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ピーコック・マニア  作者: 花壁
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10/11

我が鳥に捧ぐ

 壁画を通って魔術空間を抜けた観怜と希世は、薄雲が澄明な月を遮る夜、森の屋敷の庭園に咲く花々の中に落下することとなった。時間の流れる方向すら歪んだ落果軒の外の風は京よりも冷えて、観怜の羽の毛先の隙間を撫でるように吹いていた。不変の平穏を象徴するように周辺に漂う生花の濃密な香りを起点に、着地の際下敷きにした希世の服の胸元に化粧の粉を擦りつけるようにしながら、しばしぼんやりとしていた観怜の思考は呼び戻された。希世が本当に皇帝から自分を救い出してくれたという事実、華鶴の縁深い人間たちへの清廉な想いが成した顕現に胸を一杯にしながらも、観怜は恐る恐る希世の流麗な線をした首を見やった。その喉の動きは呼吸を確かめるには小さすぎたので、観怜は慌てて希世の身体を揺さぶった。

 「起きろ、ぼくを救ったって、お前が代わりに死んだら意味がないんだ」

 希世の顔には皇帝との対決の名残である緑の痕跡が残っており、彼の眠りは過剰に間延びしていて、心臓を締め付けられる心地がしている観怜の宝珠のような瞳に涙を浮かばせてしまうに至った。彼は希世の生命の鼓動を確かめる最後の手段として、主と同じく憔悴している百の目に意識を集中するため羽を広げようとしたが、鳥であることを忘れてしまったかのようにぎこちない開閉を悠長に繰り返すのみであった。しかし彼の戸惑いの羽ばたきは、主人への心配を募らせて目の隈を濃くしていた同胞の家令を庭園に呼び寄せたのである。

 「観怜様……? よくお戻りに!」

 駆け足で主人に駆け寄った蔡月は、家令の立場も忘れて、観怜と同じ目線で肩を並べていた懐かしい日々に戻ったかのように弛緩した主人の手を強く握って歓喜していた。従者としての線引きした意識で自己を構成している厳格な蔡月が、こんなに感情を露わにするのは何時ぶりだろう、と観怜が蔡月との再会に彼と過ごしてきた長い時間を回想するのもつかの間、彼はぱっと蔡月の手を払ってしまうと、希世を屋敷に入れて治療すべく彼に肩を貸すようにして担ごうとしていた。

 「蔡月、希世が……ぼくは大丈夫だから、希世を助けて」

 希世がこのまま目覚めなかったら、と強い不安感に襲われている観怜の、この世で生きる限り片時も恋人と離れたくないという揺るがない想いに夢中になっている瞳の中に、蔡月は映っていない。観怜がずっと一緒に生きてきた自分から旅立っていく予兆は、この時現実のものとなり、蔡月は感じたことの無い鈍い胸の痛みが沸々と湧き上がるのを月明かりにも暴かれないよう家令の流儀で完璧にしまい込んでしまうと、観怜と逆側から希世を担ぐのを手伝うことにした。

 「観怜様を救ってくださった希世様は、私にとっても恩人ですから。全力を尽くします」

 それは蔡月の心からの謝意であり、きっと希世という人と魔の境界に立ったような人間になら、彼が眠りながらでもそれが通じると確信していたのである。


 古宮での一幕、皇帝との対決の帰結、そして希世の使ったあの顔料について、観怜からとめどなく繰り出される、要点を欠いたうえ時々もつれる情報の意図を苦心することもなく繋ぎ合わせた蔡月は、人間の希世を蝕む顔料を即座に落として、京から医者を招いた。相場より多くの金を握らされた、粗野で痩身の医者曰く、眠りながら生きて毒の治療を行っている状態だと思われるが、皇国医学でははっきりとした説明が付かない、まさしく神秘の奇術にでも掛かったかのような状態とのことであった。観怜も見たことの無かった、貞節な希世の、露わになった色香の漂う張りのある肩や胸は、外見上時間や代謝が停止しているかのように綺麗なままであったので、不確かで無責任にも感じられる医者の言葉に観怜も納得せざるを得なかった。観怜は希世がいつ目覚めるのか見通せない不満の中に、初めて目の当たりにした恋人の身体に少々の気恥ずかしさを覚えて、白檀扇子の深く香る香木で熱を醒まそうと乱暴に扇いでいた。それ以来、希世の部屋として割り当てられた来賓室が、観怜や蔡月の生活の中心となっていた。希世を取り残したまま、屋敷での日常が流れていくのを観怜が恐れていることは明白だった。観怜は日夜相変わらず気持の些細な揺れから使用人に我儘を言って困らせたり、蔡月の半ば嫌味のような諫言に逐一反抗したりしていたが、眠る希世の隣にいる時だけは、観怜の艶やかな蠱惑の瞳にも影の落ちたような、張り詰めた感情が浮かんで、彼の傲慢さを覆い隠しているのを蔡月は注意力を働かせずとも見ていたのである。


