第二の殺人
「……はっ?」
再び訪れたヘクセンナハト本部の尋問室にてあやめから訃報を告げられると、ひよりは間の抜けた声を出した。
「聞き間違いですか? それとも何かの冗談ですか? 後者でしたら、いくらあやめさんでも怒りますよ」
「冗談でこのような不謹慎な話をするほど私は礼節を欠いてはいないつもりです。九月九日早朝、前坂市中央公園の池にて芭蕉さちえさんの死体が発見されました。第一発見者はこども広場でよく遊んでいる少年グループの一人。日頃仲良くしていた魔法少女の無残な姿に驚き、すぐに両親を通して我々に通報したようです。
死亡推定時刻は昨晩の深夜十時。水面に浮かんでいるところを目撃されましたが直接的な死因は溺れたことではなく、ほたてさんと同じく背後から鋭利な刃物による斬殺。報道規制を敷いていたためあなたが知らないのも無理はありません」
昨日――さちえは学校に来ていなかった。
あの日は色々なことがあったから自分と顔を合わせたくない気持ちは痛いほどわかる。
そう思い、彼女の心の傷が癒えるのを待っていたひよりだが、まさか殺されているなどとは夢にも思わなかったし、今でもあやめの勘違いなのではないかと信じたいほどだ。
しかし、今こうして再度拘束されて尋問室にまで呼ばれている事実からして、どれだけ認めたくなくとも認めなければならない。
「もう一度だけ聞きます。さっちんは死んだのですか」
「死にました。何者かの手により無残にも殺されたのです」
ひよりは両手で顔を覆って泣いた。大声を張り上げこそしなかったが、自分でも信じられない量の涙が出た。こんなに泣いたのは生まれて初めての経験かもしれない。
ひとしきり泣いた後、ひよりは静かに、しかし確かな怒気の篭った低声をあやめにぶつける。
「――犯人は誰ですか?」
魔力を外に放出することを封じられていても、なおわかるひよりの体内魔力の高まり。彼女の怒りに呼応しているのだ。その力は強大で、衛兵たちが恐怖で震え上がり、中には立場を忘れて逃げ出そうとする者さえ現れるほどだった。
どれほど厳重に封じられていようとも、魔の世界に聡い者ならわかるのだ。眼前の少女がどれほど危険な魔物かということを。たかだか尋問ひとつにこれだけ大仰な設備を用意するのは、それに見合うだけの危険な存在と相対するためであり、桜桃ひよりはまさしくそれだった。
しかし、そんな危険人物の憤怒を真正面から受けてなお、あやめは涼しい顔を崩さず淡々とした口調で話を続ける。
「それがわかっているのなら、あなたをこんな場所にまで呼びつけたりはしませんよ。仮に判明したとしても、今のあなたに教えるつもりはありませんが」
「どうしてでしょうか。理由をお聞かせ願いたい」
「あなたがまるで冷静ではないからです。犯人を知れば頭に血が昇り、今すぐにでも殺しにいきかねません」
図星だった。
もしも今、さちえを殺した犯人が目の前にいたとしたら感情を抑えきれる自信はまったくない。良くも悪くも俗物的なさちえとは違い、ひよりは一度やると決めたら徹底的にやるし、行き着くところまで行ってしまう直情的な性格をしていた。
「冷静ですよ、冷静……私は冷静。本日呼ばれたのは、いったいどういった用件でしょうか。まさか、さっちんが死んだという事実を教えるためだけってことはありませんよね」
自分に言い聞かせるようにしながら、ひよりは心を落ち着けるため深呼吸を繰り返す。こんなところで感情を爆発させたところで何も解決などしない。
しかし次に放たれたあやめの言葉は、ようやく落ち着きかけたひよりの精神を再び昂ぶらせるのに十分な威力があった。
「死亡したさちえさんの傷口から残留魔力が摘出されました。ヘクセンナハトの専門施設で調べた結果、魔力の波長は桜桃ひよりのものと同質であると判明。近隣住民の証言から、あなたが事件当日さちえさんを探していることもわかりました。
質問です、ひよりさん。あなたは二日前の晩、いったい何処で何をしていましたか?」
――私の……魔力、だって?
