2-1
「・・・・・はぁ」
イルと気まずくなってから、半日が経つ。
夕暮れの中、店の手伝いを終えて、看板を仕舞い込む頃には、どっとした疲れが身体を襲ってきた。
「あんたどうしたの、そんなに青い顔して。風邪でも引いたんじゃないでしょうね?」
「大丈夫だよ、昨日お酒飲んだからちょっと疲れてるだけ」
エプロン姿のまま、私のおでこにひんやりとした手のひらを置く母さんにそう言う。
店の奥から父さんが、顔を出して「大丈夫かー?」と呑気な声で聞いてきたので同じように答えた。
「熱はないみたいね。二日酔いなら、まあそのうち楽になるでしょ」
「うん。ありがと」
いつも通り、家族で母さんが作ってくれたご飯を食べ、何の脈絡もない話をしながら談笑する。
小さな町なのに、毎日何かが起こって、新しい変化が尽きない。
父さんがユーモアをまじえながら、今日あった出来事を話すのを母さんと私で聞きながら晩御飯を終えた。
いつもより多かったおかずと、いつもより話が面白かった父さんを、寝台の中で思い出して、小さく笑った。町でも一二を争う、仲の良い家族だと思う。友達の中には、私と同じようにまだ結婚が決まってない子が居て、両親から目を三角にして毎日結婚の話をされるという。
それに比べたら、うちはすごく優しい。
「けっこん・・・かぁ」
朝の丘であったことを思い出す。
頬に触れていた柔らかい感触を思い出して、赤面した。
「う~~~~っ・・・!」
まさか、イルからそんなふうに思われてるなんて思ってもみなくて、考えたことも無くて、ただただ呆然とするしかなかった。
イルが、あの泣き虫のイルが・・・・。
やっぱり今でも信じられない。
レオンが出て行ってから、イルはレオンよりももっともっと町の人に愛される少年になっていった。
レオン以上に宿の経営についてよく学び、手伝いにも熱心だった。
あの子もあの子なりに、大人になろうとしていたんだと思う。
『好きなんだ。幼馴染の男の子じゃない。僕を僕としてみてよ』
でも、長い間庇護の対象だったイルからあんな風に言われるなんて、想像すらできなかった。
どうすればいいんだろう。明日から。
『返事は今すぐにとは言わないから・・・ごめん、こんなことして。でも、どうしても伝えたかったんだ』
別れ際、イルの言っていた言葉を思い出す。
頷くので精いっぱいで、あの後気づけば店に戻っていた。
イルはあの後、どうしたんだろう。
「ほんと、どうしよう・・・・。ああもう」
布団を頭からかぶって、ぎゅっと目を瞑る。
暗闇の中、静寂に耳を澄ます。だんだんと夢の中へ誘われていき、羊を100匹数え終わるまでには、そっと意識を手放していた。
******
ああ、また、あの夢・・・・・・。
とっても幸福な世界で、私はもうひとりの私と手を取り合って、笑いあいながら暮らしていた。
無限に広がる大草原、咲き誇る花々、碧い湖。
そこで、彼女と私は、彼らと一緒に過ごしていた。
長い長い時間を。
けれど、安寧の日々はある日足元から崩れ落ちたのだ。
あの場所の空が赤黒く染まり、風が吹き荒れた。
私は駆けた。徐々に暗くなってゆく周囲に怯えながら、必死にあの子を呼んだ。
でも、あの子はどこにもいない。
神殿の中を走り、至る所に真っ赤な血が流れているのを目にしながら、無我夢中で叫んでいた。
石床の上に流れる血を踏むたび、真っ白な服に赤い模様ができた。
どんどんと神殿の中を突き進み、一番大きな階段を駆け上がってゆく。
(だめ・・・・)
階段を上り終えると、真っ白な大扉が目前に現われた。
扉についた鮮血に、恐怖が沸く。
(その扉を開けては・・・だめ。)
震える手を扉につけ、力いっぱい押し込んだ。
