1話
「お母さんは、どの人?」
そう訊かれることが、一番説明しづらい。
「産んだ人、という意味ならいます」
美緒がそう答えると、取材に来た女性記者は少しだけ困った顔をした。
「でも、普通の意味でのお母さんは、いない?」
「普通の意味、というのが分からないんです」
美緒はそう言って、テーブルの端に置かれていた麦茶を一口飲んだ。
取材場所に指定されたのは、施設の中でも珍しく生活感のない部屋だった。
白い壁。四人掛けのテーブル。椅子が六脚。壁際には小さな観葉植物が一鉢だけ置かれている。
施設の名称は「環生舎」。
都心から電車で四十分ほど。駅から徒歩十二分。
外から見ると、私立学校の寮か、企業の研修施設のように見える。
六階建ての建物が二棟。
一階には大食堂、厨房、診療室、ランドリー、事務室、学習室。二階から四階が居住区。五階と六階は子どもたちの生活空間と共有設備になっている。
中庭には小さな運動場がある。
現在暮らしている女性は四十三人。
子どもは百八十六人。
最年少は生後二か月。
最年長は十四歳だった。
そして、美緒は三十五歳。
脳神経内科医。
この春、環生舎に入った。
「ここに来ることに、抵抗はありませんでしたか」
記者が訊いた。
「ありました」
「どんな?」
「変な宗教だと思いました」
記者が笑った。
美緒も笑った。
実際、環生舎は宗教法人だった。
創設者の九条千景が二十七年前に取得した法人を母体としている。
しかし、礼拝堂はない。
教祖の肖像もない。
毎朝唱える言葉もなければ、祈りの時間もない。
あるのは、生活規則と、いくつかの原則だけだった。
第一。
子どもを個人の所有物と考えない。
第二。
育児を特定の女性に集中させない。
第三。
女性が出産によって職業能力を失う仕組みを作らない。
第四。
構成員は可能な範囲で次世代を多く残す。
第五。
共同体は、そのために必要な費用と労働を引き受ける。
世間が環生舎を「教団」と呼ぶようになったのは、この第五原則までを知った頃からだった。
美緒自身、最初に記事を読んだときは閉じた。
気味が悪かったからだ。
彼女は都内の中高一貫校を出て、国立大学医学部へ進んだ。
二十四歳で医師になり、研修、専門医取得、大学院、留学。
気がつけば三十四歳だった。
貯金はある。
年収もある。
仕事も好きだった。
結婚願望は、ほとんどなかった。
しかし子どもは欲しかった。
一人ではない。
昔から五人くらい欲しいと思っていた。
その数字を口にするたび、友人たちは笑った。
「無理でしょ」
美緒自身も、そう思うようになった。
五人を育てる費用が払えないわけではない。
問題は金だけではなかった。
時間。
住居。
送迎。
食事。
洗濯。
発熱。
保育園からの呼び出し。
学校行事。
そして妊娠と出産によって中断される仕事。
一つ一つは解決できる。
しかし全部を同時に解決しようとすると、人生そのものを組み替えなければならない。
三十五歳のとき、美緒は二度目に環生舎の記事を読んだ。
今度は最後まで読んだ。
そして驚いた。
そこでは、ほとんどすべてが共有されていた。
洗濯機は各家庭にない。
巨大なランドリールームで一括処理される。
洗剤も、紙おむつも、ティッシュも、学用品も、子ども用の衣類も個人では買わない。
食事は厨房で作られる。
乳幼児食も同じだった。
ベビーカーは共有。
チャイルドシートも共有。
玩具も絵本も共有。
衣類には名前すら書かれていない。
サイズごとの棚から必要なものを取る。
子どもが成長すれば戻す。
誰かが風邪をひいても、一人の女性が仕事を休む必要はない。
日中は専門のスタッフがいる。
夜間も当番がいる。
構成員自身も週に一定時間、共同育児に参加する。
医師だから免除されることはない。
研究者も、弁護士も、公認会計士も、大学教員も同じだった。
その代わり、誰も一人で背負わない。
美緒がもっとも驚いたのは、一人あたりの育児負担を示した内部資料だった。
子どもの数が増えるほど、共同化できる作業が増えていた。
百人分の夕食を作るのに、百人の親はいらない。
百人分の洗濯にも百台の洗濯機はいらない。
子ども百人を見守るのに、百人の大人が同時に必要なわけでもない。
家庭という単位で繰り返されていた作業を集約すると、驚くほど多くの重複が消えた。
美緒は資料を読みながら思った。
気味が悪い。
でも、合理的だ。
合理的すぎる。
だからこそ、気味が悪いのだ。
*