次の瞬間、ひよりを拘束していた手錠が音を立てて弾け飛んだ。
本来は簡単に千切れるような代物ではないのだが、この人の皮を被った魔物を抑えつけるにはあまりにも脆弱。
「私がっ、さっちんを殺した犯人だと言いたいのですかッ!」
怒り狂って吼えるひより。ただでさえ逃げ腰だった衛兵たちの中には、我を忘れて逃げ出す者すら現れる。
異常を察した監視者がアラームを鳴らしヘクセンナハト本部施設全体に厳戒態勢が敷かれる。事実ひよりは、それだけ警戒してもまだ足りないレベルの魔法少女だ。
「いいえ、まったく」
しかし、それでもなおあやめは冷静さを崩すことなく、あくまでも淡々とした口調を崩さない。
「立場上、推測でものを言うのは不適切なのですが、正直に申しましょう。今回の殺人事件は、いくらなんでも稚拙がすぎます。魔道の申し子ワイルドチェリーともあろう者が、これほど簡単にアシのつくような殺し方をするなどとは、とてもじゃないですが考えられません。今回の件は私にとってはむしろ、あなたが一連の事件の犯人だという線を薄くする要素にしかなりません」
「だったら――!」
「ただし、それはあくまで私個人の意見にすぎません。一時の激情が魔道の申し子をただの女の子に変えることもあります。ヘクセンナハトはあなたを最重要容疑者から外すことはできませんし、聖天界はこれを機にあなたを始末しようと考えるでしょう。私の時と同じようにね」
――あやめさんと同じ?
訊き返すとあやめはうるさく鳴り続けるアラームと、そのついでに監視カメラによる録画を止めるよう一部の魔法少女にのみわかる術式をこっそり飛ばして監視者に指示を出す。どうやら今から、誰かに聞かれるとまずい話をするようだ。
「ひよりさんは私の武勇伝を知っていますよね」
「もちろんです。わずかな期間で悪の組織を六つも壊滅させるなんてとんでもないことですよ。あなたはすべての魔法少女の憧れです」
「実はやっていません」
「……え?」
「私は悪の組織を壊滅などさせていないと言っているのです」
言葉の意味がすぐにはわからず、ひよりは首を傾げる。
あくまでテレビの画面越しではあるが <ジャンヌ・ダルクの剣> の一振りにして伝説の魔法少女、如月あやめの実力はひよりも十分承知している。
そもそも先日、無駄に重くて切れ味ゼロの大剣を軽々と振り回し、りんごをこの世から消し飛ばしたところを見たばかりである。本来の持ち主であるひよりでさえあそこまで見事にやれはしない。あやめの実力なら一ヶ月で悪の組織を六つ程度、むしろ少なすぎるぐらいではないだろうか。
「襲ってくるブラックシネマ団をただ撃退しているだけのひよりさんは知らないことだと思いますが、悪の組織を潰すというのは、あなたが思っているよりはるかに大変な作業なのです。我らは彼らのことを悪の一言で断じていますが、実際のところはこの国で合法的に活動している営利団体なのですから。それを潰すには力以外にもそれ相応の手続きが必要なのです」
現在より数百年も昔、人間界に突如として現れた異世界からの来訪者。それが聖天界の魔法生物と地獄の魔人だ。彼らは人の持つ精神エネルギーに注目し、それを効率よく集めるために幾度となく世界各国と交渉し、人間界に大きな災いをもたらさないという条件付きでこの世界に在住する権利を得た。
つまり魔法生物だろうと魔人だろうとこの国からすればただの外国人であり、ケンカをするならば国家に迷惑をかけないようにしなければいけないということだ。
「怪人や魔人を倒すことなど簡単ですよ。ですが組織そのものを潰すとなると、その組織が経営する店舗や会社も同時に潰さなければいけなくなる。そこには当然、何の罪もない一般市民も働いていますから、失職する彼らへの保障やそれに伴う社会的影響も考慮しなければいけなくなる。となれば、そうおいそれとは潰せませんよ」
「ですが、連中が人間界でやることなんて負の感情欲しさの悪事ばっかりじゃないですか。あんな奴ら潰れたって当然の報いだと思いますし、働いている人たちが失職するのは自業自得ですよ。世間の皆さんだってきっと理解してくれます」
