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第六話 神話と説教




 しかしニヒトから目をそらして内心葛藤していると、ニヒトがブツブツと小声で何かを漏らしている。

 なんだろう? と耳を傾けてみると、案の定というべきか。またもやオーディン様を罵っている。



「…まったく口惜しい。フェンリルなぞに弑されておらねば、私めがこの手で(くび)り殺してやったものを…」

「ニヒト!」


 ニヒトの手を振り払って厳しい声を上げると、ニヒトはそれまでの憎悪に満ちたおぞましい表情を改め、麗しい顔立ちに柔和で優美な微笑を浮かべる。


「はい。なんでございましょう」

「『なんでございましょう』ではないわ! あなた今、またオーディン様に不穏なことを呟いていたでしょう!」


 厳しく問い詰めようと顔を近づけると、ニヒトは琥珀色の瞳をとろりと細め、頬を染めて近寄せてくるので、思わず身を引いた。


「まさか。私めがお嬢様のお言いつけを破るわけがございません」


 ぐいぐいと近寄ってくるので、その分後ろに引くのだけれど、もともと左右の脚にガタつきのあるスツールに腰掛けていただけだったため、ついにバランスを崩してスツールから転げ落ちる。


「…危ないところでした」


 ニヒトの長くしなやかな手がわたくしの腰に周り、ふわりと膝に載せられる。思わず顔に血が上りそうになるのを堪えるため、ニヒトから顔をそらす。

 ニヒトから漂う香りはいつも甘すぎる。純度の高い酒のようで、酔ってしまいそうで嫌になる。


「ありがとう。でももう平気よ。離してほしいわ」

「はい。お嬢様」


 壊れ物を扱うかのように腰に回されていた手はそのままに、紳士的に差し出された片方の手を借りる。しっかりと手が載せられたことを確認したニヒトは腰を支え、立ち上がる手助けをしてくれる。

 そんなことをしなくても立ち上がれるのに、と(なじ)りたいけれど、足腰がガクガクと震えていることには気がついている。きっとニヒトも気がついていて、何も言わない。


 この奴隷は、本当に悪魔のようだ。


 ニヒトの常人より低い体温と、香りに包まれていては頭が正常に働かない。この異国の美貌もよくない。

 今ではニヒトの纏う香り、そして継母や異母姉がニヒトに向ける熱っぽい眼差しと、そのときに発するベトついて不快な匂いの意味をわかっている。

 だからこそ。わたくしは飲み込まれたりしない。



「それでニヒト? あなたまたオーディン様を害したいような、不穏なことを口走っていましたわね?」


 スツールはガタガタとして頼りないため、ぺたんこの薄い布切れを敷いただけの簡素な寝台に腰掛けるようニヒトに促される。言うことを聞かない足腰が無様に転げないように、ゆっくりと腰掛け、ふう、と息を吐いた。

 ニヒトはそれを確認するとわたくしから離れ、足元で膝をつく。


「いいえ。私めはフェンリルに弑された数多の神々を罵っていただけです。世界の滅亡(ラグナロク)では多くの神々が死にましたから。主犯であるロキですら、あの戦いで命を落としました。お嬢様にも以前、お話ししましたでしょう?」


 この二枚舌め。だけど建国神話については気になる点がある。


「ええ。アス神族と神聖アース帝国の建国神話についてでしたわね。…神官様から伺ったお話とは相違点がありましたけれど」

「それは神官どもが都合のよいように神話を作り変えていますから。でもまあ、大筋は同じことですよ。オーディンは死んだ」

「その後復活なされたはずです」

「復活したのはオーディンの息子のバルドゥールなんですがね…。まぁ、どちらでもよいかと。私めからすれば、苛烈で被虐嗜好のオーディンか、きらきら鬱陶しいバルドゥールか。どちらが信仰対象になろうとも、大差はない」

「ほらまた! オーディン様に無礼なことを!」


 思わず指差すと、ニヒトは鼻先につきつけられた指にそっと触れ、優しくおろしていった。


「お嬢様。私めには構いませんが、相手を指差してはなりません」

「うっ…。ごめんなさい…」


 大変不道徳なこの奴隷は、こうしてわたくしに道徳的指導をする。実際、わたくしの倫理観も道徳も礼儀も作法も。ほとんどがニヒトの指南によるものだ。道徳観念や倫理観については、とても不安が残るため、時々神官様にお話を伺って、正していただいたり、それでよいと肯定していただいたりしている。

 つまりニヒトは持論とは別に、真っ当な道徳観念も倫理観も知識としてきちんと頭に入っているのだ。


「お嬢様のその素直な性質。己の間違いを認め、相手の話をきちんと聞くところ。何にも代えがたい美徳です。だからこそ私めはお嬢様を敬愛しているのです」


 自称悪魔のくせに、慈悲に満ちた微笑みを浮かべて頭を撫でてくるのだから、本当に意味がわからない。


「…ニヒトのおかげだわ。わたくしがひねくれずにいられたのは、ニヒトがわたくしの側にいてくれたから」


 そうでなければ、継母と異母姉、使用人からの仕打ち、実父の無関心に心が折れていたことだろう。

 あの日、ニヒトが奴隷として屋敷に残ったとき。わたくしの心は砕ける寸前だった。

 ニヒトはわたくしを救ってくれた。

 奴隷として買われ、人間としての尊厳を貶められ、屈辱を引き受ける代わりに。




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