「…貴方が来てくれるとは思わなかったから、嬉しかったですよ」
ロゼルタはリナリアの隣を無言で歩いていたが、暫くそうしているとふと何かに気づいたらしくリナリアへと視線を向ける。
「おや、此処は…。此方で宜しいのです?」
「ええ、此処を通ると近道になるのよ」
にこっと微笑んでリナリアが指差すのは狭く入り組んだ花街の裏路地。
彼女がそう言うのなら、とロゼルタもそれ以上食い下がる事は無かった。
やはり裏路地というだけあって、人通りはほとんどなく華やかな表通りに比べれば大分寂しい雰囲気を纏っている。
しかも、此処で最近事件が頻発しているというなら尚更。
「随分と静かですね…。花街に似つかわしくないと言いますか」
「そりゃまぁね。全部が全部、賑やかって訳じゃないもの。華やかであればある程、その影も深くなるものよ」
光が強ければ強い程、昏い影を映し出す──花街で暮らす彼女にとって、花街とはそういう場所なのだろう。
ロゼルタもまた、彼女の言わんとしている事は察したのか特に言葉を返そうとはしなかった。
──刹那。
不意に背後から何か気配を感じ取ったロゼルタが思わず眉をひそめる。
「……? お兄さん、どうかしたの?」
「いえ…今、背後から人の気配がしたものですから」
「人の気配? もう脅かさないでよ~誰も居ないじゃない。気にしすぎよ~」
一応確認しようと背後を振り返ったリナリアの視界には、寂れた小道が続くばかり。
けらけら笑い飛ばすリナリアを見遣りつつ、自分の早とちりだったのかと首を捻るロゼルタ。
(警戒しすぎましたかね…。しかし、私の読みが正しければ…)
「さっ早い所裏道抜けちゃいましょ?」
早く早くとロゼルタを促そうとしたその瞬間。
2人が再び進行方向へと視線をずらしたのとほぼ時を同じくして。招かれざる来訪者が突如牙を剥いた。
不意に2人の死角から現れた、不穏な影。
それは不敵な笑みを浮かべるなり、未だその存在に気づかぬ2人へと凶器の刃を振り翳す。
「──しまっ……!」
殺気に気づいてロゼルタが振り返るものの、時すでに遅し。
しかしリナリアだけでも守らなくては、と咄嗟に彼女の前に立ち塞がり首にぶら下がっているチョーカーに手をやった。
そのチョーカーには槍へと姿を変える力があるからだ。
すぐさま己の武器で抵抗しようとするロゼルタの視界に映り込んだもの、それは。
彼と襲い掛かる人物の間に割って入る様に放たれた、一振りの剣。
それは人影の肩を掠めてその近くの地面に深々と突き刺さる。
まさか2人の他に路地裏に誰かいるとは露程思っていなかったらしく、狼狽えるあまり無意識のうちに数歩後ずさる。
事情はまだ全て把握していなかったものの、こんな好機を逃してなるものかと畳み掛けようとするロゼルタの元に、一陣の風が吹き抜ける。
否、それは脇道から一気に駆け抜ける1人の人物。
足音さえ残さぬ程の俊足で不穏な影の間合いに一直線に踏み込むと、そのまま手にした片手剣を下から上へと斜めに斬り上げた。
回避する暇さえ与えず振り上げた刃が与えた傷は決して浅いものではなく、返り血がその人物やロゼルタの身体にも数滴飛び散る。
「ぐ…ぅっ」
「よっしゃ、オマエが街の人襲ってた犯人だな! 観念しやがれ!」
倒れ込んだ人影──事件の犯人と思しき男の動きを拘束しようと、手にしたロープであっという間に縛り上げてしまう。
一方、予期せぬ来訪者が矢継ぎ早に現れた事に呆けつつ、漸く我に返ったロゼルタがまるで幻でも見るかのような眼差しで加勢してくれた人物へと声を投げかけた。
「どうして貴方が…?」
「何だよ、オレが来ちゃそんなにマズイかよ」
──そう、ロゼルタを助けに来た人物とはユトナその人であった。
しかし、ロゼルタにとってはまさに青天の霹靂。
無理もないであろう、彼女を拒んだのは他ならぬロゼルタ自身なのだから。
「いえ、そういう訳ではありませんが…。てっきり、貴方は私に振り回されるのが嫌なのかと思っていましたよ」
「ま、確かにそれはヤだけどな。オレだって此処に来るつもりなんざ無かったけど…オマエに何かあった方がもっとヤだったからな。とりあえずオレが来てやったんだから感謝しやがれ!」
「…ふぅ、別に貴方が来なくても私1人で何とかなりましたよ」
「なっ…! 素直じゃねーなオマエ、そういう時はありがとうぐらい言うもんだろ」
「冗談ですよ。有難う御座います。…貴方が来てくれるとは思わなかったから、嬉しかったですよ」
「……っ、ならいーんだよ、ふんっ」
憎まれ口か嫌味でも返ってくると身構えていたユトナにとって、ロゼルタからの返答はあまりに予想外なもので。
故に一瞬リアクションに迷った後、急に襲い掛かってきた気恥ずかしさを堪えきれずそっぽを向いて悪態をついてしまった。
──ユトナ自身、来るつもりなどさらさら無かった。
来ない方がロゼルタの為になるかと思っていたし、何より彼と居ると心に巣食うもやもやが広がる一方だったからだ。
けれど、気が付いたら走り出していた。彼が居ると思しき場所へと。
何故と問われたら、ユトナ自身明確な理由を話す事は出来ないであろう。
それでも放っては置けなかった。最悪の未来がユトナの脳裏をちらついたから。