悪の組織は営業の際に自分たちが地獄の手の者であることを隠してはならないと人間界の法律で定められている。もっともそのような法律がなくとも彼らは己を偽ることを嫌う者が多く、ブラックシネマ団のようにいかにも悪そうな名前を掲げて自らが悪の組織であると喧伝する場合がほとんどである。
そんな、本当の意味でのブラック企業に好んで就職する者は、失職したところで自業自得だとひよりは常々思っていた。しかしあやめは沈痛な面持ちでそれを否定する。
「あなたの考え方に同調するところは多々あるのですが、極めて遺憾ながら現実的にはそうはいかないのです」
悪のかぎりを尽くす悪の組織が、なぜ法と正義によって裁かれないのか。そのからくりは三界の絶妙なバランス関係にある。
聖天界の天子は人々から愛や希望といった聖なるエネルギーを、地獄の悪魔は嫌悪や絶望といった邪なるエネルギーを吸収し、自らの世界を発展させる原動力とした。
ならば人間界は搾取されるばかりで何も得るものがないかといえば、実はそうでもない。
不思議なことに彼らがこの世に現れてから国家間の対立や戦争が激減した。
戦争が起きる主な原因である人々の憎しみや正義心の高まりを、それらに敏感な両者が奪い取ってしまうからだ。そういった感情エネルギーを奪われると、人は我に返ったかのように冷静になり、ほとんどの場合、和解の道を模索する方向に進むのだ。
同族間の殺し合いにより疲弊していた人類は、新たにこの星に加わったふたりの友に感謝した。そう――正と悪の二つの感情を奪われた人類は、代わりに理性という名の楔と、それに伴う恒久の平和を得たのだ。
それ故に人間界における悪の組織の度重なる悪事もおおめに見られる場合が多い。自分たちに向けられた憎しみさえも奪い取って糧にしているということもあるが、一番の理由は人類の多くが彼らのことを、自分たちの代わりに悪役を演じてくれている必要悪だと感じているからだ。
「残念ながら悪の組織を滅ぼすことを人間界側は望んではいません。聖天界側としても悪を打倒することで簡単に手に入る正義を手放したくないという思いはあるでしょう。私個人としては本意ではありませんが、それでも物事の分別ぐらいはわきまえているつもりです」
「では悪の組織を壊滅させたという話は」
「聖天界側の工作ですよ。おそらくは何者かに弱小組織の魔人を暗殺させて、私の仕業に見せかけたのでしょう」
衝撃のあまりひよりはすぐに次の言葉が出てこなかった。
聖天界側があやめのことを快く思っていないことは知っていたが、まさかそこまでやるなどとは思ってもみなかったのだ。
「当時は両者間にきちんとした条約はありませんでしたから、私が厳格に処罰されるということはありませんでしたが、周囲からの突き上げが厳しくて現役は引退せざるをえませんでした。代わりにここを任されることになったのですが……魔法少女統括機構ヘクセンナハトの本部長といえば聞こえはいいですが、この施設自体が私を封印するために造られた牢獄のようなものですよ」
「どうして身内に対してそのような酷い仕打ちをするのですか。強力な魔法少女の存在は人間界に強い地盤を持ちたい聖天界としてもありがたい存在のはずではないですか!」
「聖天界内の派閥争いの結果ですよ。当時は強力な魔法少女を有している派閥はそれだけで強い発言力を持ちましたからね。それが気に入らない派閥は敵対派閥の有力な魔法少女を陥れようと画策するんです。
そういった汚い手段を繰り返すことで権力を握るようになったのが、現在の最大派閥であるザファエル派なのですが……ひよりさんにはあまり興味のない話でしょうね」
もちろん私もありませんと、あやめは朗らかに笑う。
政治的な話などまるで関心のないひよりだが、さちえが魔法少女になったきっかけであり自身も尊敬する大先輩が不当に陥れられていたという事実は実に不愉快だった。
