第3話 究極の保存食
朝。
目覚まし時計の無機質な電子音ではなく、窓の隙間から差し込む埃っぽい朝陽と、遠くを走るトラックの微かな振動で湊は目を覚ました。
床に敷いた薄い毛布の上で身をよじると、バキバキに凝り固まった背中と腰が悲鳴を上げた。昨夜の肉体労働の疲労が、一晩寝た程度で抜けるはずもない。
「……ん……」
重い瞼を擦りながら上体を起こす。
見慣れた六畳一間の散らかったワンルーム。万年床の横には、飲みかけのペットボトルや脱ぎ捨てられた服が散乱している。
いつも通りの、底辺労働者の朝。
ただ一つ、決定的に違う光景を除いては。
湊の視線の先、普段は自分が使っている安物のパイプベッドの上には、一人の少女が眠っていた。
湊のダボダボのスウェットに身を包み、身を丸めてすぅすぅと規則正しい寝息を立てている。月光を糸にして紡いだような銀色の長い髪が、枕の上に無造作に広がっていた。そして、髪の隙間から覗く長く尖った耳。
(……夢じゃ、なかったんだな)
湊は乾いた唇を舐め、小さくため息をついた。
昨日、深夜の解体現場の地中から現れたエルフの少女、リィエル。
2000年前に自らを封印し、現代に目覚めたという彼女は、俺のことを「勇者様の生まれ変わり」だと信じ込んで疑わない。
現実感がない。だが、部屋の空気には確かに、昨夜彼女が使ったシャンプーの微かな香りと、彼女自身が放つ花のような甘い香りが入り混じって漂っていた。
「……さて、どうしたもんか」
湊は頭を掻きむしった。
とりあえず、今日の仕事はどうしよう。昨日の夜、現場監督には「顔色が悪いから今日は上がれ」と言われたが、今日は行くべきだろうか。休めば日給が吹き飛ぶし、最悪クビになる。
だが、この得体の知れない(しかも常識が全く通じない)少女を部屋に一人残して、丸一日現場に出るなど不可能に近かった。
スマホの画面を見る。時刻は午前七時半。
「とりあえず……」
何か食べさせないといけない。
湊は立ち上がり、小さな冷蔵庫を開けた。中に入っているのは、半分しか入っていない麦茶のペットボトルと、賞味期限が三日前に切れた納豆のパック、そしていつ買ったか覚えていない干からびたネギの欠片だけだった。
「……買いに行くしかないか」
湊が一人ごちたその時。
『きゅるるるるぅぅぅ……』
部屋の中に、可愛らしくもはっきりとした音が響き渡った。
ベッドに視線を向けると、リィエルがパチリと目を覚まし、顔を真っ赤にしてお腹を押さえていた。
「あ、おはようございます、湊様……その、今の音は決して……」
「おはよう。エルフもお腹鳴るんだな」
「鳴り、ます……。肉体を維持するためには、魔力だけでなく物理的な糧も必要ですので……」
恥ずかしさのあまり、スウェットの襟元で顔を隠すリィエル。その仕草は、2000年前の聖エルフという肩書きに反して、年相応の少女のように見えた。
「腹減ってるなら丁度いい。ちょっとそこのコンビニまで飯買って来るよ。君は何が好きだ?」
「こんびに、ですか?」
「あー、昨日の夜、帰り道にあった明るい店。あそこに食べ物が売ってるんだ。……君の口に合うかは分からないけど」
「私もお供いたします! 勇者様を一人で未知の領域に向かわせるわけにはいきません!」
リィエルはバッとベッドから跳ね起きたが、スウェットの裾を踏んづけて見事にすっ転んだ。
「痛っ……」
「お供はいいから。その服じゃ外歩けないし、何より君のその耳、目立ちすぎる。ここにいてくれ」
湊はそう言って、壁にかけてあった上着を羽織った。
「でも……」と不安げな顔をするリィエルに対し、湊はテレビのリモコンを手に取った。
