第10話 間宮新一の破滅①
東京駅から貸し切りの大型観光バスが出発して約一時間――。
人工的な街並みはとっくに消え去り、奥多摩の雄大な山林と奥深い渓谷がどこまでも続いている。
間宮新一は窓を少しだけ開けた。
舗装路を縫うように流れる多摩川のせせらぎが、わずかに開けた窓から涼しい空気とともに車内に流れ込む。
天気も快晴。
まさに絶好の社員旅行日和だ。
自然の風景を満喫していると、車内にマイクを軽く叩く音が響いた。
間宮は少し背伸びをして運転席のほうを見る。
社長の五味岡がツアーガイドのようにマイクを手にしていた。
「え~、今日はお日柄もよく、実に素晴らしい社員旅行の日となりました」
どうやら五味岡のありがたい挨拶が始まるらしい。
「日々の多忙な業務でお疲れでしょうが、本日はこうして社長である私――五味岡哲夫がささやかながら社員旅行を開かせていただきました。皆さん、今日は無礼講です。まだ目的地に向かう道中ですが、大いに飲んで食べて楽しんでください!」
おおおおお、と車内に歓声と拍手が沸き起こった。
五味岡は満足げにうなずき、大きく手を振る。
今までどこか仕事の延長線上に感じられた微妙な空気は払拭され、バスの中は一気に和やかな雰囲気に包まれた。
その証拠に初めて五味岡商店の社員旅行を経験している社員たちは、ビールをノンアルコールからアルコールへと切り替える。
今日は無礼講。
さすがに社長の五味岡や幹部社員に無礼な言動をするのはNGだが、中途入社の社員たちはそこら辺のさじ加減はよくわかっているはずだ。
間宮もそうである。
初めて五味岡商店の社員旅行を経験し、いつもよりも気分が高揚している。
しかし間宮は一滴の酒も飲めない下戸のため、他の社員たちのように酒を飲んで馬鹿騒ぎすることはなかった。
無礼講となって十分ほど経ったときだろうか。
「間宮さん、お隣よろしいですか?」
バスの中心部に近い窓際の席に座っていた間宮に、一人の女性社員が柔和な笑顔で話しかけてきた。
経理部の灰原美雪だ。
美雪は二本のノンアルコール飲料を持っている。
「ええ、もちろん。さあ、どうぞ」
間宮はわざと開けておいた隣の席に灰原を促す。
「失礼しま~す」
美雪は軽く周囲を見渡すと、開いていた席に腰を下ろした。
「大丈夫だ。他の連中はもう酔い始めてるから俺たちのことなんて気にしちゃいないよ」
間宮は砕けた口調で言うと、美雪の手からノンアルコール飲料を奪い取った。
それでも美雪は顔色一つ変えない。
当たり前だ。
美雪は下戸と知っている間宮のため、わざわざノンアルコール飲料を持ってきたのだから。
「そうね……じゃあ、ここからはお互い普段と同じ恋人同士ということで」
間宮の言動で美雪の表向きの顔が剥がれた。
そして別の顔が露になる。
間宮と何の接点もない経理部の社員としての顔ではなく、プライベートで深く付き合っている恋人の顔だ。
「うふふ、神山さんも今日の社員旅行に参加してたら面白かったんだけど」
「神山?」
一瞬、誰のことを言っているのかわからなかったが、社員旅行の参加うんぬんで思い出した。
「はいはい、お前がATMとして使っていた《《神谷さん》》ね」
わざと名前を間違えて呼ぶと、美雪は十代の少女のように屈託なく笑った。
「そう、そのATMの神谷さん。今頃、何してるのかな……」
美雪の声には一切の未練や悲しげな含みはない。
あるのは財布の一つを無くしたぐらいの感情だった。
「まったく、お前も悪い奴だよ。将来に希望のない中年のおっさんを騙してATM代わりにしていたばかりか、ダンジョン探索者まで騙して金ヅルにしていたんだからな」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。別にわたしは二人ともATMにしたいなんて言った覚えはないのよ。勝手に向こうが勘違いしてわたしに貢いでいただけなんだから」
間宮は爆笑しそうになった。
やはり美雪は最高の女だ。
馬鹿で初心な女と付き合うのも悪くはないが、美貌もスタイルも良くて性悪な女ほど付き合って面白いことはない。
それに美雪は面倒なメンヘラ女と違い、火遊びをしても火の粉が自分に飛ばないよう緻密に計算している。
それが特に気に入っていた。
「くくく……それで、神山のおっさんをボコったダンジョン探索者のほうとはどうなったんだよ」
「ああ、あいつね。あれから何度も連絡してきてウザいから切ってやったわ。神山さんを殴っていた動画は念のため撮っておいたから、これ以上わたしに付き纏うなら動画を持って警察に駆け込むよ、と言ったら簡単に引き下がってくれた」
「くくく、マジでうけるわ。お前、とんだ悪女だな」
