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ソファーとキッチンカウンター前の椅子。
数mの距離感がそれなりの他人行儀さと親しさを証明している。
木の柔らかさとグリーンが基調の部屋は落ち着いた空間になっている。
会社でのこの部屋の家主のイメージ的にはモノトーンの部屋だろうが、リラックスしてコーヒーを飲んでいる姿には相応しい。
「仕事に不備はありませんでしたか?」
「大丈夫だ。工藤さんは休み前に必ずきちんとしてくれているから、フォローはほぼしなくて済む」
軽く笑みを浮かべて、リラックスした上司が目の前に居て、ルームウェアを着た自分が寛いでいる。
―まるで恋人だ。―
手元には景吾が入れたコーヒーがあり、一口飲めばホッとする。
この妙に居心地がいい空間に真雪は戸惑っていた。
「工藤さん」
「はい」
「俺と付き合わないか?」
「へぇ?」
名前を呼ばれ、顔を上げると、真摯な眼差しで真雪を見つめる景吾。
次の瞬間に言われた言葉にぎょっとして真雪は景吾を見つめ返した。
「ど、どうして私なんです?」
言外にわざわざ、私を選ばなくてもいいじゃないかと告げる真雪が相も変わらず自分を範囲内に入れてはくれないことに内心ため息をつく。
「いつも頑張って仕事をしている。必ず休みを取る前にはしっかりとした下準備をしていてくれ、誰にでも優しくて、後輩を的確に導いている姿は人として尊敬に値する」
「その言葉、神崎課長にそっくりそのままお返しします。そして、付け加えさせて頂ければ、10人が10人かっこいいと言い、社内外問わずファンが居て、歴代の恋人は他社のOLの中でも美人だと言われている方達ばかりの神崎課長が、なんで私なんかを選ぶんですか。…こんな面倒な女…」
「その面倒さがいい。痛みを我慢しているのを見ると甲斐甲斐しくしたい。頑張っているのを見ると、後ろから抱き締めたくなる。困っていたら助けたい。…まだまだある。工藤さんが気になって仕方ないんだ」
話している間に神崎が真雪が座るソファーの脇まで来て、ソファーのひじ掛けに座る。
その様子を見ながら、真雪は人一人分神崎から離れて距離をとる。
まだ距離をとるのかと景吾の心が揺れた。
自分のルックスは知っているし、女は常に自分の周りに居た。
男女問わずに憧憬思慕の眼差しが常に自分を取り巻いていた。
そんな中、工藤真雪だけがただの上司として見ていた。
それに気が付くと真雪が気になるようになった。
「工藤さん。人間、惚れたのなんのは些細なきっかけなんだ。俺の場合は君の苦痛を我慢して、迷惑をかけまいとする姿に支えたいと思わせられた。しかし、君はとことん距離を上司と部下にしかさせないからね」
言った直後、神崎は距離を詰め、逃すものかと言わんばかりに真雪の隣に座る。
しかし、
真雪は拳1つ分だけ離れる。
「…今までお付き合いした相手に振られてきた原因が生理なんです。皆、最初は痛そうな様子に心配そうだけど、男の人はなんというか自分の無力感に弱いと言うか…必ず月に1回はあることに面倒になってしまうというか…………だから、私は諦めることにしたんです。期待しないことにしたんです。閉経するまでの辛抱だって…決意したのです。だから、もう男性とはお付き合いしないことにしたんです」
膝をぎゅっと握り、経験からの断りを告げる。
「痛みを変わることはできない無力感に、年に最低でも3日かける12ヵ月の36日は苦しんでいることになる。
そんな姿を支えることさえ出来ずに居るのは、一般的な男は…ダメだろうな。でも月経自体は女性ならついて回るものだからね。
君を部下にしてから、月経について調べて他の男よりは詳しいと思う。君が俺に全くの好意を抱いていないのなら振られても仕方ないと言うか、それ以外の特に身体に関することで断ることは許さない」
爪を膝に立て、俯く姿に景吾はこれだけ言っても真雪の心は溶かすことは出来ないのかと諦め半分になる。
一方、真雪はこれまで別れの原因になってきたものが始まりを作ったことに驚いていた。
「…神崎課長…」
薄ら涙を浮かべて、景吾を見つめる真雪。
やっぱり、神崎課長は優しいですと、真雪は笑う。
「悪いけど、俺は誰にでも優しいわけではないんだ。そうだなぁ。志村さん辺りに聞いてごらん。工藤さんには特別に優しいと言うはずだよ」
真雪を壊れ物の様にそっと包み込んで、髪を手櫛で梳きながら、額に口付けた。
「もう一度言うよ。君の身体のことも熟知している上で、君が好きになったんだ。俺と付き合ってくれるね」
未だ不安な様子の真雪を強めに抱き締めた。
「…愛想尽かさないですか?」
今後、景吾に愛想を尽かされたなら、2度と恋愛などできないだろう。
今後こそ最後の恋だと信じていいのだろうか。
真雪は景吾の腕の中で景吾を見上げる。
「もちろん。君に一生尽くそう。真雪…好きだ」
「ありがとうございます。私も課長が…課長が好きです」
景吾の優しさはどんなに押さえていても、恋心を肥大させる。
好きなってはいけないと思えば思うほど、禁忌に惹かれていくものだ。
結局、景吾を好きになってしまっていた。
「真雪、今日も泊まっていってくれるか?」
膝の上で脱力して景吾に寄りかかっている真雪の髪の毛先をくるくると指先で遊びながら景吾が問う。
不可抗力に一晩泊まっているとしても、真雪としてはシャワーも替えの下着も持ってきていない、しかも生理中のこの状況でもう一晩となると、ちょっと戸惑ってしまう。
「それはちょっと…」
景吾から離れて話そうとするも、かっちりと肩を抱かれ、もう片方の手は腰を擦っている。
男性の大きく暖かな手は凝り固まった腰を和らげ、脱力感を誘う。
「今日の様子を見ていると、帰したくない。いつも1人で苦しんでいるかと思うと抱き締めたくなる」
「へ?」
ぎゅっと抱き締めると、真雪を自分の隣に横たえ、ブランケットをかけると、さっさと膝枕をする。
あっという間の出来事に真雪が口を挟む余地はなく、されるがままになっていると、真雪の上に景吾の優しい眼差しが降った。
―髪を梳くのはこの人のクセだろうか?キモチイイな…
頭をゆっくり撫でながら、書類を読み始めた景吾にすっかり毒気が抜けた真雪はやがて静かに眠りに落ちた。
1週間後。
「おはようございます。神崎課長」
「おはよう。工藤さん」
職場フロアに昇るエレベーターに真雪が乗り、振り向くと景吾が居た。
2人を乗せたエレベーターは上昇を始める。
「今日は何がいい?」
真顔での問いにこの1週間を振り替える真雪。
「昨夜はイタリアンだったので、今日は和食でしょうか…」
「畏まりました」
フッと笑う景吾。
生理中はそれこそ甲斐甲斐しく、真綿に包まれたように甘やかされ、真雪はくすぐったい程だった。
―会社に居る時にはbitterなのに、2人で居るときはsweet…いや極甘かな。
「神崎課長…甘やかし過ぎですよ」
「馬鹿言え、まだまだ甘やかしたりないぐらいだ」
フロアに着けば、上司と部下。
何知らぬ顔で出社したのだった。