第68話 脱出艇
ゴオォォォッ――。
業務用のハイカロリーバーナーが、青く鋭い炎を吹き上げながら低く唸っていた。
熱せられた鉄の匂いと、煙を吸い込む換気扇の一定の回転音。
東京湾を一望できるオメガ・リスクマネジメントのアイランドキッチンで、佐藤は厚手のタオルで鉄鍋の柄を握り、静かに息を整えていた。
手元には、下ごしらえを終えた食材が白いバットの上に整然と並んでいる。
数日前、新宿伊勢丹の地下にある老舗の精肉店で手に入れておいた、吊るし焼きの本格焼豚。余分な脂を落とし、秘伝のタレを吸わせてじっくりと火を入れたその塊を、佐藤は寸分の狂いもなく五ミリ角の賽の目に切り揃えていた。
その隣には、みじん切りにした白ネギ、そして平飼い有精卵を溶きほぐしたガラスボウル。
中華鍋を強火にかざし、煙がわずかに立ち上った瞬間、佐藤は黄金色の油を鍋肌に滑らせた。
溶き卵を一気に流し込む。
ジュワッ、と激しい泡立ちが起こり、卵がふんわりと膨らんだ刹那、少し硬めに炊き上げておいた温かい米を投入した。
ガシャ、ガシャ、ガシャアン。
鉄鍋と鉄杓子がぶつかり合う、リズミカルで暴力的な金属音が室内に響き渡る。
手首の返しだけで重い鉄鍋を宙に浮かせ、米粒を煽る。卵の油分が米の一粒一粒を包み込み、鍋の中で黄金色の波となって躍る。
立ち上る白煙と、皮膚を焦がすような放射熱。
その凄まじい熱気と、吹き上がる轟音に包まれた瞬間――佐藤の脳裏に、数日前のあの海上の光景が、鮮烈な温度を伴って蘇った。
★★★★★★★★★★★
(回想――数日前、太平洋上『レヴィアタン』)
カチャリ、カチャリ。
非常誘導灯の薄赤い光だけが頼りの暗闇の通路を、襟華と千尋は足音を殺して疾走していた。VIPルームの分厚い防音扉を抜け、冷たい絨毯から硬いリノリウムの床へと変わる。
「……任三郎」
通路の分岐点。中継分電室の影から、身軽な姿で音もなく現れた佐藤に、襟華が早足で駆け寄った。
彼女の小さな手の中には、メインサーバーから引き抜いたばかりの超小型ストレージがしっかりと握られている。
「……任三郎、オークションの基幹データ、ウロボロスの幹部リストとフロント企業の資金経路、全部吸い出したよ」
「よくやりました」
佐藤は短く応え、ストレージを懐に収めた。腕時計のベゼルに指を這わせ、暗闇の中で時間を測る。
非常電源が物理的に復旧するまで、あと百秒を切っている。
「千尋さん、足元に気をつけてください」
「言われなくても。……ヒールを折ってでも走るわよ」
千尋はドレスの裾を片手でたくし上げ、呼吸を乱すことなく佐藤の斜め後ろにピタリとついた。
三人が迷路のような従業員用通路を抜けようとした、その刹那だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥ――ッ!!