「ここから先が本題ですが、もしかしたらひよりさんも、そのような聖天界の醜い派閥争いに巻き込まれたのかもしれませんね。険悪な関係だった地獄とも今では歩み寄りが進み、さまざまな友好条約が結ばれ、すでに小娘の一人や二人で聖天界のパワーバランスがどうこうなるような時代ではないのですが……」
――あっ。
あやめの言葉でひよりはひとつの可能性に気付く。
「革命派! 彼らならもしかして聖天界のパワーバランスをひっくり返すかも!」
聖天界のことは詳しく知らないひよりだが、革命派の台頭であそこは今ピリピリしているという話をゼロムから聞いたことがある。今回の事件は、もしかしたらそれが関係しているのかもしれない。ひよりの推測にあやめは頷く。
「タルターニャと呼ばれる天使を筆頭とした派閥が、ザファエル派と激しく対立しているという噂はこちらにも届いています。質問ですが、あなたのところのゼロムさんはどちらの派閥に所属しているのですか?」
「あいつはそういうの嫌いなんですよ。独りでも寂しくなって死んでしまわないうさぎだとか訳のわからないことをよくのたまってます。
あ、そういえば私が魔法少女になった時、パートナーの魔法生物を誰にするかでむちゃくちゃ揉めたらしいんですよ。ゼロムは人徳と実力でもぎ取ったとか意味不明な虚言を吐いてましたけど、あれって派閥闘争を避けるために無所属のゼロムにお鉢が回ってきたのかも」
なるほど。あやめはそう呟くと、少し間を置いてからこんなことを言いだす。
「そんなゼロムさんが、もしもタルターニャ派に組したとしたら、ザファエル派はどう思いますかね」
「まさかぁ」
ありえませんよと言いかけて、ひよりはすぐに思い直す。
ゼロムは現在の聖天界の実情に対してよく愚痴をこぼしていた。いずれはなんとかしたいという想いがあると口にしていた記憶もある。どのような革命かは知らないが、この歪んだ聖天界を変えようとしているタルターニャ派に組するというのは、ありえない話ではないのではないか。
「まさか……」
「言葉のニュアンスが変わりましたね。あなたが思っている通り、もしもゼロムさんがタルターニャ派に入閥すると決めたとしたら、ザファエル派は全力でそれを阻止しようとすることでしょう。
しかしあなたの話を聞くかぎり彼は金や地位でなびく方ではないようですし、それこそ殺しでもしないかぎり敵に回ることは防げない。しかし聖天界を血で穢すことは失われし神の逆鱗に触れる行為ですし、仮に彼を殺したとしても結局またあなたを巡って派閥間で激しく揉めるだけ。ならば答えはひとつしかないでしょう」
――災いの根源を断つ。
桜桃ひよりの抹殺。とはいえ世界十指に数えられるほどの大魔法少女を直接的な手段で暗殺することは難しいので、あくまでも法的な手段を用いて社会的に抹殺する。
なんという陰湿さか。ひよりは怒りで歯軋りする。
ザファエルという天使と直接の面識はないが、今の話を聞くかぎり本当にそのような非人道的な行いをやりかねない性格だということは理解できた。
「私の話はたいした根拠もないただの憶測です。現時点では何の証拠もありません」
「そんな憶測を私に聞かせて、あやめさんはいったい何を……いえ、私に何をさせたいのでしょうか」
あやめは衛兵が預かっていたひよりのスティッキを天井めがけて高々と放り投げる。
ガシャンと大きな音を立てて何かが壊れる音が聞えると、カメラと思しき機械類の残骸がボトボトと眼前に降りそそいだ。
「あなたが聖天界に行く方法は、大きく分けて二つです。一つめはこれからやってくる使者に連行されて行く方法」
今回の殺人事件の一報を受け、聖天界は本日付けで桜桃ひよりの身柄を確保するという決定を下したとあやめは告げる。
「使者を利用すれば聖天界へは労なく行けますが、向こうも馬鹿ではありません。厳重にあなたの力を封印したうえで連行し、ろくな取調べもなしにすみやかに処罰されることでしょう。腕に自信があっても、あまりおすすめはしませんね」
「なんで私が聖天界に行くことが前提なんですか」
