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不毛の子  作者: ヨシトミ
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第36話 愛してん無駄

第36話 愛してん無駄


医師のシゲどんの「吉弘の家」は、病院も自宅も思ったよりはるかに規模が大きかった。

あの新井の屋敷がまるで鼻くそのようだ。

シゲどんの自宅は病院の隣にあり、古い日本家屋だったが手入れが行き届いており、

庭も家屋も広さが十分にあり、実に屋敷らしい屋敷だった。

いいところの坊々である笠垣豊久さえびびっている様子だった。


「何びびっちょっ?」

「いや、井伊さんと結婚するには吉弘の家も相手するかと思うとね…びびりもするさ。

うちみたいな民間出身の家とは訳が違う」

「そうじゃろうな、吉弘ん家はじじどんが実家じゃからな…しっかしまこち良か家じゃっど。

もし吉弘ん家が本気んなりよったら、笠垣ん家など余裕で潰せるんやなかかね?

確か新井ん一族も相当のもんじゃったな、お?」


俺はじいさんらと一緒にあんたを運ぶ笠垣を、ここぞとばかりに冷やかして脅した。

吉弘の自宅では、じいさんとシゲどんの姉に当たるばあさんが看護士と待っていてくれ、

座敷にふとんと、すぐに使えるように医療道具の準備がしてあった。

ばあさんが言うには病室が満室でここしかないらしい。

シゲどんは患者が待っているからと、病院の方へ行ってしまった。


「姉さん、こんな夜中にごめん」


じいさんはあんたをふとんに寝かせながら、ばあさんに謝った。

ばあさんも医療関係者なのか、あんたの身体の音を聴いたりあちこちを触ったりし、

それから自分で輸液の用意を始めた。


「構わんよ紹鎮、お前の娘だ。うちで預かるのが本当だ」

「ばばどん、おいからもよろしゅうたのんあげもす」

「…ん? ずいぶんと小さなお武家さんだね、子供か? いや、顔は大人だな…」


ばあさんは眼鏡のずれを直し、珍しそうに俺をじろじろと観察した。

よく日焼けした肌にまっ白な髪の大きなごついばあさんは、

風貌はシゲどんに、顔はじいさんにそっくりだった。

俺は畳の上に姿勢を正し、指をついた。


「島津又七郎豊久、井伊直美が作物じゃっど」

「は? 作物?」

「直弼がそう呼んでいるんだよ、うちの大事の子だ」


じいさんは持って来た荷物から、あんたの寝間着を探しながら付け足した。


「…で、お前らわざわざ勢揃いする必要があったのか? 笠垣のぼんまで…」

「夜分に突然押しかけて申し訳ございません」


笠垣もまた俺の隣で姿勢を正して指をつき、謝罪を行った。

さすがそこは名家の子息、訓練された者らしくむかつくぐらい様になっている。


「ぎん姉ちゃん、俺も途中参加で全部を把握してる訳じゃないんだけどさ、

怪我をした直弼を笠垣と奪い合っていたら、直弼が倒れちゃってさ…だよね作物?」


ぎゅうちゃんは俺に目で合図した。


「アホかお前ら! こんな弱り切った人を…!」


ばあさんは俺らをがつんと怒鳴りつけた。


「じゃどん、ばばどん…笠垣豊久は敵じゃ、そん敵ん手に渡したらいけんが」

「誰が敵ですか。俺を敵視しているのは島津豊久、あんただけだ。

俺は井伊さんの婚約者になった、先生の兄上様という証人もいる」

「へえ…婚約者、笠垣のぼんがなあ」


ばあさんは笠垣を鼻で笑うと、あんたの血管を探って声をかけ、

針を刺して輸液経路の確保を確認し、後の処理をした。

それから看護士に傷口の処置の支度をさせると、俺たちを部屋から追い出した。


「お前ら女人の恥ぐらい思いやらんか、もう下がれ!

大丈夫だぞ直弼…紹鎮とぎゅうちゃんはまあいいとして、お前ら! お前ら豊久!

私があいつら豊久軍団に不埒な真似などさせん…!」


とにかく吉弘のばあさんがついているならもう安心だった。

笠垣は家の使用人にまた来ますと言い残し、迎えを呼んで帰って行った。

俺たちもじいさんがタクシーで帰る事にし、俺はぎゅうちゃんの膝の上で、

出っ張った腹を優しく撫でられながら、ことりと眠りについた。


「おや、寝てしまったよ」


笑うぎゅうちゃんの隣のわずかに開いた窓から、風が流れて行った。

…ごめん、今夜はあんたのそばについていたい。

風は吉弘の家へと戻り、庭から座敷へ流れ込んだ。

座敷には小さな灯りがあるだけで、ばあさんは隣か別の部屋にいるらしかった。


「…ごめん、井伊直美」


俺はあんたの枕元に座って、パントマイムを始めた。

あんたの髪を撫でるふり、頬を撫でるふり…そんな事しか出来なかった。

すでに死を迎えて亡霊となった俺には、あんたを呪う事しか出来ない。


「おいが命ばあげっ事が出来たら…」


俺はもう何かに命を懸ける事も、引き換えにする事も出来ない。

せめて魂ぐらい捧げる事は出来ないだろうか。

俺があんたを愛したら、積年の恨みも消えるだろうか。

…そんな訳ない。愛と呪詛は同義、方向性の違いでしかない。

あんたを愛してみたところで、きっと何も変わりはしない。


「おいこら、井伊直美…おいが命ば欲しゅうなかけ? 魂ば欲しゅうなかけ?

おまんさが欲しかちゅうとならあげっど…」


あんたの頬を手で挟むふり、額を額につけるふり。

目を閉じて、唇に唇で触れるふり。


「…そんな臭い魂は要らん」


頬の上の手に手を重ねるふり、ふりではなく目を開けて笑い、また目を閉じる…。


「あ…」

「何のつもりだ作物、それは愛のつもりか?」


俺のパントマイムにあんたのパントマイムが重なる。

鼻と鼻を食い違わせるふり、唇を唇で弄ぶふり…。


「愛しても無駄」


あんたはあんたらしい事を言うと、ふっとまた笑ってふとんを被り直した。

さすが井伊直美、「愛しても無駄」とは実によく俺を理解している。

あんたがあんたらしくて、俺は嬉しい。


「気が付いたのかね、直弼や」


襖の向こうからばあさんの声がした、やはり隣の部屋で待機していたのだ。

あんたがはいと返事をすると、ばあさんが部屋にやって来た。


「ここは吉弘の家だよ、直弼あんたここへ運ばれて来る途中で気を失ったんだよ…」


ばあさんは電気を点け、あんたの診察を始めた。


「じいさんらは?」

「帰ったよ、私がいれば大丈夫だから…この家には鎮康もおる事だし。

まあ、もっとも私を信用していない男が一人そこにいるようだが?」


ばあさんはあんたの枕元の俺に目をやった。


「えっ…」

「直弼の恋人か何かかね、落ち武者の亡霊は」


ばあさんにも俺が見えている…!


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