チャプター3 序 逃亡
時間軸は諮問会議より前に遡る。
夜宮勇樹は露天風呂から麓のちらつく明りを眺めていた。露天風呂の中は夜宮独りで、男湯もまばらに客が帰っていくところだった。しんと静まり返った湯舟の中で夜宮は立ち上がって、外の景色を眺めた。稜線を描く山々の景色は沈みゆく夕陽の光に照らされ、麓の町の明りが煌めいてゆく絶妙な時間帯だった。眼下の遥か先では町の明りが見え、その一つ一つが人生の光であった。
「…」
生物由来の持つ本能に根ざした人生の末に到達できる、明るいオレンジの光であった。夜宮はふと思う。これまで戦ってきた強敵とは一線画す人生なのだと。夜宮は憂う。果たして、俺に光が差すのであろうかと。豪華な夕餉。贅沢なデザート。高級ワイン。上級マッサージサービス。雄大な景色を望める絶景。夜宮は自分のこれまでにない境遇を得ても尚、あの光には届かないと感じた。家々の中には一人がいて、二人になり、それが三人四人と増えていって、やがては何十人も。夜宮の感じる大切なものが、あの光の中にこそあった。孤独を感じる今、麓の家々でぽつりぽつりと輝く光が、なんとも愛おしいものに感じた。
「…」
その光が、幸福なのだとしたら、まほうつかいという存在は、不幸なのかもしれない。
「…」
そんな事を考えたせいだろうか。男湯から出て自室に戻ると京香がさも当然のようにベッドに寝転がり、スマホでリズムゲームをやっていた。
「…」
夜宮は静かにドアを閉めた。自分の中で膨らむ孤独という感情が爆発してしまいそうで、怖かった。否、おそらく人間はこの恐怖こそ、人々の持つ希望の種なのだろうか。夜宮は考える。だとしたら、自分は何故まほうつかいなのか。絶対にして最強の無敵の夜宮勇樹。最強を誇る夜宮自身が、まるで誰かいずれも劣っているという不可思議。そして、その反動。欲望の沸騰。煮えたぎった鍋の中身はもう今がピークかもしれなかった。
「一息抜いておくか…」
そんな事を決心した直後。端末から通話がかかってきた。
「もしもし」
「花梨だ。わるいんだけど、ちょっと急用で外すから。東京へトンボ帰り」
「そうか。オレも手伝いが必要か?」
「いや、こっちはいい。まぁそっちでゆっくり休みなよ」
「悪いな」
「あと、そっちは誓約や契約といったものはないから。少なくとも、夜宮勇樹っていう人物の未来に対して、なんの気負いも必要ないから。十分仕事はやったし、もう頑張った。だから、ゆっくり休めばいいんだ」
「…どういう意味だ?」
「別に。貞操帯使ってても、それに意味は無いってこと。だから、いつでもリタイヤしていいんだってこと」
「デリケートな問題だな」
「だから言ってる。渡した人間が言うのもなんだけど、別に、もう、辞めたいなら辞めれるって話。そろそろ時間だ」
そう言って通話は一方的に途切れた。
「こっちはもう、エンジンがかかってるんだよ…」
珍しく夜宮は独り言を呟いた。夜宮は立ち上がり、また一っ風呂でも浴びようかと考える。猛り狂っていた自身すらも、今は落ち着き沈んでいた。
「…」
静かな回廊を夜宮は歩いた。一本の材木で作られた長い廊下の脇には壺や絵、湯飲み等が展示されている。静かな夜。外を向けば、ぽつりぽつりと一定の距離の灯篭に火が揺らめいている。一瞥の後に男湯の暖簾を潜ろうとしたところで呼び止められた。
「なんだよおせーじゃん」
「…もう一っ風呂浴びてくる」
「おいおい。折角スイートっていうか高い部屋なんだぜ。部屋の露天の樽風呂入らずかよ」
「そういうのがあるのか。でもオレは満天の星空の下でゆっくりと肩まで浸かりたいんだ」
「おっさんらしーな」
そう言って京香はくるりと来た回廊を戻っていった。
「部屋湯か」
夜宮は男湯の暖簾をくぐると大層高そうなミネラルウォーターサーバーから水を取って飲み干した。どうやら今の時間は誰も居ないらしい。古い木で造られた棚のかごはどれも空であった。先ほどは数名居たが、今は完全に静寂だけが残っていた。
「…」
アルコールが自販機で売られていた。
「…」
珍しく、購入し、湯舟の中に持って行った。夜宮は下戸で、ワインも日本酒も飲めず、梅のチューハイぐらいで満足していた。それが珍しく、地酒らしい酒を自販機で購入した。
「…」
先程風呂を浴びたので一気に浴室から露天風呂へ向かった。もう夜。やはり、満天の星空であった。