「行きたくないんですか?」
――行きたいに決まっている。
ひよりの心はすでに固まっていた。今回の殺人事件についてザファエルに直接話を伺いたい。時と場合によっては拷問も辞さない覚悟でだ。
「それでは二つめは? そちらがあやめさんの本命なのでしょう」
「尋問の最中に容疑者がカメラを破壊して逃走。我々も必死に抵抗したのですが、なにしろ相手は現役バリバリの <ジャンヌ・ダルクの剣> 。ものの見事に逃げられてしまいました。いやはや困りましたね」
――うわっ、なんて悪い女性だ。
同類だとは思っていたが、どうやらあやめは自分よりもはるかに性悪らしい。もっとも昔から、そんな彼女の在り方にひよりは憧れているのだが。
「脱走したら手近な魔法生物を利用して聖天界に侵入してください。ああ、ゼロムさんはダメですよ。あなたの脱走はすぐに聖天界に知られることでしょうから、彼がどんなに上手くやったとしても、おそらく入界すらできません。他にアテがないようであれば、我々のほうで用意しますが……」
「あやめさんに悪事の片棒を担がせるわけにはいきませんよ。心当たりならちゃんとありますのでご心配なく」
もとよりこれは自分の問題だ。誰かを共犯にする気など毛頭ない。ここから先は、すべて独りで決着をつける。ひよりの決意は固い。
「尋問室を出てすぐのところに待機している私の部下がいますので声をかけてください。この施設から脱走する手引きをしてくれるはずです」
「ご心配なく。ここから先、あなたたちに犯罪の片棒を担がせるような真似はしません」
「しかしこの施設は脱走を試みる者を決して逃さないよう迷路のような造りに――」
言いかけてあやめは気付く。ひよりの内なる魔力の更なる高まりに。
しかしどれだけ魔力を高めようとも、尋問室全体に張り巡らされた抗魔力フィールドによりその魔力を体外へと放出することは決してできないのだ。
これはヘクセンナハトで開発した対魔法少女用の術式なのだが、なかなか上手いやり方だとあやめは思う。
単純に力任せに魔力を打ち消すだけならそれを超えるパワーをぶつけてやればいいだけの話だが、体内魔力の分離さえ阻止できれば、どれだけ高レベルの魔法少女でも理論上は人体強化以外の魔法を無効化できる。人の肉体などどれだけ強化したところでたかが知れているので実質的には無力化と同義だ。この尋問室ではあやめですら魔法は使えない。
確かにひよりの身体強化魔法は凄まじい。いくら既製品とはいえ腕力だけで手錠をあっさり引き千切るなど並みの魔法少女には不可能だ。身体強化魔法については高いレベルを誇る芭蕉さちえの攻撃をあっさり凌いでみせたという報告も受けている。この一点においてはおそらく自分と同格、もしくは上回っていることもありえるとあやめは見ている。
だが、たとえあやめ以上の身体能力を持っていようともここから単独での脱走は不可能だ。そもそもこのヘクセンナハト本部そのものが、如月あやめという最強にして最悪の純白の悪魔を無力化する目的で造られた施設なのだから。
「あやめさん、ちょっとぶっ放しますので気をつけてください」
しかし――どうもひよりの様子がおかしい。
高まったひよりの魔力が収束していかないのだ。いくら魔力の分離を阻止しているとはいえ、このままふくれあがり続けると尋問室全体が彼女の魔力で満たされてしまうのではないかと不安になってしまうほどだ。
――それにしても、『ぶっ放す』とはいったいどういう意味でしょうか。
ひよりの言葉の真意を推理する暇もなく、その答えは耳をつんざく轟音と共に訪れた。
「マジカルチェリーボンバー」
細い指先を尋問室の壁に向け、ひよりがぼそりと一言そう呟くと、眩い閃光が暗闇を切り裂く。放たれた魔力は深紅の光弾となり、抗魔力フィールドを張り巡らせているはずの尋問室のぶ厚い壁を軽々とぶち破ったのだ。
「そんな馬鹿なッ!」
ひよりが初めて尋問室に訪れて以来、常に涼しい顔を崩さなかったあやめの顔が、この時初めて驚愕で歪んだ。