真っ白な光が合間から漏れ、束の間、目が霞む。
扉をあけ放つと、真っ白な広い空間に、あの子がいた。
血の気を失った顔で、ぐったりとしている。
あの子の首元から顔を上げた、赤い瞳が弧を描いて、私を見つめた。
「----っ!!!」
叫びだしそうになりながら、がばり、と起き上がった。
荒い息が喉を通ってゆく。汗が全身を伝っていた。
いつもと同じ夢、そのはずなのに、あの赤い瞳がやけにリアルだった。
まるで本当に見ているかのようで、あんな赤い瞳は見たことがないのに、妙な既視感を覚えた。
暗い部屋のなかで、深呼吸を繰り返していると、窓の外がやけに騒がしいことに気が付く。
春に新調したばかりの薄ピンクのカーテンを引っ張り、外をうかがう。
満月の夜だ。今はもうすでに深夜のようで、いつもなら物音ひとつしない時間帯。
そのはずなのに、どこか騒がしい。ふ、と皿が割れる音が聞こえ、微かに叫び声がした。
「なに・・・?」
普通でないことに気が付いて、慌てて靴を履く。
寝台の隣の椅子に置いてあった燭台に火をつけ、部屋を出た。
うす暗い階段を降り終え、両親の部屋へ向かう。
町で何かが起こっているようだった。でも、なにが?
父さんと母さんは気づいているのだろうか。起きているのだろうか。
不安な気持ちを抱えたまま、足を速める。カチャリ、ドアノブに手をかけ、木製の扉を押す。
「う・・・・・」
「母さん?」
唸り声がして、手に持った燭台を目の前に掲げた。
部屋を照らす----よく見えず、足を一歩踏み出した。
「ハイレン・・・逃げ・・なさ・・・」
「母さん?どうしたの?」
寝台のある方へ向かう。
燭台の光で、寝台のある方を照らしたとき、カーテンが揺れた。
おかしい。カーテンが揺れるはずがない。だって、窓は夜中は開いていないはず。
なのに、施錠されているはずの窓のカギはつぶされていて、両開きの窓は夜の風を誘い込むように開けられていた。
「かあ・・・さん?」
「逃げ・・・・て・・・・」
ぐちゃり、と嫌な音がして、重い何かが床に落ちた音がした。
頬に何か飛んできて、それを拭う。
ぬるりとしたそれを燭台の光に照らした。
「血・・・・?」
花屋の娘でも、日々の糧となる動物の肉を解体するところは今まで何度も見てきた。
当然、そこにはどくどくとした血はいっぱい流れ、内臓なんかも飛び出たりしていた。
でも、これは-----?
これはいったい、だれの血なの?
心臓の鐘が、がんがんと響く。
頭が割れそうなほど、鋭い頭痛が襲ってきて、燭台を床に置いたまましゃがみこんだ。
生臭い、鉄の匂いがする。
何の臭いか言われなくても、分かる。これは血の匂いだ。
濃厚なくらい漂うその匂いに、胃から熱いものが込み上げてきた。
「おやおや。お前、相変わらず血が苦手なんだね?」
「っ、だれ・・・・っ」
若い、男の声だった。声変わりもまだ終えていない、とても若い少年の声。
あざ笑うかのようなその声に反応すれば、その声の持ち主は暗闇の中で、さらに笑みを深めたようだった。
「お前といい、あのガキといい。本当にいつまでも甘くて、変わらなくて・・・・反吐が出るよ。いい加減、現実をみてほしいな?」
「あなた、だれ・・・・誰なのっ!!!父さん、母さんは・・・」
「それにまた、ニンゲンか?あ~あ、ゼウスも碌なものを造らないな。最も下等な生物を造って尚、世界の守護たる女神がこの有り様とは。馬鹿もほどほどにしておくれよ」
「なあ? クソ女」
耳元で、その言葉が聞こえたと同時に、目前に迫ったその瞳。
私が恐れ続けていた、あの色。
残虐な笑みを浮かべて、私を見つめる男の子の瞳は、夢で見た、あの赤い瞳と同じだった。