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ピーコック・マニア  作者: 花壁
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遠き浄土へ寄せて

 孔雀の恋人として再び森の屋敷に迎えられた希世は、古宮の博物館を辞した後、そこで磨いてきた眼や、無限の探求心を以って得た知見を生かして皇国を渡り歩く美術商として働きだした。古宮やかつての叶わない恋の象徴であった華鶴の肖像から解放された彼は、感情のしがらみや無常の心境に囚われず天職を全うできるという生き生きとした喜びと、恋人と送る生活への貢献から、しばしば屋敷を空けて数日帰らないこともよくあった。鮮やかな自然が徐々に色調を変えながら深まっていき、日毎雨のように地上へと降り注いでいる、熟した葉を踏みしめる足音を聞いてか聞かずか、蔡月は気性の荒れた主人の相手でほとんど進まなかった経理帳簿を洋墨インクが乾ききらないうちにぱたりと閉じてしまうと、長く鋭い羽を揺らして玄関先へと走った。

 「お帰りなさいませ。観怜様もお待ちですよ」

 「君がここまで手を焼いていると、入りづらいな」

朝食の席から主人との半ば馴れ合いのような応酬を続けていた蔡月は、希世に甘えたい観怜が彼の帰りをずっと待っているのを知りつつ、自身の鳥を放って仕事に没頭している希世が大して悪びれもせずにいるので、自由気ままな人間への嘆息を隠さなかった。

 「数刻前にいらしていたら、より一層そのように感じられるかと思いますので。希世様は幸運な方ですよ」

 その実、苦笑している蔡月の口調にうんざりしたようなところはあまりない。屋敷の家令と孔雀の庇護者の二つの顔を持つこの青年の根幹には、やはり主人への敬虔で純真な思慕が根付いているのである。人間の一生よりもずっと長い時間を共有してきた観怜への心的依存が、手厳しい発言や対応も躊躇しない蔡月という鳥の本質である、というのが希世の見立てである。屋敷の扉を主人の恋人のために開こうという規範意識からさっと希世に背を向けた蔡月に、彼は努めて柔和な声色で慎重に切り出した。


 「今日はわたしの鳥に贈り物をしようと思って」

 葉が落ちてところどころ枝が剝き出しになった木々の間を通って吹く風に押されるようにして、希世の言葉とその意味が蔡月に届いた。陽の光を遮る厚い雲の広がる鈍色の空の下、希世が抱えているのは真新しい桐箱である。それを認識するまでの時間的遅延、視覚異常は希世の奇術によって生じさせられたのであろうか、蔡月は観怜から聞かされてはいたものの自身の常識ではどうしても信じられなかった現象に自分が掛けられたことにしばし言葉を失っていた。箱の中身は、希世も頷く技術を持った京の職人が仕立てた婚礼衣装の一式である。勅命が下ってから流れたままになっていた婚礼の儀の話題は、希世と蔡月の間で再度進められており、暦を占って日取りも決まっている。蔡月が取った当初の見積もりよりも豪奢に仕上がった衣装は、観怜がその日彼の生涯で一番輝けるようにと希世が職人と意匠を凝らし、美術商として得た金を惜しみなく投じてついに完成した、珠玉の一着となっている。

 「観怜は、君にとっても半身のような存在だろう。本当にわたしが貰っても?」

 『恋の時節』の制約や家令として受けた決定事項ではなく、蔡月という個人の意思を問う希世の瞳には、返答がなくても心の内にある真実を照射してしまうような、真剣な光が宿っている。時間をかけるほど、希世とのこうした局面における対峙においては相手に不利になる場合がほとんどだが、蔡月はその例外であるという期待が、希世にはある。希世と観怜が巡り会った日から、蔡月だろうが皇帝だろうが、二人の運命を自己の論理で断ち切れる者は存在し得ないのを分かっていながら希世がそう尋ねるのは、庇護者への挨拶であり、家令と主人という意味での今後の関係性への懸念であった。しかし、蔡月の心境は希世の想像に反して、波の無い穏やかなものであった。彼は色を濃くした秋風が肩を撫でるのを遮るように羽を横に広げて、普段の平静さを全く損なうことなく、希世の視線を透過させていた。

 「勿論。観怜様が幸せに過ごしていただけること、あの方にお仕えできることが、私の何よりの幸せなのですから。希世様が気兼ねなさることはありませんよ」

 空を重苦しく覆い尽くしていた雲の切れ間から光が降るように差してきて、緩和した空気に希世はいたく得心した、(これからも、よろしく頼む)と晴れやかな笑みを浮かべて蔡月の一貫した観怜への想いに信頼を現したのであった。観怜のためにその身と生命を張れる覚悟をこの世界で一番強く持っているという自負のあった蔡月は、自身と同じ精神性を持った、同胞の鳥ですらない人間が奇跡を起こした時、何より大切な観怜を渡す意思をとうに固めていたのである。それは孔雀という鳥への恋慕などという危うく脆いものとは対極の、崩れ得ない矜持のようなものとして、確かに希世の瞳に映った。


