曼成にて
次の回で第一章完結予定です。二章にとりかかる前に、一章全体の修正を施しますので、続きの投稿が遅れるかと思われます、ご了承ください。
射命丸が連れと店外に消えてから、宮按は深く後悔した。同席している律が、責めるような目を投げかけてくる。だから言ったじゃない、と半ば呆れているのが、鮮明な色として表れていた。
「話しかけなかったの、後悔してるんでしょ」
宮按は項垂れたままだった。わかりやすく落胆している。律は閉口した。躊躇った末にした後悔より、しなかった後悔の方が、後腐れが根強く残るというのは真理だった。食いしん坊の宮按が、大好物の菓子に手を伸ばさないところを見ると、その悔いの深さが窺える。
宮按は、射命丸に大層憧れていた。仕事ができ、人当たりがよく、おまけにスタイルも抜群。自分も射命丸のような天狗になりたいと、彼女の手懸けた雑誌、新聞は勿論のこと、彼女を扱った記事が載ると分かれば、他部署の発刊した雑誌にも金を払った。そうやって、外壁から真似ようという魂胆だった。
文々。新聞は折り目がつくまで幾度も読み返し、雑誌は穴が空くほど目を通している。すべて、宮按が好きでやっていることだ。律が口出しする義理はない。ただ、それが身になっているかといえば、そうでもなかった。記事の文体は乱れっ放しだし、取材時も、気の利いたことを訊きだせた試しがない。そのくせ志だけは一丁前なものだから、痛々しいというか、近くで見てて忍びないというのが本音だった。
そんな按配な宮按のまえに、件の大物が入店してきたのが、ついさっきのこと。僥倖にしどろもどろする宮按に、どうせだから話しかけてみるよう、律から言いだしたのだった。
直接的な接点がない宮按の憧憬は、これといった実体がなく、いわば偶像崇拝のようなもので、実際に当人と対話し、そのひとの腹を知らないことには、技術の向上も見込めないと思った。これを契機に、心構えがより良い方向に変化してくれれば万々歳だったのだが、宮按は、これを拒んだ。
律が再三勧めても、休憩中なのに失礼だよ、どうせ相手にされないよ、と頑として聞きいれなかった。そうこうしているうちに、射命丸一行は店を後にしてしまった。これで良かったんだよ、と初めのうちこそ強がっていたが、やがて箸を止め、気落ちしたふうに動きを止め、それきり。勇気を振り絞って、接触を試みるべきだったと、ずるずる引き摺っているのだった。
「食べないなら貰うわよ」
律が饅頭の皿に手を伸ばす。
「勝手に食べちゃうわよ。いいの」
ようやく顔をあげて、宮按はかぶりを振った。大きめな饅頭を選び、頬張る。飲みこんでから愚痴り始めた。
「千載一遇のチャンスだったのに。それすらものにできないなんて、あたしは、つくづく駄目な妖怪だよ」
「私は忠告したわよ」
「そう。でも、あたし、忠告を突っ撥ねちゃって、だからあ……」
宮按の目尻にじわっと涙が浮かぶ。
「お話、できなかったぁ」
「ああん、もう、泣かないでよ」
泣いてないわよ、と宮按は目を擦った。
「でも、悔しいよ。そりゃあ、自業自得だってのは分かってるけどさ、意気地なしってのは、ややもするとそういうもんなんだよ。後になって振り返ってみて、後悔する生物なんだよ」
「そうは言ってもねえ」
「律はいいよね。根明だもん」
「格別明るいってほどでもないわ」
備えつけの紙ナプキンで手を拭く。
「過ぎたことに、くよくよ思い悩みたくない主義なだけ。無駄に疲れちゃうだけだもん」
「かっこいい」
宮按が、羨望の眼差しを向けた。
「できる女の意見って感じ。いまの、すっごくかっこよかった」
一点の曇りもない眼で言われ、律は苦笑した。単純な奴だな、と微笑ましくなる。年端のいかない子供がそうであるように、宮按は、気取ることを知らない。無邪気である。そこが気に入って、律は彼女と交遊しているようなものだった。
