第1話 月の光と、土塊の底
月が、ひどく綺麗な夜だった。
眠らない巨大都市の片隅、錆びついたクレーンが首をもたげる湾岸沿いの再開発エリア。日付が変わり、深夜二時を回った頃。本来なら静寂に包まれているはずのその場所で、暴力的な重機の駆動音が夜気を震わせていた。
白々しい投光器の光が、粉塵の舞う解体現場を照らし出している。かつては巨大な倉庫だったというその古びた鉄骨造の建物は、すでに無惨な瓦礫の山と化し、今は基礎部分を掘り起こす作業が延々と続いていた。
「おい湊! ぼーっと突っ立ってんじゃねえ! ガラ袋の山、こっちに避けとけって言っただろうが!」
現場監督のダミ声が、ヘルメット越しに鼓膜を殴りつけてくる。
「……はい、すみません。今やります」
湊は乾いた声で返し、泥と油に塗れた軍手で重いガラ袋を引きずり始めた。
指先はとうに感覚を失い、腰は悲鳴を上げている。連日の深夜までの残業、いや、もはや残業という概念すら崩壊した違法スレスレの労働環境。ブラック企業という言葉すら生ぬるいこの土木下請け会社に入ってから、湊の生活から「希望」という文字は完全に消え失せていた。
ただ、生きるために働く。息をするように、怒鳴られ、頭を下げ、泥をすする。
(俺は、何のために生きてるんだろうな……)
ふと、ガラ袋から手を放し、汗を拭いながら夜空を見上げた。
排気ガスと砂埃で淀んだ都会の空気の向こうに、場違いなほど澄み切った満月が浮かんでいた。煌々と輝くその光は、泥に塗れた自分を冷たく見下ろしているようにも見えた。
その時だった。
『ガキィィィィンッ!!』
突然、現場に金属が激しく軋むような、異様な甲高い音が響き渡った。
地面を掘削していたショベルカーが、何か硬いものに激突して急停止したのだ。重機の先端、バケット部分から火花が散ったのが見えた。
「なんだ!? 水道管か!?」
監督が血相を変えて飛んでくる。ショベルカーのオペレーターも顔面蒼白で運転席から身を乗り出した。
「ち、違います! 図面には何もないはずの深さなんですが……何か、デカい石みたいなものに当たって……!」
「アホか! 地中障害物ならそう言え! 工期が遅れたらどうすんだ!」
舌打ちをした監督が、一番近くにいた湊を顎でしゃくった。
「湊、お前ちょっと下りて見てこい。コンクリの塊か何かだろうが、傷の具合を確かめろ」
「……はい」
湊は懐中電灯を手に、掘り返された赤土の斜面を慎重に下りていった。
すり鉢状に掘られた巨大な穴の底。重機のバケットが爪痕を残したその場所に、奇妙なものが露出していた。
「なんだ、これ……?」
コンクリートの塊ではなかった。それは、巨大な『結晶』だった。
高さは二メートルほどだろうか。表面は土に汚れているが、わずかに露出した部分は、ガラスとも宝石ともつかない透明度を保っている。そして何より異様なのは――その結晶そのものが、内側から淡い銀色の光を放っていることだった。
「監督……これ、石じゃないです。なんか、光ってて……」
湊が声を張り上げようとした、その瞬間。
——ピキッ。
微かな亀裂音が、穴の底に響いた。
ショベルカーがぶつかった衝撃のせいだろうか。巨大な結晶の表面に、蜘蛛の巣のようなヒビが走り始めた。
「おい、湊! どうした、報告しろ!」
上からの監督の怒声が、急に遠く聞こえた。湊の目は、目の前でひび割れていく結晶から離せなくなっていた。
光が、溢れ出してきた。
投光器の無骨な光とは違う。それはまるで、頭上で輝く月明かりをそのまま凝縮したような、冷たくも優しい銀色の光だった。
結晶のヒビは瞬く間に全体へと広がり、そして。
『パァンッ!!』
ガラスの破片が弾け飛ぶような甲高い音と共に、結晶が砕け散った。
湊は思わず腕で顔を覆う。だが、破片が突き刺さるような痛みはなかった。砕けた結晶は、空気に触れた瞬間に光の粒子となって溶け、ふっと消え去ったのだ。
