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月の輝いた夜に

 心残りが一つ消え、彼女は孤児院の裏手の壁を登り、森の際に繋いである馬を牽いていた。

 さあ、これからどう生きよう。

 すでに身軽になった。どこへなりも行けるのだ。

 肺に取り込まれる空気は清々しく、冷たい。月は澄んだ空の上に浮かび、夜の世界をぼんやりと映し出している。


 彼女は思いついて馬を孤児院の門前の柱に繋いでおいた。たとえリリーローズがここに戻らなくとも、朝には誰かが馬の耳に入った特殊な金具の形に気づいて邸に届け出てくれる。

 馬は不平そうに頭を左右に振った。自分も連れていけ、と言いたげだが、彼女が背中を撫でるとおとなしくなる。

 夜道を歩けば、はらわたを散らばらせた狐の死骸が草むらに埋もれていた。首に紐が括り付けられていた。腹にはナイフが入った痕がある。人間は乱暴なことをするものだと思う。

 孤児院から少し離れた森の入り口に立つと、ほう、ほう、とどこからともなく梟の声が響く。時々、風がさっと吹いて、木々のざわめきの音を外に運んできた。

 昔から馴染んできた森だが、昼間の明るさと月明りの下では風貌がまったく変わる。リリーローズはこれほど神秘的な森を見たことがなかった。

 しばし、森が気まぐれに開けた口を前に佇む。不思議と怖さは感じなかった。あるべくしてリリーローズはここに至った。そんな気さえしてくる。

 偶然切り離された木の葉が地に落ちるほどの時間が経つ頃には本当はもっと早くに来たかったのだと確信する。たまらなくなって、人間でない言語を喉から発した。まるで狼たちのように、天を仰ぎながら。

 走れ!

 誰かにそう命ぜられた気がした。身の内から無尽蔵に湧き出してくる衝動は熱く、大きすぎてとてもそれを溜め込んだ腹を膨らませたままでいることができない。

 走れ! 

 リリーローズもそう叫び、森に飛び込んだ。しかし、人の言葉を半ば忘れてしまったのか、それはまるで意味をなさないくぐもった音声でしかない。辻風のように走る彼女にはどんな声も後方へと押し流される。

蛇行する獣道。柔らかな下生え。ところどころ露出する岩。苔むした倒木。古木の洞。闇にも溶け込まぬ白い茸。落葉が堆積してぐずぐずの水たまり。どれも横目にしながら止まることなく過ぎる。

 もっと! もっと早く!

 足が思うように進まないのがじれったくなる。


 ――その時、彼女の五感は狂う。視線はぐっと低くなり、聴覚はさらに鮮明で、四つ足で地を蹴る音が届く。舌はぐんと長く、口の外から垂れる。荒く、熱い息を吐いて吸った時の空気の味がする。手は毛の生えた前足となって、土と草の感触の違いを伝えてきた。

 枯草色の毛並みを持つ、一匹の雌狼が森を器用に疾走している。

 オオォ———ン!

 雌狼は本能のままに吠える。

 オオォ———ン!

 応える声も上がった。狼たちの声が聞こえる。ここだ! ここにいるぞ! と、告げてくる。耳をぴくぴくと動かしてから、雌狼は呼ばれた方角を目がけて夢中で走る。

 仲間だ、仲間だ!

 雌狼は全身で喜びを露わにぐんぐんと加速した。左右さえ気にならず、ただ自分の行く手を遮る物だけを避ける。あまりにも簡単なものだから、人間の時には四苦八苦していたのにこれはおかしいと笑いたくなる。

 やがて辺りは霧に覆われる。ちょうど森でも開けた場所に出た。すると、目の前の霧の中からいくつもの光が浮かぶ。のしのしと姿を現わしたのは所狭しと居並ぶ狼の群れである。光の数だけ彼らの眼があった。その数はとても一つの群れでは収まり切るはずもない。

 進んで前に出てきたのは、立派な体躯をした銀色の毛並みの雄狼と、その斜め後ろでぴったりと身体をくっつけている二匹の兄妹狼だ。

 新参者の雌狼は三匹と鼻面を突き合わせて挨拶を交わした。

 雌狼はボスに仲間に入れて、と願った。

 白銀の狼は答えずに白靄の天を仰ぐ。

 オオ―――ン!

