……うん、見なかったことにしてください。