 希世が観怜の私室の扉を叩いて声を掛けると、内側から何かを投げつけられてぶつかり落ちた音が数段に分かれて聞こえてきた。この手の観怜ならではの入室の許可を諫める気などない希世は、遠慮なく扉を開けて投げられた寓話集を押しやると、長椅子の上で恋人の長い不在に拗ねて退屈とヒステリーをないまぜにして寝そべっている観怜に桐箱を見せてやるようにしながら彼の元へ歩み寄った。希世と対面した瞬間甘く華美な喜びを浮かべていた観怜は、希世にそれを悟られないように不満の表情と椅子の縁に指を打ち付ける動作で遅すぎる駆け引きの攪乱を試みていた。いつ希世が帰ってきてもいいように、化粧と身支度には余念のない観怜である。光沢のある生地の襟元を豊かに彩るフリルは乙女趣味のようであったが、胸のすぐ下で切り返しになる仕立てと合わせて希世の未来の細君である観怜によく調和しているといえる。紫に近い紅色を基調として描かれた草花の柄の描き込みに感心しながら、観怜の反応をつぶさに伺っていた。

 「そんな顔をされるとは心外だな。君に贈りたいものがあって持ってきたのに」

 素直さとは遠く離れた位置にあるこの拙い演技に一応付き合っている希世の言う『贈りたいもの』に興味を示してか、(そういうことなら、見てやらなくもない)と途端に機嫌を直してしまった観怜は、ひらひらとした洋装の裾から覗く足首を擦り合わせるようにして長椅子から緩慢な動きで降りると、希世に近寄った。希世はよく手入れされている本黒檀の大机の上に桐箱を置いて紐を解くと、彼の背を抱くようにしながら観怜の手に触れて、一緒に蓋を外してやった。

 「新しい着物?」

 「婚礼衣装だ。君に当日着てもらう。……それはわたしからの婚約の贈り物でもある」

 観怜は鮮烈な光を蓄えている金地に白が差し込まれた羽織着物をつまんで取り出すと、それを広げてまじまじと見入った後、肩に掛けてくるりとその場で回転すると、花開くような愛らしい微笑を希世に向けた。幸運の象徴である伝統の赤の下掛着物と合わさった姿に想像を働かせているのは、希世だけではなく彼の伴侶たる観怜も同じであった。皇国のしきたりで、婚礼衣装と宝石や装身具を交換するのが婚約の段取りとなっている。この衣装を受け取ることが、婚約の正式な成立となる。人間に娶られるという定められた運命を、孔雀という種として生まれたことに依拠する誇りと、無性に自分を可愛がる遊戯に興じているような希世との関係性の変化への恐怖から心情的に拒絶していた観怜だが、彼の持つ希世という人間の捉え方は、出会った当初から魔術空間での戦いを通して確かに移り変わって成長するに至っていた。そして、観怜の希世と片時も離れたくないという本心、恋人に身を委ねて獰猛な熱情に溺れたいという危険な欲望を解放するのは今この時だと、緑一面に囲まれた壁の中、彼は羽の内で動く百の目の強い意識に決心したのである。


 「ぼくが今更お前のお嫁さんになるのを断ると思ったのか? ……希世」

 希世の名を呼べる小さな幸福にはにかみを隠せない観怜が、足を意図的に踏み外したようにして恋人の胸元にしなだれかかると、彼の立派な羽を含めた体重ごと身体を抱き込む利発な希世の奥底に揺らめく情火が見えたような気持がした。互いの好みの香料が混ざって流れるような近い距離での、言葉を必要としない濃密な一瞬の交流の後、つい先程まで飴細工を溶かして味わっていたような観怜の、艶の乗った唇が、希世の唇に熱と共に触れたとき、そうなることが決まっていたかのように、呼吸をするのも忘れて恋人たちは目を閉じてしばし沈黙していた。

 「これはまた、可愛い返礼だな」

 初めての口づけを自分から贈る機会を逃した希世は、どこか照れ隠しをしている少年のような、青い若さに満ちた万感の表情を浮かべて、恋の喜びに満ちた観怜の目元に流れる、激しい気性と優しい艶美の織り成す新たな色彩の華やぎを飽きることなく愛しく見つめていた。輪のような編み込みが冠のように頭を囲んでいる、観怜の柔らかな金糸の前髪の束に希世が指で触れるたび、観怜はくすぐったそうに目を細めた。希世は観怜を包み込むように抱き寄せて、額を鳥の熱い頬に寄せた。

 「観怜、君を想えばこそ、わたしが『希世』になれる。君のために生命を尽くせること、君がここにいること、……わたしも君の隣で生きていること、全てが嬉しくて仕方がないんだ」

 もう一度、の合図は人魔の境界線に立つ希世の魅惑に誘う目によって開始された。唇に移った、観怜の愛用している口紅の独特の味を舌先で舐めとっている希世の挑発的な仕草に、観怜は背を覆う長さの髪を無造作に手でまとめながら白い首を露わにして、ほんの少しの角度をつけて顎を上げることで反応した。魂のより深い海に引き込み合うような、恋人たちの戯れの勝者が果たして希世と観怜のどちらになるのか、目撃した者は誰もいない。ただそこに存在しているのは、二人の世界と、鳥と人間が分かち合える何よりも輝かしい時間だけであった。


