第70.5話:傲慢な来訪者と、揺るがぬ背中
大介との修行を終え、リディアでの生活に戻っていたエイミー。
あの大介の「理想的な肉体」の感覚がまだ肌に残っている。自分自身の細い腕を見つめ、彼女は小さく溜息をついた。
「……まずは、この体で魔力を練り直さないと。大介さんの強靭な体の後だと、自分の魔力がひどく頼りなく感じてしまう」
その時だった。ボロい一軒家の薄いドアが、無作法な音を立てて蹴り開けられた。
「――おい、落ちこぼれ。まだこんなゴミ溜めに這いつくばっていたのか」
現れたのは、磨き上げられた革の軽鎧を纏い、腰に豪奢な魔導剣を下げた男。
エイミーの次兄、ヴァルディス・レインだった。
ヴァルディスは鼻をつまむような仕草で室内を見渡し、下卑た笑みを浮かべた。
「相変わらずだな、エイミー。家賃も払えず、こんな腐ったパンの匂いがする場所で冒険者ごっこか? レイン家の名を汚すのもいい加減にしろ。父上が痺れを切らしているぞ」
「……ヴァルディス兄様。何の御用ですか。ここにはもう、実家からの連絡を拒否すると伝えてあったはずですが」
エイミーは冷静を装い、毅然と立ち上がった。
この家を買いとったことは黙っておくべきだろう。
地下室のダンジョン入口だけは隠し通さなければならない。
そしてかつての彼女なら、魔法剣士として名を馳せる次兄の放つ威圧感に、ただ震えていただろう。
「ハッ、用件など決まっているだろう。アルフレッド様との婚約の件だ。お前のような魔導の落ちこぼれを、あのヴァンハイム家が『顔だけはいい』と拾ってくださるんだ。家を立て直すための家畜として、お前にはこれ以上ない光栄な役目だろう?」
ヴァルディスはエイミーに歩み寄り、その細い肩を力任せに掴んだ。
「お前は女なんだよ。剣も振れず、強力な破壊魔法も放てない。そんな無能な女が一人で生きていけるほど、この世界は甘くない。……分かったら、さっさと荷物をまとめて実家に帰れ。これ以上俺に恥をかかせるな」
以前のエイミーなら、その言葉に「女は我慢するものだ」と教えてきた母の顔を思い浮かべ、絶望に沈んでいただかった。
しかし、今の彼女の脳裏にあるのは、あの大介の力強い拳だ。
「……離してください」
「あぁ? 何だ、その口の利き方は――」
ヴァルディスがさらに力を込めようとした瞬間。
エイミーは大介から教わった「力の逃がし方」を、無意識に実践した。
肩の筋肉を弛緩させ、踏み込みの力を母指球に集中させる。
エイミーの手が大介の時のように太くなるわけではない。
だが、彼女がヴァルディスの手首を軽く弾いた瞬間、そこには魔法ではない「物理的な芯」があった。
「なっ……!?」
「私は帰りません。私は、私の力でこの人生を掴み取ると決めました。……兄様のように、誰かを見下して自分の価値を確かめるような生き方、もう私には惨めにしか見えません」
一瞬、ヴァルディスの顔が屈辱で赤く染まった。
だが、彼は不敵な笑みを浮かべ直し、吐き捨てるように言った。
「……いいだろう。せいぜい、その強気がいつまで持つか見ものだ。アルフレッド様は独占欲が強い。お前がいつまでも逃げ回るなら、父上は実力行使に出る。レイン家の騎士団がお前を迎えに来る時、泣いて許しを請うても遅いぞ」
ヴァルディスは最後に部屋を一度だけ見下し、去っていった。
独り残されたエイミーは、震える自分の手を見つめた。
怖かった。実家の、そしてこの社会の巨大な圧力が。
けれど。
「……次は、あんな男の手に触れられることさえ許さない。もっと鍛えてなきゃ」
エイミーの瞳には、かつての絶望の影はなかった。
ただ、自分の居場所を守るための、静かな闘志が燃え始めていた。