鼓膜を直接殴りつけるような、けたたましい非常サイレンが船内全域を劈いた。
天井の照明が一斉に深紅の警告灯へと切り替わり、足元の床板が、腹の底に響くような重低音を立てて震動し始める。
『警告。メインエンジンの冷却システムに致命的なエラーが発生。炉心温度、臨界点に到達。総員、直ちに退艦してください。繰り返します――』
スピーカーから吐き出される無機質な合成音声。
「これ、停電のエラーじゃない! システムが意図的に暴走させられてる!」
襟華が壁面の点検用端末に手持ちのデバイスを押し当て、画面を睨みつけて叫んだ。
「船の自爆シークエンスが起動してる! あと十分で、船底のディーゼルとバッテリー群が連鎖爆発を起こすよ!」
オークションのシステムが乗っ取られたと知るや、ウロボロスは躊躇なくこの船を、顧客ごと海の底へ沈める判断を下したのだ。証拠隠滅のための、冷酷な損切り。
佐藤は襟元に仕込んだインカムのスイッチを弾いた。
船内の電源系統が混乱したことで、妨害電波の強度がわずかに揺らいでいる。
「愛永さん、聞こえますか。こちらは『荷物』の確保に成功しました」
ザザッ……というノイズの隙間から、東京のスタジオで待機している愛永の声が微かに拾えた。
『佐藤!? 回線が……!』
「時間がありません。海上保安庁へ直ちに通報させ、大手メディアに『レヴィアタン号の大規模海難事故』として一斉にリークさせてください。……彼らに闇の中で処理させるわけにはいきません。全世界の監視の目を、この海域に向けさせるのです」
『了解……! すぐに動くわ……!』
激しい雑音が混じり、通信が完全に途絶えた。
「急ぎますよ」
佐藤が踏み出そうとした瞬間、通路の角から足音が響いた。
現れたのは、プラチナブロンドの髪をタイトに束ねたグレタだった。その黒いドライビンググローブには、鈍い鉄の匂いが微かにこびりついている。
「サトウ。船尾の脱出ハッチはこじ開けた。警備兵は排除してある。来い」
「案内を」
四人は赤色灯が明滅する通路を一列になって疾走した。
船体はすでに異様な軋み音を立て、右舷へとわずかに傾き始めている。上層のデッキからは、逃げ惑う客たちの絶叫と、怒号が壁を透過して反響していた。
重厚な耐圧ハッチを蹴り開けると、湿り気を帯びた夜の太平洋の突風が、叩きつけるような勢いで頬を打った。
見渡す限りの漆黒。
うねる黒い波が、白泡を立てて船腹を激しく打ち据えている。
甲板の端には、手動ウインチによってすでに海面付近まで降ろされた、一艇の全閉型救命艇が揺れていた。
「チヒロ、エリカ、乗れ!」
グレタが怒鳴り、二人をワイヤーの吊具へと押し出す。
千尋は迷わず揺れるロープを掴んでボートのハッチへ滑り込み、襟華がその後に続いた。
グレタが佐藤を振り返る。
「サトウ、お前が先だ」
「いいえ。操縦はあなたです」
佐藤はグレタの背中を押し、彼女がボートへ飛び移ったのを確認すると、自身も揺れるステップを蹴ってハッチへと身を滑り込ませた。
密閉ハッチが内側から固くロックされる。
グレタが操縦席のコンソールを素早く操作し、リリースレバーを力任せに引いた。
ガコンッ!
吊り下げワイヤーが切り離され、救命艇の船体が数十メートルの落差を一気に落下する。
視界が上下に激しく反転し、強烈な浮遊感のあと、ドォンという凄まじい衝撃と共に海面へ叩きつけられた。
フロントガラスを分厚い白波が覆い尽くす。
「舌を噛むな!」
グレタが叫びながらスターターボタンを押し込み、ツインディーゼルエンジンが咆哮を上げた。
スクリューが泡立つ海水を強烈に噛み、救命艇は漆黒の海原を切り裂いて全速力で加速する。
小窓の向こう。
荒れ狂う波の彼方、巨大な『レヴィアタン』の威容が闇に溶けていく。
海水を被り、大きく揺れるボートの中で、佐藤は濡れた胸ポケットの上から、硬いストレージの感触を確かめるように、静かに指先を押し当てていた。
★★★★★★★★★★★
(現在――丸の内、ペントハウス)
ジュワアァァァッ!
鍋肌に沿って回し入れられた特製ブレンド醤油が、熱せられた鉄と出会い、激しい蒸気となって爆発的に香りを立ち昇らせた。
焦げた醤油の暴力的な香ばしさが、キッチンの空気を一瞬で塗り替える。
佐藤の意識は、荒れ狂う太平洋の闇から、柔らかな陽光が満ちるペントハウスのキッチンへと完全に着地していた。
パラパラ、と乾いた音を立てて鍋の中で躍っていた米粒が、最後の煽りによって完璧な一体感を得る。
佐藤は火を止め、あらかじめ温めておいた平皿の上に、鉄杓子を使って丸く端正なドーム型に炒飯を盛り付けた。
黄金色に輝く米粒の合間に、濃い飴色をした焼豚の角切りと、鮮やかなネギの緑が散りばめられている。