「…はぁ~」
空気の旨さを堪能する。硫黄の濃度が高く、ぬるぬるで多少の刺激臭があるほどであったが、それが夜宮にとって感動的であった。じっくり肩まで浸かる。ガラス張りの浴室を見るとやはり誰もいないので、おもいっきり足を延ばす。血管が弛緩してゆくのが分かるほど、血流の流れを感じたのはアルコールの勢いも手伝ってのことだろう。
「…おい」
「…」
隣に、京香が居た。一瞬どころか数秒フリーズの後、言葉がなんとか頭から出てきた。
「なんでいんだよ」
目線は右に寄せる。決して京香側は見ない。
「なんかさ。こういう時って、誰かと居たいなって思わない?」
「…」
「お前って本当に残酷だな。少しは話そうとか思わないのか?どうしてこうなったとか、身の上話とか、これからどうするのかとか、学校どうしてんだとか。お前って、何もそういうの言わないのな」
「特別な事情があるんだから仕事をしてるんだろ。だからきっと特別だ。プライベートには踏み込まない。特別な事なんかない。そういうのはきっとファンタジーなんだ。オレには無理なのさ。残酷に感じたら謝るよ」
仕事関係が脳裏によぎって、かろうじて夜宮の頭脳は働き始めた。しかし、今もなお迷走は続いている。
「本当はこの前死ぬはずだったんだ。預言っていうかもう確実に命中する未来みたいな。でも、お前に救われた。厳密にはお前じゃないけど、お前みてーなもんだろ。だから、感謝してるんだ」
「礼はしなくていい。仕事だからな」
「ずっと、誰かのために生きてたんだ。それが死んでからもずっと誰かのために働き続ける。でも、誰かがあたしのためにしてくれたことって、あんまり印象は無いんだ。ご飯うめーとか感じるけどね」
「…」
「だから、夜宮がなんとかしてくれて、結構嬉しかったんだ」
「…」
「…なんとか言えよ」
夜宮の理性は動き始めた。
「それをここで言うのか。もう少し違う場所でもいいだろ」
「しょーがねーだろ。思い立ったが吉日だろ。それ言いたくなったら言うだけだよ。お前の都合なんて関係あるかよ。だって、許してくれるだろ」
「…場所を移そうか。ここじゃまずい。男湯に女の子を連れ込むなんて事が発覚すれば、問題だ。客に見られたら大変だ」
実際のところ、男湯で年端もいかない未成年の少女を連れ込んでいるというのが傍目からの客観視である。当然、実刑は免れず、執行猶予もつかないであろう。そんな事が夜宮の脳裏によぎった。
「そんなもんなのかよ。そうやって、人の目も合わせないだろ」
「理性的な人間なんだ。そういう事じゃない。いいから女湯に戻れ」
「ノープロブレム。既に男湯の前にはロッカーに入ってた掃除のため使用禁止の看板が立てかけてる」
そう言って隣、実に水面の波紋と体温が感じられるほどの傍に寄っていた。
「十代ならそういう事故もあるかもしれない、二十代なら真っ盛り、三十代ならもう落ち着いてあるべきだ。こういう状況を冷静に対処しなければならない」
夜宮は立ち上がって、とりあえずこの場を離れようとした。多少見れられてもやむをえないという判断である。
「おい、逃げんなよ」
先程から、二人は声を立てないように少し声のトーンを抑えて話していた。少し低い声で京香は言って、夜宮の肩を押さえて立ち上がらせないようにした。触れた瞬間、夜宮の肉体はもう、酔いが回っていたせいもあるであろう。着床という破格の飛んだ妄想が頭の中に飛び込んでいた。
「あたしの顔を見てみろよ」
右を向きっぱなしの夜宮の顔の真ん中に京香の顔が回り込んできた。夜宮はドラクエのように逃げる事ができなかった。
「アイや花梨とは違う、美男美女で培われて改良された造形だ。美しさと愛らしさと可愛らしさの象徴だ。男から失われた象徴が全てあるし、空白も全て埋まる。お前はここ数日何をしてたんだ?何も見なかっただけだろう。アプローチはかけてた。多分普通なら気付くし反応だって違うはずだ。でもお前は、そういう事の全てを拒絶してる。あたしが嫌いなんじゃない。ゲイでもないし、ちゃんとエロゲーでも抜いてるしたまにアニメじゃないヤツでだってたまに抜いてるだろ?お前は普通じゃない。どうしてかはわからない。普通に生きてれば、出会いの二つや三つぐらいはあってもいいもんだ。童貞なわけがないし、なにより生命が本能が人生が、世界が宿命が、あらゆるものからお前は享受されてるはずで、そうであるべきなんだ。でも、お前はこれまでの人生からそれら全てを拒絶してる。諦めてる。異常者ってことで話が終わることじゃない。お前には、勇気が無いんだ。皮肉にも、名前がユウキなのにな」
