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不毛の子  作者: ヨシトミ
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第23話 豊久マルチプライ

第23話 豊久マルチプライ


「…先日うちの娘が死んだよ、井伊さんも聞いているかもしれないけど」


笠垣…いや、笠垣豊久はあんたの耳に唇を近づけて囁いた。

仲居が飲み物と前菜を運んで来たので、笠垣は一旦あんたから身体を離し、

話がしたいので、次の料理は遅らせてくれと言いつけると、

また二人きりになるのを待って、あんたの膝に手を置いた。


「その割には少しも悲しげにしていない、娘が可愛くないのか」

「そりゃ可愛いに決まってるさ、実の娘なんだから…」


笠垣はあんたの膝に置いた手を腰に回し、そっと引き寄せた。

正座に揃えられたあんたの膝が崩れる。


「いろはは不思議な娘だったよ…霊が見えるらしいんだ。

井伊さんとお堀で会ったあの晩、井伊さんに豊久の霊が憑いているって言うんだよ…」

「豊久の霊かよ」


あんたは笠垣の腕の中でくすりと笑った。

男の繊細な指先は腰を流れて、崩れた膝の脇から裾を割って乱す。

着物の裏地の緑の上に、襦袢の薄桃と裾避けの白が重なって広がり、

足袋をはいたあんたの白い脚が、室内の赤みを帯びた仄かな照明に浮かび上がる。


「…嬉しい事を言ってくれる娘だね。きっと俺の生霊だよ、豊久は俺の名前だ。

いろはは可愛い娘だった…でも父親として娘のために我慢して来た事も多かった。

俺も男なんだよ、女の人に触れてこういう事ぐらいしたい」

「それがなぜ私になる、答えろ笠垣豊久」


あんたは相手が誰でも冷たいまま、おかしな女だ。

でも笠垣相手にそれはないだろ。

豊久はここだ、あんたを呪う豊久はここだ、敵を間違えるな。


「いろはの母親はとうの昔に死んでいる、以降ずっと独身を通して来た。

笠垣の息子である俺は、苦労人の多い業界の女たちの目にそれは魅力的に映る事だろう。

そんな中で井伊さんだけは違った、媚びぬどころか俺をばしばし攻撃するんだから…」


笠垣はあんたの脚の間で苦笑した。


「知っての通り笠垣の家は政治の家だ、そんな家に若いだけの浮かれた女は要らない。

先妻のようなおっとりしたお嬢様も要らない、井伊さんのような大人の強い女が欲しい。

いろはが死んだのは俺のため、運命は俺のため…そう思う」

「馬鹿な、笠垣は敵の本丸だ」

「敵は愛せば敵ではなくなるさ、俺と付き合って欲しいんだ。

そして出来れば俺と結婚して笠垣の家に来て欲しい、何より俺は井伊さんを愛してる。

今夜はただそれだけを伝えたくて…」


参った…ただのキモオタと侮っていたが、笠垣豊久はあまりにも魅力的だ。

身分も財力もある、あんたとも対等に渡り合える。

同業者だから互いにわかり合える。

何より笠垣は真剣にあんたを愛している、娘の死を糧とするほどに。


いつだって魔物を倒すのは人の愛、人の心を解かすのもまた人の愛だ。

どんな紆余曲折があろうと、愛は絶対に勝たねばならぬ。

それが貴様らの望む結末だ。

俺の呪いはそんな愛に勝てるのだろうか。

豊久の呪いは豊久の愛に打ち勝ち、あんたを不毛に出来るのだろうか。

なにしろ島津豊久は倒されるべき絶対的な悪、笠垣豊久は選ばれし正義の勇者だ。


笠垣はあんたの唇に自分の唇を重ねながら、着物の襟から内側の肌を探って撫でた。

俺が耳から意識を抜いて犯す罪じゃない、祝福されるべき愛の雨だった。

俺はそんなの絶対に祝福しない。


「無駄だ笠垣、私は何も求めていない」

「…どうして? こんなに素晴らしい事をしているのに」

「貴様の愛は要らん…女の夢も幸せも何も要らん」

「可愛い人だ、井伊さんはそうでなきゃ…」


そこはやめてくれ笠垣、あんたの冷たさに魅力など感じないでくれ。

あんたの冷たさをわかっていいのは、俺だけだ。


「男はね、そういう女をこそ幸せにしたいと思う生き物なんだよ」


それは俺が断じて許さぬ、あんたを不幸にするのは俺しかいない。

あんたは俺の支配する国だ、笠垣の好きになどさせるか。

俺の敵を、国を独占していいのは、この俺だけだ。

俺は他をすべて退けてあんたを倒し征服する…!


畳の上に沈みゆく二人の生むわずかな風に、あんたにしか見えぬ気体は揺れて動いた。

GOじゃっど豊久…。

俺は離れから出て、身体を燐火で包み込んだ。

そうして庭に吹き入る夜風に自分自身を散らした。

散り散りとなった燃える俺の破片たちは、煙を上げどろりと粘度を持って舞い上がり、

核を持った白い流線型の球となって、糸のような長い尾を曵いて魚のように空を駆けた。

無数の白い火の玉は離れに集中し、屋根や外壁、窓を突き破り、

建物に白濁した火をなすりつけながら、内部へと侵入して行った。

歴史ある料亭の離れだ、火はあっという間に回る…。


「火…!」


笠垣は背中に感じる熱気に体を起こした。

そしてあんたを抱き起こした。


「起きろ井伊さん! 火事だ!」

「…そうか」


ところがあんたは座ってのんびりと着衣の乱れを直し始めた。


「何をしている! 逃げないと…!」

「笠垣、お前は逃げろ…私は構わぬ」


あんたは笠垣の腰を突き飛ばし、膝を立てて座り直した。

嘘だろあんた…。


「井伊さん!」

「くそ、作物め…笠垣の子を殺せば必ず同行していた私の責任になる、とんだ迷惑だ。

火がそんな白濁する訳がない、私は大丈夫だ。細かい傷は気にするな、行け笠垣」

「バカか井伊さん! 置いてけるはず…」

「大丈夫だ、私には豊久の霊が憑いている…言っとくが笠垣豊久じゃないぞ、島津豊久だ」


焼けた天井がぼろぼろとあんたの前に落ちて来る。

笠垣が死傷すれば、同行していたあんたの責任になるのは迷惑だろうが、

だからって何も笠垣を逃がす事ないだろ。

白色の炎は青色ほどではないが、通常の赤い炎より高温のはずだ。

引火すればあんただって焼けて死ぬんだぞ。


「何言ってる! 逃げるんだ、井伊さん!」


笠垣はあんたの腕を引こうとしたが、あんたはそれを撥ね除けた。


「断る。私は大丈夫だ、お前も料亭の人らも皆助かる…炎は私しか殺さない。

私しか死なないから大丈夫だ。かかって来い作物、それがお前の呪いか?

…命ば捨てがまっとは今じゃっど、じゃどんこん井伊直美は何も呪わん」


あんたは柱から伸びて来る炎を両手で掴んで、全身で受け止めた。


「貴様は小さいんだよ、島津豊久…!」


白濁した炎が海老ぞりになるあんたの胴を貫く。

炎は炎を呼び、最初の炎が曵く長い尾を追って続く。

散った無数の俺があんたを目がけてまた集まる…。


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