周囲から目を引くほどの爆笑はしなかったが、美雪の性格の悪さに間宮は小さく腹を抱えて笑う。
「何よ、性格の悪さはお互い様じゃないの。あなただって神山さんに今の地位を奪われそうだったから、あの探索者の男を襲わせて無理やり辞めさせようと計画したじゃない」
「おい、誰かに聞かれてたらどうすんだよ」
間宮はピタッと笑うのを止めると、真剣な表情で周囲の様子を窺った。
自分たちの席の周りに他の社員たちはいない。
後部座席の周辺には社員旅行未経験の社員たちが集まり、盛大にアルコールを摂取して大いに盛り上がっている。
一方で五味岡を含めた幹部社員たちは運転席近くの席に集まっていた。
五味岡たちは飲み食いをほとんどしておらず、何やら小声でひそひそと話し合っている。
まさか、社員旅行に来てまで仕事の話をしているのだろうか。
まあ、それはさておき。
「別にあのおっさんに今の地位を奪われるなんて微塵も思ってなかったし。ただ、冴えない中年おっさんのくせに妙に取引先から好かれている奴だったから、ちょこちょこ営業成績が良かったんだよ」
事実だった。
おそらく腰の低さとねばりのある営業で信頼を勝ち取っていたのだろう。
その実績をもとに神山は大手企業に営業を始めようとした。
これはまずい、と間宮は焦った。
神山と同じく中途入社で年下の間宮が係長に昇進できたのは、本人の努力以上に運に恵まれていたことが大きい。
ダメもとで飛び込んだ大手企業との契約が立て続けに成功し、ちょうど係長の椅子が空いていたことから間宮はトントン拍子に係長に昇進した。
この昇進をきっかけに間宮は決意した。
五味岡商店でとことん出世してやる。
そして五味岡商店で実績と経験を積んだあと、もっと大きな魔道具卸売り業の会社――いや、企業へと転職するのだ。
そのためには目立ちそうな部下の芽は早めに摘んでおかなければならない。
五味岡商店では普通の会社と違い、昇進や降格が五味岡の好みで決まるワンマン経営だ。
間宮は日頃から係長として部下と魔道具の管理に加え、売上報告やクレーム報告、メーカーや仕入れ先の折衝で神経をフル回転させている。
少しでも仕事でミスがあれば呆気なく降格させられるからだ。
実際に前の係長もそうだった。
ほんの些細なミスで降格され、給料も大幅に減らされたことで精神を病んで会社を辞めていった。
(俺はあんな風には絶対にならない)
辞めるときは負け犬のように辞めるのではなく、次のステップに昇るために辞めてやる。
そのためには自分が管理している営業部の成績が上がらなくてはならない。
最近では競合他社が多いので売り上げを著しく上げるのは非常に困難だが、その点では神山は学生時代にスポーツでもやっていたのか根性だけは人並み以上にあった。
結果的に徐々に営業成績を上げて売り上げに貢献してくれた――ここまではいい。
上司としても部下の営業成績が上がるということは、その部下たちを管理・教育している間宮の評価も上がることを意味していたからだ。
だが、神山の営業は最近では神がかってきていた。
売上データを管理していた間宮は、神山の営業実績を見て嬉しさよりも恐ろしさを覚えるようになった。
営業成績が破竹の勢いで上がる傾向があったのだ。
このままでは滅多に出ないという社長賞が出るかもしれない。
そうなると神山は必ず昇進する。
あの時点で営業部のリーダーだったから、さらに五味岡に認められたら係長補佐になり、ゆくゆくは自分を追い抜いて課長に昇進するかもしれない。
間宮は神山のことが嫌いだった。
憎んでいたと言い換えてもいい。
裏の顔を持つ間宮だからこそわかる。
神山には裏の顔がない。
まるで子供がそのまま大人になったような純粋さがあった。
そのギャップは実社会では奇妙に映ることがある。
大人になれば誰でも表の顔と裏の顔を使い分けて働く。
興味もない話題に相づちを打ち、上司の自慢話には「凄いですね」と持ち上げる。
社会とはそうやって回るものだ。
誰にも本当の顔を見せず、適当に話を合わせ、そして日々の仕事を終わらせる。
その中でやはり神山という男は少し異質だった。
誰とでも気さくに話せるコミュニケーション能力はなかったが、代わりに物事に集中して結果を必ず出すという根性があった。
頭は決して悪くないだろう。
自分と違って大学は卒業していなかったが、素早く状況を判断して最終的な到達点を見極め、その途中のプロセスをどう組み立てればいいのか細部まで考えられる地頭の良さがあった。
それは間宮も認めていた。
だからこそ、間宮は神山を半ば強引な理由でクビに追い込んだ。
神山拳一郎は将来、必ず自分の出世の邪魔をする存在になる。
そう確信した間宮は、神山が出世する前に手を打った。