「悩みとかなさそうだよね」
宮按が何となく発した言葉に、律の表情が凍りついた。
「私にだって、悩みぐらいある」
「へえぇ」
宮按は興味をそそられたようだった。律は、しまった、と内心呟き、何気なくを装って「まあ、ともかくとして」と話題を変えた。
「見出しを考えないと。提出期限、明後日でしょ」
「あ、そうか」
「なんとか間に合わせないと。期日すぎると、うちらのお偉いさん、面倒くさいなんてもんじゃないからさ」
頷いて、宮按は、胸ポケットからメモ帳と鉛筆を取りだした。昼食のついでになってしまったが、もともとは打ち合わせをする目的で、曼成に足を運んだのだった。
(――私にだって、悩みぐらいある)
それも、解決策の糸口すら見つけられていないような悩みが。
律と宮按が配属された部署は十人体制で、そこを統括する上司の名を九劉といった。その男は、部下を扱き使うわ、性根は腐っているわで、グループの全員から忌み嫌われている、人望の欠片もない鴉天狗だった。そして、律の悩みというのも、当該の男に関係していた。
折に触れて世間話を持ちかけてくるぶんには、まだ良かった。それが次第に激化し、プライベートの会話から、自宅の場所を聞かれ、仕事を口実に自分を招待するよう脅されてからは、まともに顔すら見れなくなっている。いわゆるセクハラを受けていた。そのせいで仕事が手につかず、一縷の望みを託して部署のリーダーに助けを求めたこともあったが、取り合ってくれなかった。九劉を恐れているのだ。厳密には、九劉のもつ権威に怖気づいているのだった。
九劉の機嫌を損ねれば、天狗の社会から追放されるかもしれない。それだけの権力を、彼は備えていた。
いまは適当に用事をとり繕って、自宅の訪問を先送りにしているが、小手先の嘘が、いつまでも通用するはずがない。忌避しているのがばれたら、ただじゃすまされないだろう。九劉は折檻だって厭わない男だった。
相手が権力者なだけに、うず高く積もる歯痒さを排出することもできず、胸中に押しとどめていなければならなかった。また、このことは、リーダーに打ち明けてから、それ以降誰にも話していない。宮按にも秘密にしていた。打ち明けたところで事態が好転するとは思えなかったし、変に心配をかけたくなかったからだ。
九劉でなければ、あるいは対策の仕様があったかもしれない。しかし大義として、敵はあくまであの男。なにがあっても、律は九劉に逆らえないのだった。
天狗の社会には、絶対的な序列が確存している。下の天狗は、上の天狗に歯向かってはならないし、上の天狗は、下の天狗を思いのままに操作できる。さしずめ律らは将棋の駒だった。プレイヤーの意思に身を委ねねばならない、幾らでも代えのきく手駒。
人里にも上下の位はあると聞くが、天狗ほど融通の利かない制度ではないらしい。階位の格差がある者同士で、酒を飲めば、風呂にも入る。とても羨ましいことだった。しかし、羨ましい反面、怨めしくもあった。どこに向けての怨みかは分からない。人間に向けてかもしれないし、天狗の現在の社会を創設した何某に向けてかもしれない。あるいは、過酷な社会に産まれてきてしまった、自分自身に対する怨恨なのかもしれなかった。
律は時折、妖怪の山にとどまりたいと思う一方で、社会の束縛から逃げ出したいという、衝動的な欲求に駆られることがある。束縛されない自由な暮らし。公平で圧力のない暮らし。もし人間に産まれていたら、その夢も叶ったのだろうか。
いや、天狗のままでも、叶えられるには叶えられる。山を飛び出して、人里に転がりこむのだ。他意がないことを示せば、きっと人間だって、自分をそう無下にしないはずだ。寺子屋の慧音や、八意医院の永琳が良い例ではないか。本気で逃げ出したいのなら、人里の門を叩けばいい。逃げだしてしまえばいい。欲求に駆られたとき、律はいつも、そこまで真剣に考えていた。が――。