「退屈なら、これ見てて」
赤い電源ボタンを押す。画面がパッと明るくなり、朝のワイドショー番組が映し出された。芸能人の不倫スキャンダルについて、コメンテーターが熱弁を振るっている。
「ひっ!?」
リィエルはビクッと肩を揺らし、壁際まで後ずさった。
「箱の中に、小さな人間が閉じ込められています……! なんという残酷な呪術……っ!」
「いや、閉じ込めてないから。映像っていう、遠くの景色を映し出す技術だから。とりあえず、俺が帰るまでこれ見て大人しくしてて。外に出たり、火を使ったりしちゃ駄目だからな」
「……はい、承知いたしました」
未だテレビ画面を警戒しながらも、彼女は素直に頷いた。
*
アパートから歩いて三分ほどの場所にある、見慣れた大手コンビニチェーン。
自動ドアのチャイム音と共に店内に入ると、揚げ物の匂いと洗剤の匂いが混ざった特有の空気が鼻をついた。
弁当コーナーの前に立ち、湊は腕を組んだ。
自分の食事なら、一番安い弁当か、カップ麺で済ませるところだ。しかし、彼女に何を食べさせればいいのか。
エルフといえば菜食主義というイメージがある。ファンタジー小説でも、果物や木の実、野菜ばかり食べている描写が多い。
サラダのコーナーを見るが、ただの葉っぱの詰め合わせに数百円を払うのは、今の湊の懐事情では少し躊躇われた。
「パンか……おにぎりか……」
おにぎりコーナーに視線を移す。梅、鮭、昆布、明太子。色とりどりのパッケージが並んでいる。
ふと、湊の目に『具たっぷり ツナマヨネーズ』という文字が飛び込んできた。
俺が学生時代から一番好きな具だ。安くて、カロリーもあって、腹持ちがいい。
「魚なら食えるか……? マヨネーズなんて異世界にあるか分からないけど」
迷った末、湊はツナマヨおにぎりを二つと、鮭おにぎりを一つ、そして適当な野菜ジュースと、自分のための安物の幕の内弁当をカゴに入れた。
レジで千円札を出しながら、湊はふと自分の情けなさに自嘲しそうになった。
仮にも「勇者」だの「永遠の愛」だのと言ってくれている女の子に、初めてご馳走する食事がコンビニのおにぎりとは。
(俺はいつまで、彼女を養えるんだ……?)
自分の生活すらギリギリなのに。
このまま仕事を休めば、来月の家賃すら危うい。親から相続した負動産の借金だってある。彼女を元の場所(どこかは知らないが)に帰す方法も分からない。
不安の種は尽きなかったが、今はとにかく、あの空っぽの部屋で待っている彼女の元へ帰らなければという思いが足を急がせた。
*
「ただいま」
アパートのドアを開けると、部屋の真ん中でリィエルが正座をしてテレビ画面を見つめていた。
画面には、朝の子供向けアニメが映っている。
「おかえりなさいませ、湊様!」
パッと顔を輝かせて振り返るリィエル。
「この『あにめ』という幻影魔法、素晴らしいですね! 動物たちが二本足で歩き、言葉を喋っています! 高度な使い魔の術式でしょうか」
「……まあ、そんなもんだ」
湊は買ってきたレジ袋を小さなローテーブルの上に置き、中身を取り出した。
「ほら、朝飯。エルフが何食うか分からなかったから、適当に買ってきたけど」
「これは……?」
リィエルはテーブルの上に置かれた、三角形のビニールに包まれた物体を不思議そうに見つめた。
「おにぎり。米……穀物を丸めて、中に具を入れた携帯食みたいなもんだ」
「携帯食……私たちの言葉で言えば『レンバス』のようなものでしょうか」
彼女はツナマヨおにぎりを一つ手に取ると、そのままビニールごと口に運ぼうとした。
「あ、待って待って! それは外側の殻だから! 食べられないから!」
「えっ? そ、そうなのですか!?」