 ……吉日と占われた婚姻の儀の日を無事に迎え、正式に孔雀を娶った希世は、今までは観怜が一人で使っていた広い寝台の上で、浅い眠りの波長から朧気な意識を引き上げていた。夕方から降り始めた雪はその気勢を強めており、吹き付ける風の音だけを残して、屋敷の周りの生命の音を全て消してしまうかのようであった。自身の腕枕に金色の髪の跡を残すように小さな頭が乗っているのを眺めている希世は、先刻の甘美な情緒のある疲労感から寝返りも打たずに伴侶に身を寄せて眠るばかりの観怜への憐憫と醒めない陶酔を、孔雀の息づく羽の緑に思っていた。希世が冬の入りにしては薄着である、麻の浴衣で朝を待っていても、触れ合った箇所から溶け入ってしまえるかのような孔雀の肢体の持つ体温に暖められているので、夢の続きを現の世界でも見ている心地がするのであった。

 希世が腕の痺れと忍耐強くまどろみの中闘っていたとき、奇術のもたらす超感覚を得た彼にだけ知覚できる空遠くの轟音が耳を打った。隣国が皇国への威嚇、あるいは攻撃のために飛ばしている、空中を飛ぶ科学機械の夜間の哨戒に伴うこの音は、古宮の監視塔に立って物思いに耽っているときによく聞いたものであった。森の屋敷で観怜と生活するようになってからは一度も聞くことの無かったために希世の思考から失われかけていた警告は、戦争の足音が皇国に近づいていることの何よりの証左であった。皇国を守護する皇帝の魔術が弱まっているのか、隣国の産業機関の発展と隆盛があまりに早すぎるのか、希世は急に冴えだした回路で様々な推測を立てていた。


 「……起きてるのか?」

 身体の芯に残る感覚としての痕跡から、過激な色で希世に釘付けになっていた百の目がようやく鎮まった羽を閉じて眠っていた観怜も、希世の腕の緊迫した動きに揺すられて起き出したようである。彼は希世に引き出された特有の甘さの残った声で、何か些末な問いを続けて口内で呟いた。希世は乱れた寝具の上に身を投げ出している、観怜の顔にかかる髪をよけてやりながら、暗闇の中にも白く光るような自身の花嫁を見つめていた。

 「君の寝顔を見られるのは、わたしの特権だから」

 希世はどこまでも永遠の恋人の顔をしており、彼が皇国の辿るであろう道を垣間見た事実は、心を読む孔雀の魔性の羽ですらも見通すことはできない。希世が観怜の羽に手を伸ばそうとすると、彼は自身のものでないような真新しい記憶を思い返して、急速な瞬きで群青の瞳に初々しい嘆願を現した。希世は観怜に引っかかれた小さな傷を見せるようにして反撃を見せながら、今も続く天上を飛ぶ科学機械の音を確かに心に捉えて、観怜と生きる浄土の世界があとどのくらい残存し得るのか、不安定な試算を淡々と行っていた。

 「希世、ずっと一緒に……」

 観怜の囁きは、希世の生涯の望みそのものでもあった。希世の脚に自身のそれを絡めるようにしてきた観怜を抱き締めて目を閉じている希世は、恋人との満ち足りた夜の一時を謳歌しているというより、自身と伴侶の未来に差す可能性のある影への不安をどうにか慰めようとしているところがあった。孔雀の伴侶である希世との幸福な生活を盲目に信じている観怜は、希世の抱擁を深い愛情の現れと感じて、輝くもので胸を一杯にしていたのである。

 「――そう、わたしを信じて」

 皇国の運命など知る由もない観怜は、希望に溢れた明日を希世と迎えられるという心情に包まれて、安堵のもと羽を伸ばしきって緑の影を希世の頭上に一度開閉すると、再び夢の中へ戻っていった。夜空に瞬く天体の星のように百の目の群青の一つ一つを見上げた希世もまた、その生命がある限り観怜の傍を離れないという哲学命題の完遂を、あの美しい色彩の羽、恋人が自身に捧げる気高く何よりも純粋な心に誓うのであった。観怜の金糸の髪に唇が触れるか触れないかの繊細な口づけを贈った希世は、光を失い遠ざかる浄土に思いを馳せて、有限の幸福に耽溺する孔雀愛好家の意識を持つ、新たな『希世』に出会えるような、そんな気持を感じていた。庭先では桃や黄色の洋蘭を沈めるように雪が降り、希世という人間の心境と調和したような、音の無い静謐な世界が新生して、それこそが恋人たちがつかの間魂の眼で見ることのできる、遙か彼方の浄土の地であるかのようであったのである。


ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。

評価ポイント、いいね、感想などお寄せくださいますと大変励みになります。

今後も投稿を続けて参りますので、他の作品も含めまして何卒よろしくお願い致します。

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