やらないで後悔するよりはやって後悔する方が良い。何かに急き立てられるように、彼女の双眸に迷いは無かった。
「それにしてもコイツ、やけに武器の扱いに慣れてる感じだったよな」
「若しかしたら、傭兵崩れか盗賊の類かもしれませんね」
「うわ、どっちにしてもめんどくせーヤツだな。さてと、そんじゃコイツ役所に突き出してくるぜ。オマエはしょーふさん送ってってやれよ」
「ええ、其方は任せましたよ」
倒れ込んだ男を無理矢理立たせると、そのまま引き摺る様に男を伴いながらその場を後にするユトナ。
ユトナが男を追い立てるように歩を進めている中、男が何やら呟いたのをロゼルタは聞き逃さなかったらしく一瞬眉をひそめた。
そんな2人の背中を見送ってから、改めてロゼルタはリナリアへと向き直った。
やはりと言うべきか、突如訪れた襲撃に驚きと恐怖を隠せないらしく、両手を胸元で組みながらカタカタと小刻みに震えていた。
そんな彼女の肩を抱きつつ、心配そうに顔を覗き込むロゼルタ。
「怪我はありませんか? もう大丈夫ですよ」
「え、ええ…ありがとう。ごめんなさい、ちょっと吃驚しちゃって」
「無理も無いでしょう。まさか、本当に襲われるとは思いもよらなかったですからね」
「アタシ達ももしかしたら危なかったかもね」
「フフ…大丈夫ですよ、少なくとも貴方だけはね」
ロゼルタの隻眼に鋭い光が宿る。
その眼差しは、真っ直ぐリナリアを捉えて離さない。
彼の視線を居心地悪く感じたのか、リナリアは顔を背けながら目を泳がせた。
「どうしてアタシだけが? アタシあんな男を返り討ちに出来る程強くないわよ~もう」
「少なくとも、自分にだけは危害を加えられる事は無いと分かっていたのではないですか?」
「…どういう意味よ、ソレ」
まるで尋問でもするかのようなロゼルタの言いぶりに、思わず眉をしかめるリナリア。
しかし、ロゼルタは気にせずさらに畳み掛ける。
「先程申し上げたでしょう? 犯人は土地勘があると。貴方が手引きしていたのではないですか? 貴方ならそれが出来る」
「そ、それは…あの男が道が詳しいだけかもしれないじゃない。それでどうしてアタシになるのよ?」
「ああ…気づいていませんでしたか? 先程貴方が私が集めたメモを見た時にこう言ったのを。『いきなり男に襲われたら怖い』…と。どうして貴方は犯人が男だと知っていたのです」
そこまで問い詰められて漸く口を滑らせてしまった事に気づいたリナリアがハッと瞠目するものの、時すでに遅し。
しかし、そんなの撮るに足らない事、と言いたげにこう切り返した。
「そ、そんなのたまたまよ。何となく言っちゃっただけ」
「そうですか…。そういえば、先程犯人の男が連れて行かれる際に『こんな筈じゃなかった…アイツに騙された』と言っていましたよ。やはり共犯が居るのでは?」
「……! だとしても、アタシが共犯かどうかなんて分からないじゃない」
「そうだったとしても、いずれあの男の口から共犯の存在も割れる事でしょう。そうなれば言い逃れは出来ない」
射抜くようなロゼルタの双眸が、リナリアを貫いてゆく。
これ以上言い逃れは出来ないと観念したのか、リナリアはがっくりと肩を落としながらその場に力なく膝をついた。
「アタシだって…好きでこんな事してた訳じゃない…。あの男とは昔にちょっと付き合いがあって…この話を持ちかけられた時も、幾ら断ってもしつこく付きまとってきて…! だから…ごめんなさい…!」
ぽつりぽつりと吐き出された独白を、小さく溜息を零しながら黙って聞くロゼルタ。
「成程、一応貴方の言い分は信じておきましょう。それで貴方が犯人を此処に誘き寄せる役目をしていたのですね。私もそうだったと」
所詮、自分とリナリアは娼婦と客の関係である事に変わりはない。
自分は良い鴨にでも見えたのだろう…と少し自嘲気味に心の中で呟くロゼルタ。
「でも、その時からアタシが怪しいって気づいてたんでしょ? なら、どうして一緒に此処に来たのよ?」
「騙された振りをして、犯人を逆に炙り出そうとしただけですよ。その方が手っ取り早いですし」
「呆れた…アタシが言うのも何だけど、お兄さん食えない人ね」
「食えないのはお互い様でしょう? 流石、女性の演技は時に恐ろしい…。よもや、私まで狙われるとは思いませんでしたよ」
「……、だってアタシの事、全然見てくれなかったから」
多少を嫌味を孕んだロゼルタの言葉にピクリと片眉を跳ね上げたリナリアは、まるで大人に責められた子供が拗ねて言い訳を零すようにポツリとそう呟いた。
「アタシと居る時も、ずっと気持ちが上の空っていうか…誰か違う人見てるんだもん。だから、ちょっとでも見て欲しくて…だってアタシ、アナタに……」
縋るような眼差しで心の奥に抱えた気持ちをぶつけようとしたリナリアであったが、彼女の言葉は最後まで紡がれる事は無かった。
申し訳なさそうな微笑みを浮かべたロゼルタが、人差し指をそっと自分の口元に当てたからだ。
「…駄目ですよ。リナリアさん、どうも貴方は悪い男性に引っかかる傾向があるみたいですから…これ以上引っかからないように、気を付けて下さいね?」
「もう…本当にアナタって狡い人」
そう返すリナリアの表情には、何処か吹っ切れたような晴れやかな笑みが浮かんでいた。