今まで良くも悪くもあやめの予想の範囲内に収まっていたひよりが、この時初めて彼女の想像を超えた瞬間だった。彼女からすれば先ほどまで掌の上にいた孫悟空の姿を見失った気分だ。いったいどのようなトリックを使ったのか。
「この術式、まだまだ開発中でしょう。ところどころに穴がありますよ」
平然とした顔でひよりはあやめにそう言い放つ。
「確かにまだ開発途中の術式ですが、式が剥きだしになってしまうという欠点を除けば、ほぼ完成していますよ」
「それ、致命的な欠陥じゃないですか。ぜんぜん完成してませんよ」
そんなことを言いだしたらほとんどの術式が剥きだしの状態でしか効果を発揮できない。あやめ本人にしてもきちんとした魔法陣を展開しなければ魔法は放てない。どうやら取るに足りないわずかな欠陥だと無視していたものが、ひよりからすれば誤作動する電化製品並の欠陥に映るらしい。にわかには信じられない話だ。
「その欠陥を補うために部屋全体を暗くしているのですが、それでもダメですか?」
「ダメじゃないですけど、でしたら尋問者にディスプレイを見せるのはやめたほうがいいですよ。あれの光のせいで術式が丸見えです」
――ありえない、まさしく天才だ。
表情にこそ出さなかったが、あやめはひよりの実力に心から感服していた。
ヘクセンナハトが十数年の月日をかけて開発した対魔法少女専用術式を、目の前の少女はディスプレイから漏れるわずかな光を頼りに瞬時に読み取り解析して破ってみせたというのか。大ベテラン故に今までどこかひよりのことを軽く見ているところがあったあやめだが、ここにきてようやく認識を改める。
桜桃ひよりは自らの予想や部下からの報告以上の魔道の申し子であり <ジャンヌ・ダルクの剣> の一振りにふさわしい、自分と同格の魔法少女であると。
「正直、驚きました。そのような芸当、私が知るかぎりあなた以外の誰にもできません。ただ、一つだけ質問してもいいですか」
ひよりの魔法によって突き破られた壁。そこから漏れる陽の光を眩しそう見やりながら、あやめは一言。
「もしもここが地下室だったらどうするつもりだったのですか?」
下手をすれば部屋全体が崩落して生き埋めになる可能性もあったため、あやめからすれば当然の疑問だった。
しかしひよりの才能を見れば、すべてを承知のうえで行ったことのようにも思える。たとえば、視力に頼らずに周囲の景色を確認できる方法でもあるのだろうか。それは頭脳は明晰だが、使う魔法は単純に巨大な魔力をぶつけることぐらいしかできないあやめにとって実に興味深い話だった。
ひよりはあやめの問いかけにすぐには答えず、少し間を置いた後、
「あっ」
どうやら思慮の範囲外だったらしく、小さな声をあげた。
「ほら、ここって牢獄じゃなくて尋問室だから、そんなに厳しい場所にはないかなぁって」
「その推測は正しいですが、次からは私に確認をとってからやってください」
次があってもらっても困るのですが。言ってあやめは嘆息する。
ひよりは申し訳なさそうに頭を掻きながら自らが空けた穴から「こういうときに空を飛べるとかっこいいのですけどね」と、そそくさと下に飛び降りた。
「ちょっとお待ちなさい!」
慌ててあやめはひよりを追いかけて壁際から下を覗き込む。まだ何か御用ですかとひよりが見上げると、大声で呼びかけた。
「これだけは約束してください! もしもザファエルが犯人だったとしても、早まった真似だけはしないでください!」
あやめの声にひよりは答えなかった。最後に寂しそうな顔でこちらに微笑みかけると、背中を向けて疾風のように走り去る。地上にも脱走を阻むために数々の罠が仕掛けられているのだが、この天才の前にはあってないようなものだろう。
――あなたの言葉。信じてますよ、ひよりさん。
自分が冷静であると繰り返したひよりの目には、激しい怒りと同時に確かな理性があった。
だからこそ彼女を逃がすという本来なら決してありえない決断を下した訳だが――今のあやめには、その判断に誤りがないことを信じるより他なかった。