海風が吹き込み、舞い上がった粉塵が晴れていく。
沈黙が落ちた。重機のエンジン音さえ、なぜか今は聞こえない。
湊は恐る恐る腕を下ろし、前を見た。
そして、息を呑んだ。
結晶があった場所。砕け散った光の残滓の真ん中に、一人の『少女』が倒れていた。
いや、少女と呼んでいいのかもわからない。
月光の糸で編まれたような、細く艶やかな銀色の長髪。透き通るように白い肌。華奢な体には、見たこともない滑らかな布地でできた、古代の神官が着るような純白の衣服を纏っている。
だが、何よりも湊の目を釘付けにしたのは、彼女の銀髪の間から覗く、長く尖った耳だった。
(エルフ……? そんな馬鹿な……)
ここは現代の日本だ。しかも、重機とコンクリートに囲まれた無機質な建設現場の泥底だ。
ゲームやアニメの読みすぎで頭がおかしくなったのだろうか。過労が見せた幻覚に違いない。そう自分に言い聞かせようとしたが、潮の入り混じった土の匂いも、夜の冷気も、目の前に横たわる彼女の放つ圧倒的な存在感も、あまりに生々しかった。
その時、少女の長い睫毛が微かに震えた。
「……ッ」
ゆっくりと、瞼が開かれる。
現れたのは、深い森の湖畔を思わせる、澄んだ翠緑の瞳だった。
少女は上体を起こし、ぼんやりと周囲を見回した。
高くそびえる鉄骨の残骸、見たこともない巨大な鉄の獣(重機)、そして、眩しすぎる人工的な光。彼女の顔に明らかな戸惑いの色が浮かぶ。
やがて、その翠緑の瞳が、泥だらけの作業着姿で呆然と立ち尽くす湊を捉えた。
その瞬間だった。
少女の瞳が大きく見開かれ、呼吸が止まったかのように静止した。
戸惑い、驚愕、そして――張り裂けんばかりの歓喜。
「……あ……」
少女の唇が震え、透き通るような声が零れ落ちる。それは、湊がこれまで聞いたどんな楽器よりも美しく、悲しい響きを持っていた。
彼女はふらつく足取りで立ち上がると、足元の泥濘など気にも留めず、湊に向かって一歩、また一歩と歩み寄ってきた。
純白の衣服の裾が泥に汚れ、銀色の髪が風に揺れる。
「おい、君……ここは危ない、それに……」
湊が後ずさりしながら声をかけようとしたが、言葉は最後まで続かなかった。
少女が弾かれたように駆け出し、湊の胸に飛び込んできたからだ。
「――っ!?」
泥だらけの湊の作業着に、彼女の純白の衣がこすれる。だが少女はそんなことなど一切気にせず、湊の背中に細い腕を回し、しがみつくようにきつく、きつく抱きしめた。
かすかに甘い、花のようないい匂いがした。
そして、湊の胸元に顔を埋めた彼女の肩が、小刻みに震え始める。
「あぁ……ああ……!」
それは、堰を切ったような号泣だった。
何百年、何千年と堪え続けてきた感情を、ようやく吐き出すかのような、痛切な泣き声。
湊は両腕を宙に浮かせたまま、完全に硬直していた。なぜ自分が、見ず知らずの、しかも常識の外側にいるような美しい少女に抱きしめられ、泣かれているのか、全く理解できなかった。
「ようやく……ようやく、お会いできました……!」
少女は湊の胸にすがりつきながら、顔を上げ、涙で濡れた翠緑の瞳で湊を真っ直ぐに見つめた。
その顔には、信じられないほどの愛おしさと、切なさが溢れていた。
「私です……あなたのリィエルです……!」
「……え?」
「ずっと、ずっと待っていました……。あなたが再び、この世界に生まれ落ちる、この時を……ッ!」
ポロポロとこぼれ落ちる大粒の涙が、湊の汚れた作業着の胸元に染み込んでいく。
彼女の体温は、冷え切った湊の心臓の奥まで届くほど、酷く温かかった。
「……私の、たった一人の勇者様……!」
頭上では、あの日と変わらない満月が、抱き合う二人を静かに照らし出していた。
こうして、泥と油に塗れた空っぽの現代人の毎日に、決して交わるはずのなかった2000年前の時間が、静かに、そして劇的に流れ込んできたのだった。




