第5話④ 鰆の幽庵焼き ― 皮からいく
──ざわめきが落ち着いた頃、もう一度立ち寄った。
朝と同じ箱。
並びは少し減っている。
氷が溶けて、水が細く流れていた。
風は冷たいまま。
でも、音が違う。
掻く音が減って、かわりに水の音が増えている。
寧々が前に出る。
手は出さない。
「こんにちは」
漁師が顔を上げる。
「おぅ、来たんか」
朝より声が近い。
寧々は箱を見る。
「鰆、探してます。焼きで出したくて」
漁師は返事をしない。
箱の奥だけ見る。
氷の下に、背が一本。
朝より見えやすい。
寧々が言う。
「……まだ、ある」
漁師は短く言う。
「残りもんや」
寧々は距離を保ったまま。
「焼きで、いけますか」
漁師は箱を見たまま返す。
「いける」
「皮、どうです」
「立っとる」
それだけ。
寧々はうなずく。
「それ、ください」
少し間。
漁師が氷を払って、一本引き上げる。
包んで、無言で置く。
「値は引かん」
「はい」
漁師は魚から目を離さない。
「皮、焼きすぎるな」
釘だけ落ちる。
寧々は小さくうなずく。
「はい」
それ以上は言わない。
魚を抱えて港を出る。
車に乗ると、魚の匂いがゆっくり広がった。
鼻の奥に残る。
さっきのいりこみたいに、抜けずに引っかかる。
俺が言う。
「残ってたな」
寧々は前を見たまま。
「残ってた」
声が小さい。
「残してた、とは言わんのやな」
寧々は答えない。
魚を抱えたまま、ぽつりと置く。
「焼けるって言うたやろ」
仕込み場。
水。包丁。まな板。
いつもの音が戻る。
寧々はまず手を洗う。
魚を置いて、布巾で水を押さえる。
三枚に下ろす音が静かに続く。
皮目が光る。
指先が一瞬止まる。
端を、少しだけ引く。
「確認」
小さく言って、自分で口に入れる。
噛む。
白い。
舌に当たるのがやわらかい。
脂が、すっとほどける。
寧々は飲み込む。
「……うまい」
もう一口だけ、確かめるみたいに噛む。
身がほどける。
脂が、舌の上で広がる。
嫌な匂いがない。
でも、鼻までは来ない。
口の中で、すっと消える。
寧々が小さく言う。
「ちゃんとええな」
もう一度だけ噛んで、飲み込む。
「身はやわらかい。脂もきれい」
俺が言う。
「刺身でもいけるやん」
寧々はうなずく。
「いける。でも焼いたほうが合う」
包丁を置いて、皮のほうを一回見る。
短く言う。
「皮からいく」
フライパンを火にかける。
「鰆はな、身より皮の下やねん」
じわ、と鉄の匂いが立つ。
「ここに脂が溜まる。冷たいと締まって静かやけど、火入れたら一気に出る」
魚を置く。
じゅっ。
皮目が当たった瞬間、音が変わる。
「今、聞こえた?」
俺は頷く。
「皮が縮んで、水分が飛ぶ音。ここで焦ったらあかん」
油はひかない。
「脂、勝手に出てくるから」
皮の縁が、ゆっくり白から透明に変わる。
「ここで押さえへん。触らへん。動かさん」
寧々の声が少し速くなる。
「押さえたら脂逃げる。焼きすぎたら苦くなる」
皮がきつね色に変わる。
「この色。これ以上いったら“焦げ”」
ひっくり返す。
身側は短い。
「身は火入れすぎん。ふわっとで止める」
柑橘の皮を刻みながら続ける。
「幽庵はな、味を足す料理ちゃう」
小さなボウルを引き寄せる。
醤油とみりんと酒を合わせて、さっと混ぜる。
とろり、と音が変わる。
「甘さは強すぎたらあかん。鰆の脂が甘いから」
すだちを半分に割る。
指先で、ひと息だけ絞る。
「入れすぎたら酸っぱいだけになる」
皮は、ひとつまみ。
「皮は匂い。汁は角。両方ちょっとでええ」
俺が聞く。
「なんでそんな細かいん」
寧々は止まらない。
「鰆は匂いに素直やねん。強くしたら、すぐ負ける」
刷毛で、さっと塗る。
じゅ、と甘い音が立つ。
香りが変わる。
さっきまでの脂の匂いに、醤油の甘さが乗る。
そこへ、すだちがすっと抜ける。
「ほら、重たくないやろ」
もう一度、薄く塗る。
「幽庵は味を足すんやなくて、口を戻すねん。
甘さと脂が前に出たら、すだちで一回リセットする」
フライパンを揺らす。
「鰆は脂がええ魚や。でも脂だけやと飽きる」
火を止める。
「そこに柑橘。鼻に抜けたら、もう一口いける」
包丁を入れる。
断面から、透明な脂がじわっとにじむ。
「今日は、これ」
白飯の上にのせる。
湯気が立つ。
すだちの皮を、ほんの少し。
「加減、間違えたら、ただの甘い焼き魚になる」
俺が箸を持つ。
「はいはい、うるさい」
寧々は笑わない。
「うるさない。匂い、殺したくないだけ」
ひと口。
箸が皮を割る。
ぱり、と乾いた音。
その下から、白い身がほぐれる。
舌に乗せた瞬間、脂がほどける。
熱い。
でも刺さる熱さじゃない。
甘い。
すぐ、醤油の香ばしさ。
そのあと、すだちが鼻に抜ける。
俺は無意識に白飯を掴んでいる。
湯気が立つ。
米粒が立っている。
そのまま口に入れる。
さっきの脂が、米に絡む。
米が一粒ずつ、脂を吸う。
甘さが丸くなる。
塩が、輪郭を作る。
飲み込む。
もう一口、鰆。
今度は皮と身を多めに。
ぱりっ。
皮の香ばしさが先に来る。
次に、ふわっと崩れる身。
脂が、舌の奥へ流れる。
重くない。
喉の奥が、すっと通る。
鼻が、もう一度欲しがる。
俺は言う。
「……あかん」
箸が止まらない。
白飯を挟む。
鰆をのせる。
脂が、米の間に染みる。
照りが、粒に移る。
米が光る。
口に放り込む。
甘い。
抜ける。
また甘い。
抜ける。
腹はもう入らんのに、口が次を探す。
湯気が顔に当たる。
鼻が動く。
「これ、危ない」
皿を見る。
脂が皿に薄く広がっている。
その照りを、米で拭う。
箸の先に、脂と醤油の膜。
そのまま舐める。
甘い。
でも、すぐ消える。
すだちが後ろから追いかける。
喉が、勝手に飲み込む。
「腹いっぱいやのに」
寧々が言う。
「匂いが残らんやろ」
俺は頷く。
もう一口。
最後のひと切れを白飯にのせる。
皮が鳴る。
身が崩れる。
脂が広がる。
米が受け止める。
甘さと塩と柑橘が、順番に来る。
飲み込む。
皿が空になる。
俺は、箸先で皿を一回だけ撫でる。
何も取れない。
「これ、定食で出したらあかんやろ」
寧々が顔を上げる。
「なんで」
俺は空の皿を見る。
「ご飯、足らん」
茶碗の底が、見えてる。
寧々が、やっと少し笑う。




