「文系・理系」を言い訳にしないで欲しい。
なかなか辛辣なことを書くつもりなので、あまり強い言葉は見たくないという方は、ぜひともブラウザバックしていただきたい。
まあ……タイトルから言いたいことは分かるだろう。
私の周り、あるいはインターネット上で、たまに聞くセリフである。
「私は文系だからさぁ」
この一言が放たれる場面は、おおよそ決まっている。数式が出てきたとき、仕様書が回ってきたとき、あるいは「それ、どういう理屈?」と問われた瞬間だ。
このエッセイを書こうと思った契機は、「文系であること」を理由に、考える責任から一歩引こうとする人に出会ったことだった。その人は、私が「文系だから論理的思考や計算ができないのだ」と、当然のように受け入れると思っていたのだろうか。
もちろん、深く考えるようなことではない。
しかしここはエッセイの場だ。一度だけ立ち止まって、考えてみたい。
本当に「文系」ならば、論理的思考や計算は苦手なのか?
……私の考えは察しがつくだろう。
「否」と思っていなければ、こんなエッセイは書いていない。
そもそも、日本で言われる「文系・理系」とは何の区別なのか。
一般に文系とは、人間の活動を研究対象とする学問を指す。その中で、社会における人間行動を扱うものは社会科学と呼ばれ、経済学、法学、政治学などが含まれる。その他に分類されるのが人文科学で、哲学や文化人類学、心理学などが代表例だ。
もっとも、この分類は世界共通というわけではない。国や大学によっては、日本では文系とされがちな学問が、自然科学や数理科学に近い分野として扱われることもある。経済学や心理学は、その典型例だろう。
一方の理系は、自然界を研究対象とする学問、いわゆる自然科学である。高校教育における文系・理系の分かれ目は、「社会」か「理科」かの科目選択もあるが、やはり「数学」の扱い方によるだろう。この科目はやはり、理系の研究分野全般と相性が良い。世間一般で言われる「理系かどうか」は、数学の得手不得手を指しているのかもしれない。
ただし、数学の高度な理解が必須かと言われれば、必ずしもそうではない。中には、半ば作業のような実験を繰り返すうちに大学生活を終える人もいる。この点に深入りするのはやめておこう。
では、ここまでの整理で文系・理系はきれいに分類できただろうか。
文系の学問に従事しようとした人が文系、理系の学問に従事しようとした人が理系。これで十分だろうか。
……またしても「否」だと私は思う。
例えば、文系に分類される経済学は、突き詰めるほどに数学的素養が不可欠になる。文化人類学や心理学でも、生物学、脳科学、遺伝学など、理系分野と密接に結びついた研究はいくらでも存在する。文系の学問に携わっているからといって、数学や理科の知識が不要になるわけではない。つまり、「文系=理系科目が苦手」とはならないはずだ。
また、研究方法についても文系と理系は大きく違うわけではない。
行動心理学の卒論を例として挙げてみよう。その文系の大学四年生は、人々のファッション傾向についてアンケート調査を行うとする。このとき、質問文一つ取っても、恣意が混じれば結果は狂ってしまう。数字が集まったからOK……ともならず、統計処理や調査設計といった、きわめて理系的な作業が不可欠になる。
どの変数を切り分け、どこまでをノイズとみなすか。その判断は、感性ではなく論理の仕事となる。定義を誤れば、以降の議論はすべてが無駄となる。前提を一つ置き違えただけで、結論は正反対になりかねない。
数式が表に出てこないだけで、結局は文系科目でも、論理的思考が不可欠なのだ。むしろ、記号に逃げられない分、言葉だけで理論を完成させる難易度は高いように思える。
つまり、「文系=論理が苦手」という主張は、学問の実態とほとんど関係がない。
少し考えれば分かることだ。
ではなぜ、そんな言葉がこれほどまでに流通しているのか。
思うに「文系(理系)なので」は、別の言葉の代替として使われている。
「私の専門外です」
これは、社会に出てからの会話の都合だ。仕事の場でも日常の雑談でも、専門的な話題は摩擦を生みかねない。「分からない」と正直に言うのは、時に無能の告白のように受け取られてしまう。そこで便利なのが、「私は文系(理系)だから」という一言だ。自身の体裁を保ちながらも、相手との会話を円滑に進めることができる。
その使い方自体は、よく理解できる。私だってたまに使う。
ただし、「私は文系(理系)だから」には、一番よくない使い方があると思う。
自身の能力を規定してしまうときに、「文系・理系」の区別を付けることである。それは、まだ試してもいない可能性に、先回りして蓋をする行為だ。
自らの不得手を「文系なので」と表現するのは、学ばない理由、考えない理由を用意しているのと同等である。文系であろうと理系であろうと、研究に携わるなら、論理的思考は日常的に使う。論文を書く行為も本質的には共通している。
主張を立て、根拠を示し、反論を想定し、それを退ける。この一連の流れは、分野が何であれ変わらない。論理を組み立てる力なしに、まともな研究など成立しない。
つまり、論理的思考が欠けているのは「文系」という属性ゆえではなく、「発話者」の責任である。もちろん、教育課程や経験の差によって、得意不得意が生じること自体は否定しない。問題なのは、その差を越えようとしない理由として、文系・理系という言葉を使ってしまうことだ。
本来、「文系・理系」は単なる研究分野のラベルに過ぎない。どちらかを選んだ瞬間に、脳の構造が変わるわけでも、使える思考回路が制限されるわけでもない。数学を避けたからといって、論理が使えなくなるわけでもないし、数式を扱えるからといって、言葉を精密に使える保証もない。
それでも、そのラベルは自己規定の呪文になりうる。
「私は文系だから数字は無理」
「私は理系だから文章は苦手」
こうした言葉を、謙遜として用いるのはいい。
しかし、正しい自己分析とするのは違うのではないか。
学問に限らない。仕事でも、日常生活でも同じだ。
仕様書を読まない理由を「文系だから」と言い、説明を避ける理由を「理系だから」と言う。その積み重ねを経て、いつの間にか「考えない人」となりかねない。
繰り返すが、文系・理系を自認すること自体には、何の問題もない。
問題なのは、その言葉を盾にして、思考や学習を放棄することだ。
もし本当に「私は文系(理系)だから」と立ち止まりそうになったら、一度だけ言い換えてみてほしい。
「私はまだ勉強していない」
「今は詳しくない」
それだけで、言葉の意味はがらりと変わるだろう。
結局のところ、「文系(理系)だから」という言葉が問題なのではない。それをどう使うかが問題なのだ。
自分の限界を説明するための言葉として使うのか。
それとも、自分の可能性を閉じるための言葉として使うのか。
私は前者でありたいと思う。少なくとも、後者の「私は文系だから」を聞いて、どうしても引っかかってしまった。「分からない自分でいること」を、わざわざ正当化する必要はないのではないか。
……まあ、そういう面倒な人間だから、こんなエッセイを書いているのだろう。




