第21話 封をした予告
審査会まであと七日。公社による検証初日の朝、俺と十和田は再び迷宮管理公社関東支部のフロアに立っていた。
案内された第一小会議室には、宮原補佐の他に、もう一人の青年技官が待っていた。
二十代後半――二十七、八といったところだろうか。折り目の正しい公社の制服を着て、手には最新型の頑丈なタブレット端末を携えている。細身の銀フレームの眼鏡をかけ、几帳面そうに切り揃えられた黒髪が印象的だった。
「ご紹介します。当課でAI測量システムの運用を担当している汐見航技官です。今回の現場立会およびデータ照合を担当します」
宮原補佐の紹介に、青年――汐見技官は姿勢を正したが、その目線は冷ややかだった。
「汐見です。志賀氏、提出された『観測手順書』を拝見しました」
彼はタブレットの画面を指先で弾きながら、感情を交えずに言った。
「率直に申し上げて、極めて非合理的です。石組みの変色や反響音といった主観的・感覚的パラメータをどれだけ並べようと、それは統計的数理モデルの代替にはなり得ません。人力の勘を公的記録に載せること自体、公社の測量基準に対する後退だと自分は考えています」
「汐見くん」
宮原補佐が低く制したが、汐見技官は引かなかった。
「事実を申し上げているだけです。柏木課長からも、公社の予算と人員を浪費しないよう釘を刺されています。ですが……宮原補佐の職権による決定である以上、立会業務自体は厳正に執行します」
敵意ではない。自らの専門と組織の規則に純粋に忠実なのだと分かった。かつてアルゴノートでAI導入を進めていた技術者たちと同じ、揺るぎない確信の目だった。
「では、検証の手続きを説明します」
宮原補佐が二通の厚手の茶封筒を机の上に置いた。
「本日、第七迷宮浅層の第二層および第四層において、志賀さんに組み替えの前兆を観測していただきます。観測終了後、その場で『組み替え予測書』を作成し、この封筒に入れて公社の公印と志賀さんの署名で封緘します。封緘後は当課の金庫で厳重に保管します」
彼女は細い指を立てて、厳格な条件を付け加えた。
「予告書の提出後、志賀さんは該当区画への立ち入りを一切禁じます。外部からの干渉を防ぐためです。組み替えの発生が確認された後、現場にて公社立会人のもとで開封し、予測値と実際の変動を突き合わせます。いいですね?」
「はい。異論ありません」
逃げ道のない、完全な密室封緘。
俺は深く一礼し、机の上の封筒を見つめた。
◇
午前十時。第七迷宮第二層。
浅層特有の湿った石造りの大通路を、俺たちは歩いていた。
俺の後ろには、記録用のバインダーを抱えた十和田。そして少し離れた位置から、汐見技官と二名の公社測量員が、三脚付きの環境スキャナーを担いで追従している。
通路の遠巻きには、物珍しそうに眺める一般の探索者たちの姿もあった。「おい、あれ『予言おじさん』だろ」「公社が何か検査してるぞ」と囁き合う声が微かに反響する。
「志賀氏、この区画ですか」
汐見技官が無機質に問いかけてきた。第二層の中央環状路から分岐する、幅五メートルほどの直線通路だ。
「ええ。ここで観測を行います」
俺は息を整え、古びた光学測距器を取り出した。
他人の視線が背中に突き刺さる。いつもの気楽な一人歩きとはまるで違う。緊張で指先が強張るのを感じながら、俺は十和田と作った手順書を脳裏に広げた。
「……手順書第一段階。『敷石の沈み込みと反響音』を確認します」
俺はあえて、行動のすべてを口に出した。
通路の中央にしゃがみ込み、古い革靴の踵で敷石をリズミカルに叩く。
トントン、コンコン。
「手前三メートルは反響音が高い。敷石の噛み合わせが詰まっており、側方からの圧縮応力が進行中。奥の十メートル付近は音が抜けている。引っ張り側の解放端です」
十和田が素早く手帳にチェックを入れる。背後で汐見技官がタブレットを操作し、環境スキャナーの超音波センサーと数値を照合していた。
「……続いて第二段階。『壁面の接合部と微小亀裂』。右壁のモルタル、床から一・二メートルの高さに黒ずみと粉塵の剥離あり。熱応力による微小滑落の前兆です」
俺は壁に触れ、指先に残るざらつきの感触を確かめた。
「第三段階。『排水と気流』。左隅の側溝の水流が、通常よりも毎分約二リットル減少。奥で閉塞が始まっています。以上の観測結果より、十七項目のフローチャートに従い判定します」
