『欠字(ミッシング・レター)』――貴方のいない世界は、ただの白紙です
王宮が崩れ、豪華な床が消え、後に残ったのは底知れぬ「インクの海」だった。リリアーヌは、真っ暗な水面に一人、立ち尽くしている。
「カイル様……? どこにいらっしゃいますの?」
呼びかける声は、波紋一つ立てずに虚無に吸い込まれていく。ふと見れば、自分のドレスの裾が、黒いインクを吸ってじわりと解け始めていた。この世界が、リリアーヌを「不要な記述」として消去しようとしているのだ。
「……あら。私の存在を、ここで終わらせるおつもり?」
リリアーヌは黄金の万年筆を強く握りしめた。指先は震えている。それは恐怖ではなく、校閲者としての、そして一人の女としての激昂だった。
闇の中から、無数の「文字」が浮かび上がってくる。『騎士』『忠義』『刃』『守護』……。それは、カイル・ヴァン・レガリアという男を構成していた、断片的な設定の成れの果てだ。
「……これ、は……」
リリアーヌは、流れてくる『騎士』という文字にそっと触れた。だが、指先が触れた瞬間、その文字は冷たく弾け、ただの黒いシミへと変わる。
「……違う。これも、違う。……こんな無機質な記号の中に、私のカイル様はいらっしゃいませんわ」
カイル様が分解される直前、リリアーヌの手に残ったあの「体温」。名前を呼ぶ、あの「かすれた吐息」。それは、どんなに優れた物語でも記述できない、この世界における『最大の誤植』。そして、リリアーヌだけが知る、彼を彼たらしめる唯一の「真実」だった。
「どこ、どこですの……。カイル様……ッ!」
膝をつき、インクの海に両手を沈める。黄金の瞳が、狂気と哀しみに潤み、ドレスが黒く染まっていく。
「……見つけ出しますわ。たとえ、この物語の全ページをめくり、全ての文字を解体してでも……! 私が『良し』と認める結末に、貴方がいないなんて……そんな『落丁』、許しませんことよ!」
リリアーヌが万年筆を海に突き立てた瞬間、インクの底から、一つだけ「熱」を持った文字が浮かび上がってきた。それは、彼女の名前の一文字――『リ(Li)』。彼が最後に呼んだ文字の海に零した、祈りにも似たインクの雫。
「……。見つけましたわ。……私の、消せない『一文字』」
リリアーヌの指先が、その文字を慈しむように拾い上げる。だが、彼女は確信した。この一文字さえあれば、自分はどんな地獄の物語であっても、彼を「書き直す」ことができるのだと。
第042話をご覧いただき、ありがとうございました。
最強の校閲者であるリリアーヌ様が、初めて見せた弱さと執念。 バラバラになったインクの海で、カイル様が最後に残した一文字『リ』を拾い上げるシーンは、執筆していて思わず熱くなってしまいました。
もし今回のリリアーヌ様の奮闘に「心打たれた」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援いただけますと幸いです!
皆様の星(評価)のひとつひとつが、リリアーヌ様の万年筆に宿る「黄金のインク」になります。