 希世は三月ばかりも目覚めずにいた。蔡月と共に屋敷の日常を取り戻そうとしていた観怜の精神は次第に不安定さを増して、希世の存在を薄れさせないようにすることだけに執心するようになっていた。鳥と人間を繋ぐ、種の枷は、観怜にとっては自身の生命と同じだけの価値があるのである。彼は強硬に命令を下して寝椅子をもう一つ来賓室へ運んで来させると、そこに春を湛える肉体を横たえて、夜の下で過敏になった羽の神経の反応に苛立ちながら、その嵐をやり過ごすべく恋人をじっと見つめていた。黒を基調とした絹衣の重ねと袴に、紺の紐帯という、肌の見えない禁欲的な服装に包まれている希世の身体を一度見たときの生々しく鮮烈な記憶が、百の目の一つ一つを煽って焚きつけている生物原理を観怜は知覚していない。来賓室に置き去りにされたような古い調度品や家具の持つ独特の匂いがそうさせているのだ、と柱時計の規則的な秒針の音に的外れな結論を出した観怜は、硝子洋灯の装飾が透かす明かりの揺らめきに視線を移したが、やはり落ち着きのないまま、金糸の髪を編むようにもてあそんでいた。凝った髪型に挑戦したところであまりに大雑把で稚拙な出来になる自覚は観怜にもあるので、彼は真剣に取り組む気もなかったが、ふときらめく湖畔での逢瀬を思い起こすと、手櫛をする手を急に止めてしまった。希世に触れてほしいのに叶わない、恋の辛苦に悶える羽を伸ばしきった観怜は、寝椅子の上で重ねた脚を這わせるように伸ばして、身体に内包する熱を逃がしていた。うつ伏せになって自身の腕に顔を乗せている観怜は、浅い呼吸を不規則に繰り返して長い夜が終わるのを待っていた。

 ……寝ているのか起きているのか、その狭間にいるのか、観怜の曖昧な意識が完全に覚醒したとき、彼の傍にいたはずの希世の姿は忽然と消えていた。観怜は寝椅子から飛び降りて部屋中を見渡して、恋人がいないことを確かめると、衝動的に来賓室を飛び出していった。夜明けの張り詰めた空気が屋敷全体に満ちる中、観怜は靴も履かずに希世を探していた。使用人たちはまだ誰も起きておらず、辺りに人の気配はない。(希世、どこにいるんだ)食材庫で果物の砂糖漬けを堂々と食べている希世、はたまた遊戯場で絵札を広げて、その図柄を一瞬にして変えてしまう手品を使っている希世、といった想像を、屋敷を巡る度に広げては無人の空間に落胆する観怜が最後に辿り着いたのは、希世との運命的邂逅をもたらしたあの庭園であった。(……希世に会いたい)観怜の胸の奥底に残ったその願いが、吸い込んだ外気に反応したかのように甘やかで鈍い痛みを生じさせた。これから新たに迎える季節に合わせて溢れる生命を天へ開くため密集して並んでいる花のつぼみの数々と共に彼が目にしたのは、久方ぶりに踏みしめた地に凛と背を伸ばして立つ、何よりも待ち望んだ希世の姿であった。


 観怜に振り返った希世は、神秘的で美しい微笑を見せて、そっと恋人をその胸に誘った。希世の元へ駆け出す観怜の足取りは力強く、空を飛ぶにはあまりに大きく重たい、絢爛な緑の羽で今にも羽ばたくのではないかと思われた。恋人たちの情感に溢れる抱擁は、二人の間に流れる痛切な熱気を分かち合った。観怜の柔らかい金の髪が、頬に触れる感覚に、希世は孔雀と共にある新たな生を得た喜び、彼に希世という存在の全てを明け渡してしまえるほどの信心で満たされていた。希世が観怜の髪や耳、頬に細やかな指遣いで触れるたびに、観怜はどこか秘境に咲く花のような恥じらいの媚態を見せ、希世が孔雀へ抱く浪漫や抑えがたい熱情を激しく色づかせた。視線の交換、触れ合った身体から恋の駆け引きを言葉も無く始めた観怜は、すぐにでも観怜を征服してしまいそうな希世とは意味の異なった激情で恋人に挑んだ。

 「皇帝のところに乗り込んで、助けてくれたと思ったらずっと眠って……ぼくがどれだけ不安になったと思ってるんだ。お前はぼくに会えなくなっても良かったのか。……ぼくから離れないって、言ったのに。あの鶴が現れなかったらどうするつもりだったんだ」

