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10話

その施設のことを知ったのは、夕飯の片付けをしているときだった。


 食洗機に入りきらなかったフライパンを洗いながら、スマートフォンで動画を流していた。


『結婚を前提とせず、女性と子どもが共同で生活する――』


 そこで手が止まった。


 画面には、大きな建物が映っていた。


 保育室。


 共同の食堂。


 小さな診療室。


 子どもたちが走り回る中庭。


 個室になった居住スペース。


 夜間も職員がいるという。


「へえ」


 思わず声が出た。


 リビングでは夫がテレビを見ている。


 小学二年生の息子は、床に寝転んでゲームをしていた。


「お風呂入ってよ」


「あとでー」


「あとでじゃなくて今」


「これ終わったら」


 いつものやり取りだった。


 夫が言う。


「先、俺入ろうか?」


「お願い」


 別に、不幸ではない。


 むしろ恵まれていると思う。


 夫は働いている。


 家事もする。


 子どものことも好きだ。


 休日には三人で出かける。


 住宅ローンはあと二十三年残っているけれど、払えない金額ではない。


 夫婦喧嘩もするけれど、離婚を考えたことはない。


 たぶん世間から見れば、普通の家庭だった。


 それでも私は、その動画を最後まで見た。


     *


 施設について調べ始めたのは、その日の夜だった。


 入居しているのは、必ずしも困窮した女性ばかりではない。


 会社員。


 看護師。


 公務員。


 自営業。


 離婚した人。


 結婚しなかった人。


 最初から一人で子どもを持つことを選んだ人。


 事情はそれぞれだった。


 共同生活といっても、昔の寮のようなものではないらしい。


 個人の部屋があり、生活は独立している。


 食事を自分で作る日もあれば、共同食堂を使う日もある。


 子どもが熱を出せば、仕事を休む以外の選択肢がある。


 残業になれば、誰かが迎えに行く。


 夜中に子どもが高熱を出しても、一人で判断しなくていい。


 休日に一人で出かけることもできる。


 そこまで読んだところで、私はスマートフォンを伏せた。


 少しだけ腹が立った。


 誰に対してなのかは、分からなかった。


     *


 息子が二歳のころ。


 私は一度だけ、台所で泣いたことがある。


 大した出来事ではない。


 夫の帰宅が遅かった。


 息子は夕方からずっと機嫌が悪かった。


 ご飯を食べない。


 お風呂にも入らない。


 着替えない。


 寝ない。


 私は翌日も仕事だった。


 洗濯物が残っていた。


 保育園の準備もしていなかった。


 冷蔵庫には麦茶がほとんどなかった。


 息子が床に牛乳をこぼした。


 それだけだった。


 それだけで、涙が出た。


 ティッシュで床を拭きながら泣いた。


 息子が不思議そうに私を見ていた。


 あのとき私は、


 誰か一人でいいから、今ここに来てほしい。


 と思った。


 夫ではなくてもよかった。


 母でも。


 妹でも。


 友達でも。


 知らない人でもよかった。


「私が拭くから、お風呂入れてきな」


 そう言ってくれる人が一人いたら、それでよかった。


 結局、誰も来なかった。


 当たり前だ。


 呼んでいないのだから。


     *


 翌朝。


 夫に施設のページを見せた。


「これ、すごくない?」


「何これ?」


「こういうところで子育てする施設」


 夫はしばらく読んでいた。


「シングルマザー向け?」


「だけじゃないみたい」


「へえ」


 そこで会話は終わると思った。


 でも夫はもう少し読んでから言った。


「これ、俺らみたいなのは入れないの?」


「え?」


「いや、父親いたらダメなのかなと思って」


 予想していない言葉だった。


「入りたいの?」


「入りたいっていうか」


 夫は笑った。


「楽そうじゃん」


 私は少しムッとした。


「楽って」


「悪い意味じゃなくてさ」


 夫は画面を指でスクロールした。