黙って聞いてた夜宮は低い声でそうまくしたてられた。酔いも回ったせいも手伝ってだろう。黙殺せずに、答えた。
「その通りだよ。そしてこういう人生なんだ。キョウちゃんよ。今は誰かに何かをしてもらって恩返しをしたいと考えているんだろう。命を救われて、それが恋だと勘違いしてる。すまないが、オレはそういうままごとには興味が無い。オレ自身、そういう段階の状況に達してない」
「そういう段階の状況ってなんだ」
「…ゆとりある生活」
「そんだけバグった仕事をしてて、言うのがそれか?おめーはもう仕事したんだよ。ちゃんとボーナスも出るから安心しろよ。うちはそういうところはちゃんとしっかりしてるから。死んでも意味を持たせんだ。あたしみたいに。じゃあ。そのゆとりある生活って中で、こういう今の状況になったらどうすんだよ。最高の女がネギを背負ってやってきてんだぞ」
「…未成年だろ」
「はっ具体的には?」
「実年齢が20を超えてないと子供だ。子供が子供作ってどーすんだ。ヒトラーが自伝で嘆いてたぞ。それこそ世界の終わりなんだってな。オレも同意見だ。堕落の極みだ。狂ってるよ」
「あたしの精神年齢は明らかに20を超えてる。お前もだろ。じゃあ21。これから21で通す」
「年齢は変えられない。それがルールで鉄の掟なんだよ。近い。少し離れてくれ」
夜宮と京香の間は既にそこら辺の物差し以下。もうちょっと次元屈折現象が発生していたのなら大変な事になるであろう距離である。
「オレにそういう価値は無い」
京香は夜宮の額に合わせた。実に、目と鼻の先の距離である。
「そういう人生でも、あたしとなら、きっと楽しくなる。別にままごとしようって誘ってるわけじゃない。お前も年だろ。ちゃんと契約は交わす。紙っぺらだけじゃない、血の誓いだよ。それで、安心だ。もう」
夜宮は目をつぶってた。目を開けると、おそらく取返しがつかない結果になるであろうと想像していたからである。
「今しかないよ。もう、次は無いかもしれない。ここまでやるのも相当だ。今、どうかしてないと。多分、ずっとそのまま永遠にまほうつかいの業にとりつかれる。それでいいのか?両親泣くぞ。孫が居ないと」
「そういう変化球投げんなよ。効くじゃないか…!」
思わず目を開けてしまった夜宮は、そこで、この世の最果てを見た。多くの人間が到達しようともがく、人生の終わり。墓場。終着点であった。それを見たなら、それより先は無かった。今後一生ついてまわるのが、目の前の美しさより先が無いという真理。夜宮の想像は正しかった。これからの人生で一生ついてくる、ターニングポイントの一つ。少女趣味が無いしロリコンでも無い夜宮の、脳髄と本能と肉体と魂で、夜宮の理解に訴えかけてきていた。
「…」
思わず、空いた口が塞がらなかった。どんな絵画も風景も果てはどんな感情もこれからの精神の解放も。あらゆる脳の運動の中で、今以上に飛び跳ねる事はないであろうという悟り。
「…」
それから夜宮は視線を少し下げて、涙が湧き出た。夜宮の心が、深く傷つけられたのである。夜宮はそれから、負けたと思った。夜宮のこれまでの人生、実に30超の長い年月を、否定された瞬間であった。人が狂う瞬間でもあった。夜宮は夜宮自身の宗教の狂信者であったのだ。それが崩され破戒された。夜宮はもう、自身の肉体を外界にさらけ出すことに何ら抵抗も感じない程に自分自身に落胆した。悲しみの中。夜宮は立ち上がろうと思った。そして逃げ出そうと。世界のあらゆる存在から自分の存在を隠し通そうと考えた。居ても経っても居られない。
「…」
目の前に、そんな美を見た。
「…」
敗北、完敗、そして死。それを彷彿としてからは早かった。脳髄の空前絶後の活動。これまでの人生の走馬灯を経て、夜宮の脳髄、肉体、精神、理解、魂、本能、心の全てが、気絶という生命史上最も有効とされる死の擬態を経て、安定を保とうと考えたのである。
「…」
そして夜宮の意識はぷっつりと、間もなく外界の刺激からの逃亡。至近距離で京香の顔を見てから、実に、2秒の出来事であった。