俺はその場で立ち上がり、十和田からペンと用紙を受け取った。
『予測事案:第七迷宮第二層・工区二〇四』
『変動形態:右側壁の滑落による通路閉塞、ならびに天井落石』
『発生予測時刻:本日より三十六時間から四十二時間以内』
迷うことなくペンを走らせ、用紙を折りたたんで公社の茶封筒に入れた。
汐見技官が差し出した封蝋にライターの火が灯され、赤い蝋が封じ目に滴り落ちる。俺はそこに公印を押し、自らの名前を署名した。
同様の手順を第四層の区画でも行い、正午には二通の封緘書が汐見技官のジュラルミンケースへと収められた。
「確かに預かりました」
汐見技官はケースの鍵をカチリと閉め、眼鏡の奥から冷たい目を向けた。
「結果は二日後です。志賀氏、念のため申し添えますが、この二日間、この階層へ一歩でも足を踏み入れたら即座に無効試合となります」
「分かっていますよ」
俺は軽く苦笑し、頭を下げた。
すべてを吐き出し、賽は完全に手元を離れた。あとは、迷宮がいつも通りの呼吸をしてくれるのを信じるしかなかった。
◇
二日後の午後。
公社からの緊急連絡を受け、俺と十和田は第二層の工区二〇四へと駆けつけた。
現場には、すでに宮原補佐と汐見技官、そして数名の測量技官が集まっていた。通路の手前には黄色の立入禁止テープが張られ、その奥には――巨大な土砂と角柱が崩落し、通路が完全に塞がれた無残な光景が広がっていた。
「……本当に、崩れてる」
十和田が言葉を失った。
宮原補佐は手袋をはめた手で、金庫から出してきたあの茶封筒を掲げた。
「立会人の前で開封します。封印の破損なし、署名の同一性を確認」
ペーパーナイフで封が切られる。
パキリ、と乾いた音が現場の空気を裂いた。
宮原補佐は中から取り出した予測書を広げ、淡々と読み上げた。
「『第七迷宮第二層・工区二〇四。右側壁の滑落による通路閉塞、天井落石。発生予測時刻、三十六時間から四十二時間以内』」
彼女は手元の記録端末に視線を落とした。
「実際の変動発生時刻は、予測提出から三十八時間四十分後。崩落箇所は右側壁および天井部。完全な一致です」
「やった……!」
十和田が思わず歓声を上げ、両手で口を押さえた。周囲にいた測量技官たちからも、小さなどよめきが漏れる。
封緘による事前予告の完全的中。これ以上ない客観的な勝利のはずだった。
だが――。
「……偶然ですね」
冷ややかな声が、その場の空気を一瞬で凍りつかせた。
汐見技官だった。彼は表情を一切崩さず、手元の大型タブレットの画面を宮原補佐と俺に向けた。
「第二層工区二〇四の組み替えについては、当課の『オルタマップ』も同様の予測を出していました。こちらをご覧ください」
画面には、三日前――俺たちが観測を行う前日に出力されたAIの予測ログが表示されていた。
『第二層・中央分岐路東側。地圧データの推移に基づき、向こう四十八時間以内の落石確率八十二%』
「浅層の組み替え周期は緩やかで、公社の蓄積データも豊富です。数理モデルを使えば、この程度の局所崩落は誰でも事前に検知できます」
汐見技官はタブレットを胸に抱え込み、俺をまっすぐに見据えた。
「志賀氏。あなたが古い経験則で当てたことは認めますが、それはAIがすでに導き出していた結論と何ら変わりありません。浅層の一件が当たった程度で、人力の勘が客観的制度に勝ると証明されたわけではないのです」
ぴしゃりと冷水を浴びせられたような沈黙が落ちた。
喜んでいた十和田の顔から血の気が引いていく。
俺はただ、静かに目を伏せた。
悔しさはなかった。汐見技官の言っていることは、論理として完全に正しかったからだ。浅層のデータは揃いすぎている。そこで当てたところで、「AIでもできること」の域を出ない。
宮原補佐は予測書をファイルに挟みながら、感情を交えずに言った。
「一件目は記録として受理します。ですが、汐見技官の指摘通り、これだけでは審査会を覆す材料にはなりません。二件目の第四層、そして――本命である中層・第五層の検証結果を待ちましょう」
「……はい」
俺は短く答えた。
浅層の勝利など、ただの序の口に過ぎない。
本当の戦場は、蓄積データが通用しなくなり、AIが沈黙する場所――中層の先にあるのだ。
暗い迷宮の奥を見つめながら、俺は冷えた指先を手順書の表紙に押し当てた。