テーブルを挟んだ席に、一瞥をくれる。宮按は独りごちながら、メモ用紙に候補となるフレーズを書きこんでいた。
友達も知り合いもいない環境で、自分は独り、生きていけるのだろうか。と、律の思考は、毎度その点にぶちあたった。異端のレッテルを貼られ、孤独に生きていく。大衆に奇異の目で見られ、里の隅で細々と生きていく。
確かに、自由にはなれる。上司の圧力もない。しかし、律にはそれが、規律で縛られるいじょうに苦しいことだと思えてならなかった。結局、山の外に居場所はないのだから、山から出るのは、所詮、できすぎた夢物語でしかないのだと、諦めざるをえない。いつも、考えはそこに帰着した。
皮肉な話だった。がんじがらめの状態から抜け出したいのに、自分は、縛られていなくては生きていけない。それもこれも、自由を手に入れたいと、天狗らしからぬ感情を抱いてしまったせいだった。
律と同じ考えをもった天狗が、山の内側にどれだけいるだろう。きっと、ひとりもいないに違いない。ほとんどが、現状を受け入れ、上役の難題をこなしている。私だけが異端なのだ、と認めざるをえなかった。天狗は山に生き、山に死ぬ。それが自然の理なのだ。なんぴとにも覆すことのできない、定められた運命なのだ。だから、九劉みたいな男に目をつけられたのも、運が悪かったと妥協するしかないのかもしれなかった。
「お勤めご苦労様です」
溌剌と言って、律と宮按のテーブルに菓子の乗った皿を置いた。曼成店主、牛郷である。律は驚いて、咄嗟に尋ねた。
「あの、こんなにいっぱい頼んでませんけど」
「いいのいいの、俺の奢りだ」腰に手を当てて大笑いする。「頑張ってるようだったから、応援したくなっちゃってね。腕によりをかけたから、遠慮なく食べて、精をつけてくれたまえよ」
牛郷は鉄板のような胸板を叩き、また笑った。彼は、数少ない鬼一族のひとりで、系譜を遡れば牛鬼の血縁と符合する。毛むくじゃらの髭や、がっちりとした巨躯に似合わず、和菓子の調理にかけては、山内のどの妖怪にも引けをとらなかった。
甘い物に目がない宮按は元気に礼を言って、さっそくひとつ頬張った。律からも礼を述べる。
「そんな畏まらないでくれ。いいからいいから、気にせず食べて」
「すみません、ありがとうございます」
鬼の先祖が天狗のうえに君臨していた時期があったとかで、現代の鬼が振るう権限には、一族の上流階級にある天狗に匹敵、ないし凌駕する力があった。無論、牛郷とて例外ではない。牛鬼なのだから、天狗である律と宮按に、好き勝手命令することだってできる。だのにそれをしないで、こうして砕けた物腰で接してくるのは、彼もまた、ある意味では異端児だからだった。
開店当初は気味悪がられていたが、いまになって、熱心に店を後援する妖怪も増えだしている。労働が好きなのか接客が好きなのか、律には分からなかったが、牛郷はどんな時でも、客の妖怪たちに笑顔だった。こんな風変りな鬼はふたりといまい、と律は思う。
「――牛郷さん、お酒ちょうだい」
店内は窓際の一列だけ段があがっており、そこには畳が敷き詰められていた。そこに坐した一団のひとりが手を挙げて、牛郷の名を呼んだ。威勢よく返事をした彼は、襖子で仕切られた厨房に踵を返した。
「得しちゃったね」
さっきまで落ち込んでいたのが嘘のように、宮按はけろりとしていた。
「よかったら、全部、宮按が食べてもいいわよ」
「え? お腹いっぱいなの?」
「さすがにこの量は……」
大皿に乗った菓子の数は、十や十五の騒ぎではなかった。律は苦笑いを浮かべて、テーブルに置かれた、宮按のメモ帳を手にとった
「あんたが食べてるあいだに、私が見出し、いくつか考えとくよ」