 「心配をかけてすまなかった」

 言葉を続けようとして声を詰まらせている哀れな孔雀の心を慰めるように、希世は恋人にしか向けない、暖かく空気に溶け込む声色で詫びた。

 「皇帝に勝つ算段なら、あった」

 希世が観怜の、先日皇帝に毟られた後やっと隙間を埋めるように生え始めてきた羽を、恋人同士の規範に則り指を通して撫でたので、観怜は羽を開くのと同時に反射的に腕を振り上げた。しかし観怜の頬に朱が差す反応も含めて予測していた希世に、運動の習慣のない手首をぱっと掴まれたため、観怜は静かにその慧眼を以って孔雀の心を読んでいるかのような希世に従わざるを得なくなった。昂る神経を何とか鎮めようとしている観怜の不遜な碧眼を涼やかに覗き込んで、希世はさらさらと砂の落ちるような調子で種明かしを始めた。

 「君がいつだか、夜にわたしの元へ訪れたときに落とした羽……あれには神経毒の効力を遅らせる効果がある。その羽に少し奇術を掛けて、肌身離さず持っていたんだ。皇帝の魔術さえ無力化できれば、あとは残った君が落果軒を抜け出して、わたしも目が覚めたら追えば切り抜けられるというわけだ」

 「羽に奇術……あの夜の……」

 希世は自分が百の目に晒されたことを孔雀の羽という物証によって知ったうえで、それを利用し、機転を利かせて顔料の呪いから生還する手口トリックを作り出したのであった。しかし、彼が語るような芸当に挑む勇気、それを成立させる奇術という名の、皇国の歴史の中で失われたかと思われた神話、それらは観怜の理解をあっさり逸脱していた。神妙な面持ちで言葉を失っている観怜が長い睫毛に縁取られた目を伏せている隙に、希世の形良く揃った指の間にいつの間にか挟まれていた、早咲きの一輪の白い芙蓉が観怜の髪に差し込まれていた。(ぼくに何かした?)という、薄く重なる花弁を乗せられたのに気づいていない観怜の無垢な表情に、希世は何か眩しいものを覗いているような気持で、瞬間不自然に止まっていた息をふっと吐いた。ほんの少しばかりある観怜の思慮が、(あんなことをやってのけるなんて、希世は本当に人間なのか?)という興味本位の致命的な問いを避けさせていた。恋人たちの逢瀬に息を潜めている花や風に、希世は魂の内からようやく巣立っていった華鶴の幻影の外枠を見ていた。

 「華鶴があの場に現れた理由はわたしにも正確には分からないが、恐らく、鳥と人間は真に想い合えると伝えたかったのではないか、と思う」

 「……そうか、ぼくもそんな気がする」

 夜空から落ちる星々のような煙たい光の下、種の血に従って鳥を求めて獲得することと、その鳥を愛することを思考の上で結び付けられなかった希世や、恋人の空虚な心の表面を読みとっただけで絶望に囚われた観怜を、華鶴は諭したかったのかもしれない。観怜は小さく頷いて、睦言を希世が次に紡ぐだろうという予感にときめく胸中を知られないように視線を周囲の木々の中に避けようとしたが、矢の先のように相手を射抜いてしまう力のある希世の瞳に見つめられていることに気付いて、瞬きを繰り返すばかりであった。

 「君といる明日だけを願って、ここまで生きて来られたから。……わたしの生命の時間を、君だけのために使わせてほしい。わたしを『人間』にしてくれてありがとう、観怜」

 この世で最も煌びやかな鳥である孔雀の元に跪く希世は、やはり誰よりも幸福な人間であった。『恋の時節』が希世と孔雀を結び続けて、終焉まで愛情を分かち合う限り、彼が奇術に飲まれることはない。種族間の血に刻まれた束縛は悲劇の始まりではなく、希世を希世たらしめるための至上命題であったのである。自身の生命や存在の意義というものの全てを観怜に見出した希世は、麗しい恋人が様々に表情を変えているのを想像しながらも、未だどこかで自分が愛されるに値しない、『人間のような何か』だと拒絶されるのではないか、という恋の憂慮を抱えていた。止まっていた風が少しだけ温んだ空気を運んで、また数秒の沈黙の後、希世の頭上に広げられた緑の羽が朝の弱い光を遮った。

 「……今度ぼくを一人にしたら、本当に嫌いになるからな。ずっと大切にしろよ、約束だからな!」

 希世が顔を上げると、上気した頬ごと隠すように口元を手で覆っている観怜と目が合った。恋人の想いをしかと受け取った観怜は見え透いた照れ隠しでどうにかそう言い切ると、心を読むためではなく、一人の人間を誘惑するために百の目の潜むその羽を開いていた。いま想いが通じ合った恋人たちの見る美しい世界が、色彩を新しくして輝いている。(孔雀、孔雀の目……)孔雀の放つ無意識のコケトリーに絡めとられて、その暗示を読み解いている希世は、眼下にある観怜の、平たい足の甲の上に指先を走らせた。

 「威勢の良いことだが……それで? あの夜、わたしに何を求めていたのか聞かせてもらおうか」


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