環生舎を作った九条千景は、もともと不動産会社を経営する一族の娘だった。
若い頃から結婚には興味がなかった。
一方で、子どもは大勢欲しかった。
そこで最初は、自分のためだけに仕組みを作った。
土地を買い、建物を建て、保育士と調理師を雇った。
そこへ大学時代の友人が一人加わった。
次に、その友人の同僚が加わった。
最初の十年間、環生舎はほとんど知られていなかった。
転機になったのは、ある週刊誌の記事だった。
『高学歴女性だけが暮らす謎の共同住宅』
記事には批判もあった。
「優生思想ではないか」
「家族を破壊している」
「子どもの心理に問題はないのか」
「富裕層の実験ではないか」
環生舎は、ほとんど反論しなかった。
代わりに、少しずつ数字を公開した。
構成員の職業。
退職率。
子どもの健康状態。
教育費。
育児に費やされる平均時間。
共同生活から離脱した人の割合。
そして、成人した第一世代への第三者機関による追跡調査。
情報が増えるにつれ、世間の見方も単純ではなくなった。
賛成する者。
嫌悪する者。
羨む者。
危険視する者。
そして、入りたいと言う者。
現在、環生舎への年間応募者は六百人を超える。
実際に入居できるのは、十人前後だった。
誰でも入れる場所ではない。
学歴だけでもない。
収入だけでもない。
健康状態、職業、共同生活への適性、子どもに対する考え方。
何度も面接が行われる。
そして最後に必ず訊かれる。
――あなたは、なぜ子どもを産みたいのですか。
美緒は、その質問に答えられなかった。
「欲しいからでは駄目ですか」
面接官は首を振った。
「駄目ではありません」
「では、それが答えです」
「分かりました」
それだけだった。
その三週間後、入居許可のメールが届いた。
*
午後六時。
取材を終えた美緒が居住区へ戻ると、廊下を子どもたちが走っていた。
「走らない」
誰かが言った。
子どもたちが歩く。
三秒後には、また走り始めた。
美緒は笑った。
「ミオ!」
五歳の女の子が駆けてきた。
「今日、泊まる?」
「今日は四階」
「じゃあ来ない?」
「あとで行くよ」
女の子は満足したらしく、そのまま走っていった。
美緒が産んだ子ではない。
しかし、それを意識することは少なかった。
環生舎では、子どもたちは大人を名前で呼ぶ。
誰が誰を産んだのかは記録されている。
秘密ではない。
本人も知ることができる。
ただ、それを日常生活の中心に置かない。
生物学上の母親が特別に会いたければ会える。
子どもが特定の大人になつくことも止めない。
制度が人間の感情を禁止することはできない。
九条千景が初期の文書に書いている。
――親子の愛情を否定するのではない。それを義務にしない。
美緒は、その一文が好きだった。
エレベーターを待っていると、隣に紗季が立った。
三十九歳。
弁護士。
子どもが六人いる。
「取材、どうだった?」
「また『お母さんは誰ですか』って」
「ああ」
紗季が笑う。
「それ、百年くらい訊かれるんじゃない?」
「たぶん」
エレベーターが開いた。
二人で乗る。
紗季が四階を押した。
「そういえば、来週、九条さんの全体説明あるよ」
「何の?」
「三号棟」
美緒は彼女を見た。
「建てるの?」
「土地はもう買ったって」
「早くない?」
「待機が八十七人」
「そんなに」
「それと」
紗季は少し間を置いた。
「制度を変えるらしい」
「何を?」
「選抜基準」
エレベーターが止まった。
扉が開く。
廊下の向こうから、夕食を知らせるチャイムが聞こえた。
紗季は歩きながら言った。
「これまでは、ここで暮らしたい女性を選んできたでしょう」
「うん」
「これからは違う」
美緒は立ち止まった。
「何が?」
紗季も振り返った。
「ここで生まれた子どもたちが、成人し始めたから」
その意味を、美緒はすぐには理解できなかった。
「環生舎はもう、女性を集める施設じゃない」
紗季は言った。
「次の世代をどうするか決める共同体になったの」
食堂から子どもたちの声が響いていた。
百八十六人。
来年には二百人を超える。
そのうち女の子が、およそ半分。
彼女たちは、やがて大人になる。
ここで育った人間にとって。
結婚すること。
一組の男女が家を持つこと。
自分が産んだ子どもだけを育てること。
それらは「普通」なのだろうか。
それとも。
美緒たちのほうが、すでに古い世代なのだろうか。
「ミオー! ごはん!」
遠くから声がした。
美緒は顔を上げた。
「今行く」
そう答えて、食堂へ向かった。




