鬼返し
【8】
秀康は、肩に担いだ踏鍬の重量に辟易しながら、黄昏のなか、林道を歩いていた。関所を通り抜けると、草の土臭さが一転、焼き魚の匂い、味噌を煮る匂いが入り混じって鼻腔をくすぐり、たちどころに空腹を喚起させられる。妻子と囲む食卓を脳裏に思い描くと、自然と歩調が早まった。なけなしの体力に鞭を打ち、東場の村道を進む。
かねてより着手していた森林開拓の終わりに目途が立ち、工事の現場は、最後の追いあげだといわんばかりに熱が込んでいた。里に門限がなければ、篝火を焚いて、夜中まで作業を続行する勢いだ。
秀康の班は里の最北端、稗田から、より北へ北へと新地を広げていた。着実に増え続ける民を養うためには、新しい畑を開墾する必要があったし、ひとの住める家や、日用品を製造する工場も増やさなければならなかった。土地の規模拡大は、里の繁栄と密に繋がっているのだ。子々孫々に安らげる土地を残すため、また妻子を養うため、秀康はこれを全力で支援している。
工事は円滑に進行していた。妖怪、妖精に妨害されることもままあったが、里の近隣に出没するそれらの脅威はあってないようなもので、遠巻きに様子見していれば、勝手に飽きて勝手にいなくなる。腕白盛りな子供の悪戯と大差なかった。妖怪も妖精も、弱小なぶんにはまだ可愛気があった。妖怪を絶対悪と断じ差別する老人や、秀康の加担する自警団の団員が真に恐れているのは、妖怪の山に棲みつき、組織立った動きをする聡明で狡猾な妖怪たちだった。
なかでも抜きん出て危険視しているのが、天狗と鬼である。大昔から生き永らえているこの二種こそが、かつて人間を虐げていた、残虐な悪魔の血を引く種族で、当時の無残を書き連ねた文献によれば、鬼はひとを、いちまいの紙の如く引き裂き、天狗はひとを、ひとにぎりの砂の如く吹き飛ばしたという。この記録に誇張がないとすれば、なんともぞっとする怪物だった。実物を見たことがない里民も多いが、人里ではそれが真実として語られている。そういった経緯もあり、開拓の矛先が山へ向くことは絶対になかった。
それに関連し、悪鬼を祓う呪いとして、里ではしばしば「鬼返し」の儀式が執り行われた。里中の老若男女が駆り出されての一大行事である。人手を非常に必要とすることから、執り行うのは人里の記念日と限定されていた。次回の開催予定日としては、北地の開拓が無事完了したのち、博麗神社の巫女をお呼びして執行するというのが濃厚である。
この「鬼返し」の儀が近づくたび、憂鬱な気持ちにさせられる。里総出での大事な儀式のため、呪いは厳かな雰囲気のもとで執り行われるのだったが、その緊張感たるや並大抵でなく、終始心臓を鷲掴みにされているようなもので、一向に慣れる気がしない。小さいころの苦い思い出も、精神面に影響を及ぼしているのかもしれなかった。
父が呑兵衛で、空も白けているうちに布団から出られなくなってしまい、あのころはまだ頑丈だった祖父と広場に出向いた先で見た、非現実的な光景が、いまでも目蓋に焼きついて色褪せない。塔のように積みあげた薪の周りで、飛び跳ねるように闊歩する鬼の面をつけた若者たち。腑の底まで響く和太鼓を乱打する音。火がついたように泣き叫ぶ赤ン坊。物々しい顔つきの女……。
怪談話にもへっちゃらだった秀康少年は人目も気にせず泣き喚き、祖父に抱きかかえられるようにして帰宅した。あとになって判明したのが、父も件の儀式ばかりは薄気味悪く感じていたようで、早々に酒の力を借りてふて寝を決め込んでいたらしいということ。それと、鬼の面を装着していたのは、あくまで悪者を演出するためであり、言わずもがな本物の鬼ではないし、秀康少年が会場を離れてからすぐに、手順に則って追い払われたらしいということだった。目を真っ赤に泣き腫らした自分に、祖父は、怖いなら仕方ないな、無理に連れてって悪かったなと慰めてくれたが、その顔には、臆病な秀康少年に対する悲愴の色が見え隠れしていて、秀康少年は幼心に恥じ入ったものだった。
「ただいま」
踏鍬を物置に片し、自宅の戸を開くと、土間のほうから飯を炊く良い匂いが漂ってきた。そこからひょいと顔を出した妻が、おかえりなさい、と頬を緩ませる。
「晩御飯、もうちょっと待ってね。圭介にお粥をつくってたの」
「ああ。――先生はなんて?」
「暑さにやられたんだろうって。でも、心臓に負担はないから心配しなくてもいいっておっしゃってたわ」
「圭介は?」
「いただいたお薬飲んで、そっちで幸せそうに眠ってるわ」
寝室を覗くと、息子は薄い布団を被り、微かに寝息を立てていた。そっと襖を閉じ、上着を脱ぎながら土間に降りる。頭にタオルを巻いた妻が、竈の囲いに団扇で風を送っていた。
「ご苦労様」
茶化すように言うと、
「あなたこそ、お疲れ様です」
妻も茶化すように返した。秀康は手近な柱に寄りかかる。
「開拓がひとやま超えたかそこらで、いっちょう景気づけに鬼返しをするんだってな」
「あら、そうなの。もうそんな時期なのねえ」
「うちの子供も十になった。そろそろ、初参加を決めてもいいんじゃないかな」
「そうねえ……」
妻は返答に躊躇した。彼女も、鬼返しの大要は把握している。きっと、息子がショックを受けるのではないかと懸念しているのだろう。腰が引けるのも当然だ。
「ま、べつに急いで決めることはないか。俺だって、初めて参列したのは十二のときだった」くつくつと笑う。「それでも、暗闇や鬼が怖くてぎゃんぎゃん泣いて、すぐに退散したっけな」
「圭介には、まだ早いんじゃないかしらねえ」
「今度、俺から聞いてみるよ」
秀康は自室に引っ込んだ。作業着から部屋着に着替え、椅子に腰掛ける。半分だけ開いた障子から射しこむ夕陽と、天を焦がすほど高く燃えあがる紅蓮の炎が一瞬だけ重なり、すぐに幻影となって消えた。
――第一部・了――