「子ども見てくれる人が何人もいて、飯もあるんだろ。病気のときも助けてもらえて。お前も楽だし、俺も楽じゃん」


 そこで私は黙った。


 そうか。


 と思った。


 これは女だけが楽になる施設ではない。


     *


 考えてみれば、夫も夫で疲れていた。


 朝七時に家を出る。


 帰宅は八時。


 帰ってきてから風呂に入れ、洗濯物を畳み、翌朝のゴミをまとめる。


 休日には公園へ行く。


 私が美容院に行けば息子と二人で過ごす。


 それを特別なことだとは思っていなかった。


 父親なのだから当然だと思っていた。


 たぶん、夫もそう思っている。


 母親なのだから。


 父親なのだから。


 夫なのだから。


 妻なのだから。


 家族なのだから。


 二人でやるのが当然。


 できなければ、どちらかが頑張る。


 それでも無理なら、実家を頼る。


 実家も無理なら、お金を払う。


 それも無理なら。


 頑張る。


 結局、最後はそこに戻ってくる。


     *


「こういうの、俺らが結婚したころにあったらどうしてた?」


 夫が聞いた。


「分からない」


「住んだ?」


「あなたと?」


「うん」


「それなら普通のマンションでいいじゃん」


「でも、子育て始まってからなら?」


 私は考えた。


 息子が生まれたころ。


 毎日三時間おきに起きていたころ。


 夫が仕事に行ったあと、赤ん坊と二人きりになった朝。


 夕方になるのが怖かったころ。


 保育園からの着信を見るたびに心臓が縮んだころ。


 二人目をどうするか話していたころ。


 私は、二人目が欲しかった。


 夫も欲しいと言った。


 でも結局、一人にした。


 理由はいくつもあった。


 お金。


 仕事。


 年齢。


 家の広さ。


 私の体力。


 夫の勤務時間。


 もう一度、あの乳児期をやることへの怖さ。


 どれか一つが決定的だったわけではない。


 全部だった。


「……住んだかもね」


 私は言った。


 夫も、


「俺も」


 と言った。


     *


 息子が起きてきた。


「おはよう」


「おはよ」


「今日、学校行きたくない」


「なんで?」


「体育ある」


「体育嫌いなの?」


「今日シャトルラン」


「ああ」


 それは嫌だな、と夫が笑った。


 私は朝食を並べた。


 三人で食卓につく。


 いつもの朝だった。


 この生活が嫌いなわけではない。


 むしろ大切だった。


 だからこそ思う。


 家族を壊してまで、別の仕組みに入りたいわけではない。


 夫をいらないとも思わない。


 父親なんて必要ないとも思わない。


 ただ。


 家族だけで子どもを育てなければならない理由も、本当はなかったのではないか。


 夫婦二人で抱え込むことを、


「自立した家庭」


 と呼んできただけなのではないか。


     *


 その夜。


 息子が寝たあと、私はもう一度施設のページを開いた。


 入居者募集。


 説明会。


 施設の日常。


 たくさんの写真が並んでいる。


 私は応募ボタンを押さなかった。


 押す理由がない。


 夫がいる。


 家がある。


 仕事がある。


 今の生活がある。


 だから画面を閉じた。


 ただ、最後に一度だけ思った。


 もし。


 あの台所で泣いていた二十九歳の私が、


 これを知っていたら。


 二人目を諦める前の私が、


 こんな場所もあるのだと知っていたら。


 人生は変わっただろうか。


 答えは分からない。


 でも少なくとも、


「私たち二人で頑張るしかない」


 とは、思わなかった気がする。


 隣の部屋から夫のいびきが聞こえた。


 その向こうで、息子が眠っている。


 私は電気を消した。


 家族は好きだ。


 夫も好きだ。


 息子も大切だ。


 それと、


 もっと誰かに頼りながら子どもを育てたかった、


 という気持ちは、


 たぶん矛盾しない。

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