慌てておにぎりを取り上げ、湊は手慣れた動作でパッケージの赤いテープを引き、左右のビニールを剥がして海苔を巻いてみせた。
パリッとした海苔の香りが広がる。
「こうやって食べるんだ。はい、口開けて」
「あ……はい」
渡されたおにぎりを両手で大事そうに受け取り、リィエルは小さく一口かじった。
「…………!」
翠緑の瞳が、これ以上ないほど見開かれた。
「どう? 不味かったか?」
「いえ……その、この外側の黒い葉っぱのようなものは、磯の香りがしてとても香ばしいです。そして中の白い穀物はふっくらとしていて……」
彼女はモグモグと咀嚼し、さらに中心部分の具材――ツナマヨネーズに到達した。
その瞬間、彼女の動きがピタリと止まった。
「……美味しい……」
ポツリと、感嘆の吐息と共に言葉が漏れた。
「この、魚の肉を滑らかな油で和えたような……濃厚で、ほんのりと酸味のある味わい。不思議です、初めて食べるはずなのに、どこか……とても懐かしい……」
リィエルはもう一口、夢中でかぶりついた。
「よかった。口に合ったみたいで」
湊が自分の幕の内弁当を開けながら言うと、リィエルはふと動きを止め、切なげに微笑んで湊を見つめた。
「……湊様。これ、昔……あなたが野営で作ってくれた味に似ています」
「え?」
「あの頃、魔王軍との戦いが熾烈を極め、物資が底を尽きた時……あなたが近くの川で釣った魚をほぐし、得体の知れない鳥の卵と油をかき混ぜたソースで和えて、パンに挟んでくれたことがありました」
リィエルの瞳は、目の前のワンルームではなく、遥か二千年前の戦場を見ていた。
「『ツナマヨモドキだ』とあなたは笑って……。見栄えは悪かったけれど、過酷な旅の中で食べたあの食事が、私は何よりも美味しかった。この『おにぎり』の中身は、あの時の味にとてもよく似ています」
彼女は愛おしそうに手元のおにぎりを見つめ、そして、湊に向けて最高の笑顔を向けた。
「ありがとうございます、湊様。あなたが買ってきてくれたこの食事、私の一生の宝物に……」
「宝物って……ただの百五十円のコンビニおにぎりだぞ」
湊は冗談めかして笑おうとしたが、頬の筋肉がうまく動かなかった。
リィエルは美味しそうにおにぎりを頬張り続けている。彼女の純粋な喜びは本物だ。
だが、湊の胸の中に広がったのは、彼女を喜ばせることができたという達成感ではなかった。
代わりに、冷たくどろりとした感情が胃の底に沈み込んでいくのを感じた。
(……彼女が見ているのは、俺じゃない)
『勇者様』が野営で作った、魚と卵と油の料理。
それは確かにマヨネーズの原型に近いものかもしれない。前世の自分が、現代の知識でそんなものを作っていたのだろうか。
だが、今の俺にはそんなサバイバル知識もないし、料理の腕もない。ただ、コンビニで出来合いの安い飯を買ってくることしかできない。
彼女は今、俺が買ってきたおにぎりを食べている。
でも、彼女の心を満たしているのは『過去の勇者との思い出』なのだ。
俺はただ、彼女の中で再生されている美しい過去の映像に、都合よく形を貸している『入れ物』に過ぎない。
「……湊様? どうかされましたか? お顔の色が……」
リィエルが心配そうに覗き込んでくる。
その純粋で曇りのない瞳が、今はただ痛かった。
「いや、なんでもない。俺も食うよ」
湊は感情を押し殺し、ただ虚空を見つめながら弁当をかき込んだ。
狭いワンルームには、テレビのアニメの明るい声だけが、無情に響き続けていた。
二人の間にある、決して埋まることのない「時間」と「記憶」の壁が、朝の光の中で残酷なほどはっきりと形を持った瞬間だった。