「そっか、適材適所ってやつだね」
宮按の冗談に、思わず律は吹きだした。宮按といると退屈しない。九劉の圧迫にも、もう少しだけ耐えられるような気がした。
運ばれてきた酒瓶の蓋を開け、蓮丸は自分のグラスにそれを注いでから、右隣の鎚丸に瓶を手渡した。
「俺も、おかわり」
「はいはい、ちいと待ってくれ」
瓶は、鎚丸から、円卓を挟んだ斜向かいの宍延に渡り、中身を半分ほどまで減らした。老翁による、真昼間からの酒盛りである。ひがないちにち、特にすることもなく、三人は連れ立って行動することが多かった。たむろする場所は、その日の気分によってまちまちだ。曼成に来ることになったのは、甘党の鎚丸による発案が端だった。
酒をぐびりと呷り、アルコールが全身を巡る余韻に浸りつつつ、鎚丸はしょぼくれた目を細めた。
「で、蓮丸さん。あんたの話を聞く限り、あたしゃ思うんですがね、神社の風祝ちゃんに惚れられてるってのは、蓮丸さんが、そう思い込んでるだけなんじゃないかな」
蓮丸は、ムッと口元をひん曲げ、音を立ててグラスを置いた。
「思い込みなもんか。実際、現場に立ち会ってないからそう言えるんだよ」
「いや、でもねえ」鎚丸は、腕を組んで仰け反る。「早苗ちゃんといえば、老妖たちのアイドルだよ。甲斐甲斐しいし、可愛いしで、人気があるんだよ。いったい彼女が、あんたのどこに惹かれたっていうのさ」
「そんなの知らねえよ」
「知らねえってことはねえだろう。理由のない愛なんて、性欲が引き起こす錯覚だよ」
「だから、知らねえって。むこうが独りでに、俺に惚れたんだ。そりゃあ、若いころの俺は美面だったからな、若いころの俺に惚れこむ女はごまんといたぜ。でもよ、早苗ちゃんはそういう、顔だけで惚れた腫れたを語る尻軽とは、わけが違うんだってことよ。老いてなお男らしい俺に恋してるのは、早苗ちゃんが、男を見るセンスに長けてたってことだろう」
ついにボケたか、と鎚丸は思ったが、口には出さなかった。
「今朝だって、俺が守矢神社に参拝しに行ったら、嬉しそうに手を引いてくれたぜ」
「転んだりしたら危ないからだよ。そういうのが、早苗ちゃんの優しいところだろう」
「なんだい、ああいえばこういってさ。さては鎚丸さん、妬いてんのかい」
「本当に、早苗ちゃんがあんたにほの字だったらね」
なあ、と宍延に話題を振った。彼は丸顔を赤く火照らせ、グラスをちびりちびりとやっている。
「蓮丸さんの話、本当だと思うかい」
宍延は、きょとんとしたふうに蓮丸と鎚丸を見比べると、目尻を下げてにっこり笑った。それから、首を縦に振るでもなく菓子を口に放り、酒を喉に流した。どうでもいい、という意思を、彼なりに表現したのだった。長い付き合いだから、鎚丸には分かる。
「どうにも話の通じねえ奴らだなあ。――あ、牛郷さん」
偶然、近くを通りかかった店主を呼びつけ、蓮丸は、早苗が俺に惚れているようなんだ、と得意気に自慢した。牛郷も、早苗の人間性を承知していた。どもりつつも楽しそうに話す蓮丸の言葉に耳を傾け、うんうん、としきりに首を振る。まもなく蓮丸が話し終えると、牛郷は大きな声で笑った。
「それはそれは、一大事じゃねえですか」快活に笑いながら、空の酒瓶を回収する。「東風谷早苗が蓮丸にぞっこん。そりゃあ、早苗ちゃんが心に重い病を患ってるとしか思えねえや。名医を探して紹介してやらねば、命に係わる」
またぞろ口許をムッと曲げる蓮丸に、鎚丸が言った。
「あんたが惚れてるからって、相手も自分に惚れてるとは限らないってことさ」
蓮丸は、濡れた犬のような表情で肩を落とした。まだ得心しきっていない顔だが、こてんぱんに言われ、参ってしまったのだろう。その顔と、えびす顔で酒を飲む宍延との落差があまりに激しくて、鎚丸は口のなかで苦笑した。