美雪のATMになっていたことを逆手に取り、同じくATMだったダンジョン探索者の男とバッティングさせて喧嘩沙汰を起こさせたのだ。
おかげで神山は五味岡の後押しもあって会社を去った。
すべてが成功したとき、間宮は海辺で砂の城を完成させたような達成感を味わった。
神山は変な正義感を発揮する男であり、入社して間もなかったときは一緒に取引先へ営業へ向かう最中に困った人間に手を差し伸べていたりしていた。
馬鹿だと思ったものだ。
何の見返りもなく困った人間を助けるなど頭がどうかしている。
今思い返すと、神山を嫌いになったのはそのときからだった気がする。
「ねえ、社長の別荘ってどんなところかな?」
「え?」
急に話を振られたと思い、間宮は驚いた顔を美雪に向けた。
「え、じゃない。これから行く社長の別荘はどんなところって話」
「ああ……まあ、いいところなんじゃないか」
五味岡商店の社員を乗せた大型バスは、奥多摩にある五味岡の別荘地に向かっている。
何でも土地ごと購入した豪華な別荘地があり、人気もない場所ということから大勢で騒いでも近隣から苦情は一切ないという。
「メッチャ楽しみ。先輩から聞いた話によると、わたしたちの人生観を変えさせるほどのイベントが用意されてるんだって」
「大袈裟すぎだろ。たかが別荘地に行くぐらいでそんな簡単に人生観なんて変わるもんか」
「わからないよ。それこそ、あっと驚くことが待っているかも――」
と美雪が期待に胸を膨らませたときだった。
「皆さん、注目注目!」
突如、車内に五味岡のバリトン声が響いた。
全員の視線が五味岡に向けられる。
「え~、お楽しみのところ申し訳ありません」
五味岡はマイクを持ちながら小さく頭を下げる。
「当バスはもうすぐ目的地へと到着するのですが、その前に皆さんに今回の社員旅行の内容をご説明させていただきます」
「知ってますよ! 社長の別荘で豪華なBBQと花火大会をするんでしょう!」
酔っぱらっている男性社員が笑顔で叫ぶ。
車内からは「楽しみ~」や「現地ではもっと飲むぞ」などの歓喜の声が沸き立つ。
「お静かに!」
直後、五味岡は表情を一変させて怒声を上げた。
ビクッ、と社員たちの声は鳴り止む。
間宮と美雪も同様に、仏の顔から鬼の形相に変わった五味岡の顔を呆然と見つめる。
「BBQ? 花火大会? 残念ですが、皆さんがこれから行くのは別荘地ではありません。ダンジョンの中です」
しんと車内が静寂に包まれる。
その中でも五味岡の淡々とした声だけが聞こえてくる。
「嘘ではありません。皆さんはこれから、我ら〈アルカナ創魔会〉が所有している〈迷門〉を通ってダンジョンの中へ入ります。そして、とある施設の中で皆さんを人体実験のモルモットとして扱います。よろしいですね?」
〈アルカナ創魔会〉。
その名前はダンジョン業界で働いている人間ならば当然知っている。
アジトが不明のカルト宗教団体であり、教祖代行や幹部たちにはシーカー協会でも最高ランクの賞金が懸けられている凶悪犯罪者たちだ。
「しゃ、社長……いくら社員旅行だからって冗談がキツすぎますって」
そう言って立ち上がったのは、先ほど大声を上げた男性社員だった。
「冗談?」
五味岡はズボンの後ろに手を回すと、拳銃を取り出して男性社員に向ける。
「どうしてモルモット風情に冗談なんて言う必要がある?」
次の瞬間、乾いた音とともに銃が火を噴いた。
本物の弾丸で心臓を撃ち抜かれた男性社員は、見えない糸に引っ張られるように後方に飛んだ。
そして、二度と起き上がらなかった。
「い、いやああああああああ」
男性社員が射殺された途端、車内はパニックになった。
誰もがバスから逃げ出そうとしたが、アルコールの摂取に加えて入り口を五味岡たちが塞いでいるので誰も降りられない。
しかもバスはまだ六十キロ以上で走行中だ。
不意に間宮の鼻腔につんとしたアンモニア臭が漂ってきた。
匂いの発生源は美雪の股間だった。
清楚な純白のワンピースの股間部分が濡れている。
あまりの事態に失禁したのだ。
「はい、これで冗談ではないことはわかりましたね」
この一言で他の社員たちは一斉に押し黙った。
五味岡は依然として拳銃を向けている。
少しでも歯向かう素振りをすれば、射殺された男性社員と同じ運命を辿るだろう。
「うんうん、聞き分けのいいモルモットは好きですよ。では、そのまま目的地に着くまで大人しくしていてください。あっ、ちょっとでもスマホをいじったら容赦なく殺しますのであしからず」
こうして間宮たちを乗せた絶望の大型バスは、二人目の犠牲者を出すことなく目的地まで走り続けたのだった。
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