 それは雌狼が知る限り、もっとも美しく澄んだ音色だった。他の狼たちも白銀の狼たちに追従し、狼たちの合唱が始まる。

 森、地、空気のすべてが轟く。音という音が森の中で凝縮されている。森が一つの生き物となって躍動する。森に生きる生命が溶け込んで、あるがままにそこにある。

 ――『リリーローズ』も、そこに加わりたいと思った。

 左手に急激な痛みが走ったのはその時だ。


「っ。あ……あ……」


 彼女は、自分の手を見た。五本の指が備わっている。指輪が嵌っている。眼前の狼たちを、見下ろした。

 リリーローズは、人間だったのだ。

 合唱はいつしか止んでいた。彼女を取り囲んでいた狼たちが口を下げ、のそのそと一方向へと向かって歩いていく。時に彼女の外套の裾を掠め、太ももに触れるほど近くですり抜けていく。その列には枚挙にいとまがない。今森にいる狼たちだけいるのではなかった。生と死も、過去も現在も未来を通して、この森で生きていた狼たちが住処を離れて旅立つための、別れの儀式なのだ。

 狼たちの流れに逆らうように、彼女の外套の裾が引っ張られた。すっかり成長した姿で現れた二匹の頭に手を伸ばす。


「マツィ……エルー……」


 ぽろりと涙がこぼれる。大きな身体を引き寄せてしっかり抱きしめて放す。


「モイ……」


 美しい白銀の雄狼に手を伸ばす。モイは、鼻を彼女の手のひらに押し付けて匂いを嗅いだ。

 モイは一度だけ力強く吠えた。それが彼らにとっての別れの挨拶だった。

 三匹は身体を翻した。彼らの身体はあっという間に他の狼たちの背中に紛れて見えなくなってしまう。

 もっと触れていたかったのに、連れて行ってほしかったのに。

 彼らにかけられる言葉が見つからない。

 リリーローズは一つだけ吠えた。

 さようなら……さようなら!

 言葉から有り余るほどの万感の思いがこもる。

 そうして狼たちはいなくなった。

 濃い霧が再び覆う。やがて何も見えないほどに世界は真っ白に染まっていった。



「さよなら、リリー」

「さよなら、人間たち」



「やっと見つけた」


 彼は木の幹にもたれかかる婚約者の冷たい頬に手を伸ばした。跪くのは彼一人で、他の男たちは周囲を警戒するような素振りをしている。

 雨と雷鳴。ここ数日悪天候が続いていた。


「私は来たぞ。リリーローズ」


 彼女はぼろぼろの外套と寝間着を着て、腕や足、手には切り傷や痣を山のようにこさえていた。頬にまで小さなかすり傷がつき、その傷にも泥が跳ねている。

 名前を呼ばれたためか、女は焦点の合わない目を開いた。


「……この森から、狼はいなくなりました」

「そうか」


 息も絶え絶えに女は言う。今にも死んでしまいそうだ。


「わたくし、狼に、なりたかった……」

「どうしてだ」

「だって……人間って複雑なんですもの。ごほっ!」


 彼は護衛に温かい飲み物を持ってくるように告げた。そして女の眼をのぞき込む。そこには優しげな琥珀色の光彩がある。


「我々は人間だ。人間以上にはなれないんだ」


 女の手を取る。その手に嵌められたのは白い宝石のついた指輪をそっと撫でて囁いた。


「あなたと結婚という形でなくとも、ずっと心の何処かで繋がっていると信じている。私のために生まれてきたあなたがいるから、私も耐えていける。だが私には自由が利かないから、あなたの方が来てくれるしかないことを、気づいているだろうか」


 リリーローズが行方不明になってから三日目にして、やっと現地に到着した。それから二日の捜索を経てから婚約者は発見されたのだ。


「伴侶に選ばれたという事実をもう一度考えてみるべきだよ」

「だからこそ……わたくしは、苦しいのです」


 彼女は相手から目を逸らす。


「殿下から伝わる心が、苦しくて、苦しすぎて……」


 震える手が彼の腕を服ごと掴む。


「あなたがただのクラウディオだったら、よかったのに」


 束の間沈黙した彼は一言だけ「おいで」と言った。

 リリーローズは動かない。


「怒っているのか。――私が本気で婚約破棄をするつもりがないということを」

「……いいえ。ただ、ちょっと、眠くなって……」


 彼女は大きく息を吐いた。


「そうか。疲れただろう。ゆっくり休め」

「はい……」


 リリーローズの眼が瞼に隠れた。その様子をじっと眺めていた彼は指輪の嵌められた手を再び取り、自分の指輪と彼女の指輪を合わせた。厳かな儀式に臨むかのように息を詰める。

 彼の持つ石の色は知性を示す青。彼女の指輪では白。石と石とが触れ合ったところから、ぽうっと白い燐光を放ち、水彩絵の具を溶かしたように、青と白が混じっていく。

 二つで一組の指輪は、両方が優しげな水色で落ち着いた。


「私の曾祖母が指輪を嵌めた時の色は白だったそうだ、リリーローズ。意味は、『慈悲』だ。とてもあなたらしい色だと思っているよ。あなたという人間はこの世でたった一人だけだ。代わりなんていらないよ」


 言葉は木々に生い茂る葉と同じように吹けば飛ぶほど軽々しい。クラウディオは常々からそう思っている。なのに、本人を相手にしていない独り言は不思議と――真実であるように響くのだ。


「おやすみ、リリーローズ」


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