表面を覆う薄い油の膜が光を反射し、湯気と共に立ち上る香りは、極限まで空腹を刺激した。
「……ハグッ、チュプ、チュプッ」
足元から、小さく湿った咀嚼音が聞こえてくる。
佐藤が視線を落とすと、黒猫のダシが、専用の平皿に顔を突っ込むようにして、朝食を勢いよく吸い込んでいた。
数日間、弥生に預けられていた反動なのか、今朝佐藤の姿を見るなり足首に激しく頭を擦り付けて鳴きじゃくり、今は佐藤が特別にほぐした鶏のササミを夢中で平らげている。時折、ピンと立った黒い尻尾の先が、嬉しそうに左右へ揺れていた。
「うわ……なにこれ、暴力的な匂い」
リビングの廊下から、だるそうに足を引きずって襟華が現れた。
オーバーサイズの黒いパーカーのフードを被り、寝癖のついた髪を指先で弄りながら、匂いに吸い寄せられるようにアイランドカウンターへ近づいてくる。
その顔にはまだ疲労の色が残っていたが、漂う炒飯の香気によって、急速に生気が戻りつつあった。
カウンターの向こうのソファでは、千尋がシルクのガウンを羽織り、淹れたてのエスプレッソを片手にタブレットを眺めている。
「泥のように眠って起きて、最初の食事が炒飯っていうのも……悪くないわ」
千尋がカップをソーサーに置き、ふっと口元を緩めた。
「炒飯だけではありません」
佐藤は炒飯の皿の横に、深さのある器をふたつ並べた。
取り出したのは、緑色のパッケージに入った市販のフリーズドライ食品――アマノフーズの『キムチスープ』のブロックだ。
「……は? インスタント?」
襟華がカウンターに両肘をつき、不満げに片眉を持ち上げた。
「あんなに命がけでデータ抜いてきたのに、手抜き?」
「手抜きではありません。合理的な選択です」
佐藤は表情を変えずに応じた。
「現代のフリーズドライ技術は、食材の細胞壁を破壊することなく、水分だけを昇華させて風味と栄養を真空で閉じ込める、きわめて高度な保存科学です。市販品の持つ完成度を侮ってはいけません。ですが――」
佐藤はコンロの端で静かに湯気を立てていた小鍋の蓋を取った。
そこに入っているのは、ただの沸騰した湯ではない。
早朝から昆布と鶏ガラを合わせ、極微弱な火加減でアクを執拗なまでに掬い取りながら引いた、透き通るような自家製の鶏ガラスープだった。
「ベースとなる水分に、適切な油分と動物性の旨味を与えることで、フリーズドライのポテンシャルは劇的に跳ね上がります」
佐藤はブロックの乗った器へ、熱々の鶏ガラスープを静かに注ぎ入れた。
シュワッ……。
微かな音を立てて、乾燥していたブロックが一瞬にしてほどけていく。
立ち上る湯気と共に、本場の白菜キムチ特有の乳酸発酵の酸味と唐辛子の辛味、そしてアサリや魚介エキスの凝縮された香りが、鶏ガラのまろやかなコクに乗って爆発的に広がった。
佐藤は仕上げに、上質のごま油を二滴落とし、冷水に晒しておいた極細の白髪ネギと、香ばしく煎った白ごまを指先でひとつまみあしらった。
「どうぞ。冷めないうちに」
カウンターに並べられた、二つの料理。
黄金色の山を描く本格焼豚炒飯と、鮮やかな赤と澄んだ出汁が二層に揺らめくキムチスープ。
襟華は待てないとばかりにレンゲを伸ばし、炒飯を山盛りにすくって口へ放り込んだ。
「……んんッ!」
襟華の目が丸くなった。
「お米がパラパラなのに、パサパサしてなくて、噛むと焼豚の脂がじゅわって溶け出して甘い……! あんた、これヤバいよ。油っぽさが全然残らない」
彼女はそのまま、熱々のキムチスープを木製のスプーンで一口すする。
「ふー、ふー……あっつ。……辛っ! でも、ただのお湯で戻したやつと全然違う。鶏の出汁がすっごく効いてて、キムチの酸味の角が取れてる。……このスープ飲んでから炒飯食べると、口の中の油が一瞬で洗い流されて、無限に食べられるんだけど」
「油分と酸味、そして旨味の相互補完です。計算通りの反応ですね」
「相変わらず可愛げのない解説ね」
千尋が呆れたように笑いながら、自身もレンゲを手にとって炒飯を上品に口に運んだ。
咀嚼し、目を細める。
「……ええ、文句のつけようがないわ。生き返る心地がする」
襟華はもう言葉を発することもなく、無心でレンゲを動かし続けていた。炒飯を口いっぱいに頬張り、スープを啜り、時折ふうふうと息を吹きかける。
足元では、ササミを食べ終えたダシが、満足げに前足で顔を洗い始めていた。
換気扇が静かに回る音と、スプーンが器に当たる微かな陶器の音だけが、ペントハウスを満たしている。
佐藤はメンバーたちが無心で食事を進める光景を静かに見つめ、自身のミネラルウォーターのグラスをゆっくりと傾けた。
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