海上の月
──グルルルル
また、聞こえた。
今度はさっきよりも近い。
砂丘の向こう、波に打たれる黒い岩肌にうごめく影を見つける。
自然と呼吸が早くなって、体が強ばるのが自分でも分かった。
「とにかく、ゆっくり下がるぞ。 そのまま旅館に戻ろう」
「でも、みんなは? 」
「あいつらのところに行くより、人の多いところに向かった方が良いだろう。野生動物は良くも悪くも臆病だから。変に刺激しなければ大丈夫だ。……多分」
多分かい、とはつっこめなかった。
どんな行動が命取りになるのか、全くといっていいほど分からないのだ。
私たちは息を殺して、焦れったくなるほどゆっくりとした動作で後ずさりした。
ずいぶんと長い時間が過ぎたように感じるが、実際はまだ数分といったところだろう。
岩の隙間から、長くて太い何かが左右にゆらゆら揺れているのが見える。
(あれは……尻尾? )
野犬かもしれないと思い始めたところで、尻尾の動きがピタリと止んだ。
拙いと思う間もなく、その影がこちらに向けて岩から飛び出す。
もの凄いスピードで、けれどどこかスローモーションのようにゆっくりと、黒い塊が向かってくる。
それが月光によって照らされた瞬間、私は驚きに目を見張った。
それは青をまとったオオカミだった。
血走った琥珀色の瞳と後方に倒れた獣耳、そして剥き出しの鋭い牙。
「はっ!? なんでオオカミがいるんだよ! 」
翔月が焦りと恐怖の混じった声を出しながら、私を後ろに下がらせる。
真っ白になった頭で、私は一つの確信を得た。
(これ、本物のオオカミなんかじゃない! だって、月の光で神力が光っているもん!!)
全身を青い光が覆っているので、ハッキリと術玉であることがわかった。
つまり、このオオカミの狙いは私だ。
オオカミとの距離がグッと近くなり、前で私を庇おうとしてくれている翔月の肩が、僅かに震えている。
(怖いけど……それでも、翔月を巻き込むくらいなら……っ)
同じように震えの止まらない体で、私は翔月の肩を掴むと、思い切り突き飛ばした。
「神崎!? 何して……!!」
驚きと戸惑いの宿った瞳と目が合う。
何か言おうと口を開けるが、声を出す直前で肩に強い衝撃が走った。
前足で後ろに倒されたのだと理解するのに、数秒を要した。
ぐるんと視界が回り、柔らかな砂の上に尻餅をつく。
思考が巡るより早く、鋭い牙が私の腕を貫いた。
そのまま強い力で海の方まで引きずられる。
幸いなことに犬歯が腕に刺さることはなかったが、グイグイと乱暴に引っ張られる度に激痛が走った。
遠くの方で翔月の私を呼ぶ声が聞こえたと思ったら、今度はゴボゴボと水中に沈む音が耳を覆う。
腕の傷口が塩水に晒されてズキズキと痛み、呼吸が止まる。
「抵抗しなければ」と焦りはするのに、体は脱力したように動かなかった。
(あれ? この感覚、前もどこかで……)
身に覚えのある感覚に、朦朧とした頭で記憶を探る。
息苦しさや寒さを感じない、眠くなるようなこの感じを、私はたしかに知っている。
(そうだ。これって、常世に転送されたときと同じだ)
少しだけ意識が覚醒したので、抵抗しようと腕を動かしてみる。
けれど、オオカミに咥えられた右腕は、まんじりとも動かない。
再びまどろみ始めた、そのとき。
唐突に、強い力が海面に引っ張りあげようと働いた。
じんわりと心地よい温かさに全身が包まれ、目先のオオカミが海水に溶けるように霧散する。
それと同時に、息苦しさと水の冷たさを思い出した。
肺に残っていた酸素が泡となって吐き出される。
あまりの苦しさに身動きすると、自分の腹部に誰かの腕が回されていることに気がついた。
(誰…………? )
先程までの状況からして、翔月だろうか。
結局巻き込んでしまったのだと、申し訳なさを覚えて目を閉じる。
そこから時間を置かずに、私は水面に引き上げられた。
一気に酸素が肺に入ってきて、ゴホゴホと激しく咳き込む。
「……奈さ……ゆっ……息……」
自分の呼吸音に紛れて、聞きなれた声が耳に届いた。
優しくて温かい、大好きな声だ。
重たい瞼を持ち上げると、金の瞳がこちらを覗いていた。
「はづ……さ……」
整わない呼吸の合間に名前を呼ぶと、硬い表情を少し緩めて「はい」と返してくれた。
月に照らされた葉月さんは、相変わらず神々しかった。
松葉色の神力が周囲を神聖な空気に変えているように感じて、やはり神様に近い存在なのだと思い知る。
綺麗だなぁ、なんて思うくらいには余裕が出てきた。
「とりあえず、陸に上がりましょう」
私の呼吸が落ち着いたころに、葉月さんが言った。
「だいぶ体力を奪われてしまったでしょうけれど、あと一息ですから、頑張って。私に掴まっていてくださいね」
そういいつつ、私の肩をしっかりと支える葉月さんは、きっと私に頑張らせるつもりはないのだろう。
器用なことに、葉月さんが片腕と足だけを使って泳ぎ始める。
痺れて力の入らない腕を彼の背中にまわすと、ようやく私は助かったのだと安堵した。
海中で体がじんわり温かくなったのは、葉月さんが術玉を滅するために術を使ったからです。
──という説明を入れたかったのですが、情けないことにキャラたちに振り回されて書けませんでした!くぅーっ!




