第22話 二つの声
午後9時55分。
眼下には、光の海が広がっていた。
港区白金台、高級マンション『メゾン・ド・プラチナ』の屋上。
地上50階の高さに吹き付ける夜風は冷たく、眠らない街・東京の輝きが無機質に瞬いている。
佐藤任三郎は、ペントハウスの天窓の上に立っていた。
足元の強化ガラス越しに、階下の光が漏れている。
そこは、ジャッジマン・タナカの配信部屋の真上ではなく、その手前にあるエントランスホールの上部だ。
先ほどのエレベーターの攻防で、敵のハッカーはここに防護シャッターを下ろし、我々を閉じ込めようとした。つまり、この下にはまだ敵の主力――ハッカーと、残りの護衛たちが待ち構えているはずだ。
「……派手にいきますか」
グレタ・ヴァイスが、ベルトからコンバットナイフを抜き、ガラスの四隅に突き立てた。
さらに、小林弥生から渡された特殊な薬剤――『溶解ちゃん2号(ガラス用)』を溝に流し込む。
ピシッ、ピシピシッ……。
硬質な音がして、ガラスに亀裂が走る。
「3、2、1……ブレイク」
グレタが踵でガラスの中央を踏み抜いた。
ガシャァァァン!!
盛大な破砕音と共に、天窓が崩れ落ちる。
ガラスの雨と共に、4つの影が暗闇のホールへと舞い降りた。
階下のホールは、一瞬にしてカオスと化した。
「なっ、上か!?」
待ち構えていた敵ハッカー――小柄な男が、タブレットを取り落とす。
彼の周囲には、警棒を構えた屈強な男たちが3人。
彼らはエレベーターの扉を警戒していたため、頭上からの奇襲に反応が遅れた。
着地と同時に、グレタが疾走する。
まるで黒豹のようなしなやかさで、最も近くにいた護衛の懐に潜り込む。
ドォン!
掌底が男の顎を捉え、脳を揺らす。男は声もなく崩れ落ちた。
「撃て! 撃ち殺せ!」
ハッカーが叫ぶ。
残りの護衛が懐から拳銃を抜こうとする。
だが、その指が引き金にかかるよりも早く、白い霧が彼らを包み込んだ。
プシューーーッ!!
小林弥生が両手に構えたスプレー缶から、猛烈な勢いでガスが噴射されたのだ。
以前、横浜で調達した材料で作った『悪夢を見るガス(ナイトメア・ミスト)』だ。
「はい、深呼吸してね~! トラウマとご対面~!」
「ぐ、あ……!?」
ガスを吸い込んだ護衛たちが、喉を掻きむしりながら膝をつく。
彼らの視界は歪み、目の前の少女が、巨大な怪物や、過去に自分が痛めつけた被害者の亡霊に見えているのかもしれない。
「ひ、ひぃぃ! く、来るな! ごめんなさい!」
大の大人たちが、幻覚に怯えて床を転げ回る。
戦闘不能。
残るは、ハッカーの男だけだ。
彼は震える手でタブレットを拾い上げ、天井の自動銃座を起動させようとした。
ウィィン……。
カメラと一体化した銃口が、佐藤たちの方を向く。
「させるかよ!」
田中襟華が飛び出した。
彼女はハッカーの手からタブレットを蹴り飛ばすと、空中でキャッチし、そのまま素早くケーブルを接続した。
「アンタの権限、頂いた!」
Enterキーを叩く。
ガガガッ。
銃座が停止し、首を垂れる。
システム完全掌握。
「……チェックメイトです」
佐藤がハッカーの前に立つ。
ハッカーは腰を抜かし、壁際まで後退った。
「ば、化け物か、お前ら……。ここは50階だぞ……」
「ええ。眺めがいいですね」
佐藤は冷ややかに見下ろし、グレタに顎で合図した。
グレタが無言で手刀を落とす。
ハッカーは白目を剥いて気絶した。
静寂が戻る。
エントランスホールは制圧された。
その奥にある、防音扉で閉ざされた部屋。
『ON AIR』のランプが赤く点灯しているその部屋の中に、本丸がいる。
佐藤はインカムに触れた。
「愛永さん。お待たせしました。……『スタジオ』の前に到着です」
時計の針を、少しだけ戻そう。
決戦当日の午後5時。
佐藤は、西麻布の会員制シガーバーの個室にいた。
重厚な革張りのソファ、琥珀色の間接照明。
向かいに座っているのは、吉田彩だ。
彼女は、これから始まる法的な修羅場に備え、戦闘服であるパンツスーツではなく、リラックスしたシルクのブラウスを纏っている。眼鏡を外し、長い髪をかき上げる仕草は、法廷での「鉄の女」とは違う、艶めかしい色気を放っていた。
「……で? タナカへのトドメには、これを使うのね?」
彩がテーブルの上に置かれたICレコーダーを指差す。
中には、以前、タナカに切り捨てられた元編集者を千尋とグレタが確保し、そこから入手した「恐喝の証拠音声」が入っている。
「ええ。彼の配信中に、リアルタイムで声を同期させて流します。……社会的信用を完全に失墜させるために」
「エグいわね」
彩は30年物のマッカランをロックで煽った。
「でも、わかってる? 盗聴やハッキングで入手したデータは、刑事裁判での証拠能力が疑われるわ。『違法収集証拠排除法則』ってやつよ」
「承知の上です。私が求めているのは、法廷での有罪判決の前に、世間という法廷での『死刑判決』ですから」
佐藤は葉巻の先端をカッターで切り落とし、丁寧に火をつけた。
紫煙が揺らぐ。
「それに……法的な後始末は、優秀なパートナーがいるから安心しています」
「……口が上手いんだから」
彩は苦笑し、自身のグラスを佐藤のグラスに軽く当てた。
カラン。
「いいわ。私が全部、合法的な形に整えてあげる。……タナカが逮捕された後、この音声データが『匿名の内部告発者』から警察に届いたことにすればいい」
彼女は身を乗り出し、佐藤のネクタイの結び目に触れた。
「だから、派手にやりなさい任三郎。……あなたが作った火の海の上を、私が涼しい顔で歩けるように舗装してあげるから」
「頼もしい限りです」
佐藤は彼女の手を取り、その甲に口づけるような仕草で、感謝を示した。
「終わったら、最高のヴィンテージワインを開けましょう。……あなたの生まれ年のものを」
「約束よ」
共犯者たちの、静かな誓い。
その約束を胸に、佐藤は今、最後の扉の前に立っている。
現在。ペントハウスの配信部屋。
防音扉の向こう側で、ジャッジマン・タナカはPCモニターに向かって絶叫していた。
『黙れ黙れ黙れ! 俺は間違ってない! 俺が正義だ!』
画面の向こうには、涼しい顔をした松本愛永がいる。
午後9時から始まった討論によって、タナカの精神は限界を迎えていた。
愛永は、タナカの論理の矛盾を一つ一つ丁寧に突き崩し、彼のプライドをズタズタに切り裂いていた。
『タナカさん。先ほどから感情論ばかりですね。……視聴者の皆さんも、あなたの言葉の軽さに気づき始めていますよ?』
愛永の言葉が、鋭いナイフのように突き刺さる。
コメント欄は、もはやタナカを擁護する者は少なく、嘲笑と失望の言葉で埋め尽くされていた。
「くそっ、くそっ、くそっ……!」
タナカは机を叩き、髪を掻きむしった。
その時、彼の背後にあるドアノブが、静かに回ったことに、彼は気づかなかった。
タナカはマイクを鷲掴みにし、最後のあがきのように叫んだ。
『俺を誰だと思ってる! 俺はこの腐った世の中を変える救世主だ! 俺の言葉こそが法であり、真実なんだよ!』
その言葉が、全世界に配信された――その瞬間。
ザザッ……。
配信の音声に、奇妙なノイズが混じった。
そして、タナカの声に重なるようにして、別の「声」が流れ始めたのだ。
『……おい、金払えよゴミが』
ドスの利いた、汚い声。
それは紛れもなく、タナカ自身の声だった。
タナカが硬直する。
「な、なんだ……?」
佐藤が、配信ルームの外から無線で介入し、彩と確認したあの「証拠音声」を再生したのだ。
リアルタイムでタナカの喋りに合わせて、この「本音の音声」をオーバーラップさせる。
『俺は正義のためにやってるんじゃない!』
タナカが叫ぶと、同時にスピーカーから声が流れる。
『(金のためだよ、バーカ!)』
『視聴者のみんなを救いたいんだ!』
『(再生数稼ぎの養分どもが!)』
『信じてくれ!』
『(騙される方が悪いんだよ!)』
完璧なシンクロ。
まるで、タナカの本心が、勝手に口から溢れ出しているかのような錯覚。
ホラー映画のような光景に、コメント欄が爆発的な速度で流れる。
『うわあああ! 何これ!?』
『心の声漏れてるwww』
『これが本性かよ……最低だな』
『クロ確定。通報しました』
タナカはパニックに陥った。
「や、やめろ! 誰だ! 誰がやってる!」
彼は周囲を見回し、機材を叩くが、音声は止まらない。
自分の口が動くたびに、過去の自分が吐いた汚い言葉が、現在の自分を刺し殺していく。
『俺は……俺は……!!』
タナカが絶句し、膝をつく。
その時、背後の防音扉が、ゆっくりと開いた。
「……こんばんは、タナカさん」
静かな声。
タナカが振り返ると、そこには完璧なスーツを着こなした男――佐藤任三郎が立っていた。
その背後には、冷たい目をした三人の美女たち。
佐藤はスマホを掲げた。画面には、今の配信の様子が映っている。
「素晴らしい演説でしたよ。……あなたの『二つの声』、世界中に届いたようですね」
「お、お前……オメガ・リスクマネジメントの……!?」
タナカが後ずさる。
「どうやってここに入った! セキュリティは!? 護衛は!?」
「全員、夢の中です」
弥生がニッコリと笑い、空になったスプレー缶を振ってみせた。
佐藤は一歩、部屋に踏み込んだ。
革靴の音が、死刑台への階段を登る足音のように響く。
「以前、あなたは動画の中で我々を『炎上屋』と呼びましたね」
佐藤はタナカのデスクに手をつき、顔を近づけた。
仮面の奥の瞳が、恐怖で見開かれているのがわかる。
「その通りです。……私は燃やしますよ。悪意も、虚構も、そしてあなたのようなゴミも」
佐藤は配信用のカメラを指差した。
赤いランプは、まだ点灯している。
「さあ、仮面をお取りなさい。……これからは、素顔で罪を償う時間です」




