ババニの嘘
「調べるって、どうやって?」
ソルが身を乗り出した。
さっきまでの怒りは、まだ顔の端に残っている。
でも、その青い目は、もう前を向いていた。
兄に会いたい。
兄に怒りたい。
兄を殴りたい。
たぶん、その全部を抱えた目だ。
ソルは、兄が大好きなんだ。
私が、ババニを大好きなのと一緒。
「ババニの部屋にヒントがあるかも」
私はカウンターの奥へ向かった。
店の一番奥には、普段は客を入れない小さな部屋がある。
ババニの書斎兼、調合室兼、寝室と、ババニが作る瓶の中身のように、ごちゃ混ぜになった部屋だ。
ババニはこの部屋で、机に向かって変な歌を鼻で歌いながら、細い採集針で瓶の中をくるくる混ぜたり、使い込んだノートに調合記録を書き留めたりしていた。
もう、主のいない部屋。そう思うと、真鍮の取っ手を持つ手が、急に重くなる。
「エレナ?」
ソルが後ろから声をかけてきた。
「お店以上に、ごちゃまぜの部屋だから、驚かないでね」
ババニが恋しくなったなんて、ソルに知られたら、恥ずかしくて、私はごまかした。
私は息を吸って、扉を開けた。
きい、と細い音が鳴る。
中から、乾いた草と古い紙の匂いが流れてきた。
それから、ほんの少しだけ、蜂蜜の匂い。
正面には、両開き窓があって、窓の下に、大きな机が鎮座している。
窓辺には吊るされた薬草の束がぶら下がる。
机の上には、ランプと、インク瓶。縦長のガラスには、ペンが何本か入っている。
右の壁には、天井まである本棚。
左の壁は、棚に並んだ小瓶たちに囲まれて、小さくて簡素なベッドが収まっている。
天井に目を向ければ、星座が描かれていて、星座の一つから、透明な石がぶら下がっていた。
ババニが出発したその日、部屋の窓から見えた星座だ。
変わらないババニの部屋。香りさえも、ババニのものだ。
私はきゅっと胸が痛くなった。
変わったのは、ババニがいないことだけ。
「すごい……」
ソルが小さくつぶやいた。
「触らないでね」
「触りません」
「特に、上から三番目の赤い瓶」
「何が入っているんですか」
「くしゃみ」
「くしゃみ?」
「開けると、三日くらい止まらなくなる」
ソルは、ものすごく真面目な顔で一歩下がった。
「なぜ、そんなものを保存しているんですか」
「ババニが、冬の始まりの気配だって」
「迷惑な気配だなぁ」
「場の空気を変えたいとき、使えるんだよ」
私は、ババニが私に教えてくれたときみたいに、ソルに教えた。
ソルは、納得したような顔で、赤い瓶を見ている。ソルが、昔の私みたいに見えた。
私は部屋を進み、机の前に立つ。
机の上は、片付いていて、ババニが旅立つ前に、整理したんだと、考えてやめた。
今は、ババニの思い出に浸っている場合じゃない。
「地の断片の記録を探す」
私は自分に言い聞かせるように言った。
ババニが見せてくれた。地の断片を思い出す。
見たことはあるけど、作ったことはない。
机の引き出しを開けると、ババニが書いた本が何冊も詰まっていた。
ババニの字は、とにかく読みにくい。
変に丸まっていたり、逆に尖がっていたり、文字なのかさえあやしい線が多い。
でも、私は弟子だ。
全部は無理でも、半分くらいなら読める。たぶん。
「えっと……雲の採集記録、朝霧の保存方法、南風の瓶詰め失敗例、失敗例その二、失敗例その三」
「失敗が多いですね」
「ババニは、成功した話より失敗した話を残す人だったから」
「すごい人なのに?」
「すごい人だからじゃない?」
私はページをめくりながら答える。
「たぶん、自分が何を分かっていないか、忘れたくなかったんだと思う」
『大した店じゃない。わかっていることに、近づける手伝いをする店だ。知らないことには近づけない。だから、『小さい地球屋』、我ながらいい名前の店だろ』
ババニは、そう言っていた。
「ねぇ、ババニとは、いつ、どこで会ったの?」
私は、ページをめくりながら尋ねる。
「ひと月ほど前、観測所のあるケスナの港町で。呼び止められて」
「ババニから?」
「『遠環に行きたいんだろ』って、断言されて、その通りだったので、足を止めました。兄の制服を着ていたの、ばれていたのかも」
「どんな会話をしたの?」
「『私もだ』って、ウインクされました。だから、観念して、兄を追いかけて、遠環に行くつもりだと答えたんです」
「あらら、それで、『遠環に行くには、『地の断片』が必要』って、言われちゃったわけだ」
「まぁ、そんなとこです」
「この店のことも、ババニが教えたの?」
「ええ、欲しいなら、私の弟子が店を開いているからって」
「ええっ欲しいならって、そんなこといったの?!」
私は思わず顔を上げて、ソルを見る。
「最初に言いましたよね。僕。『地の断片』が欲しいって」
ソルは忘れたのかと、あきれたように返した。
ババニ!!ちょっ待って、考えが追い付かない。
禁忌技術だからって、そう私にも教えたじゃない!!
ええっ、なのに、遠環に向かう道すがら、会ったばかりのソルに、ババニはそんなこといっちゃったの!?
えっえっ、待って待って、落ち着いて。私は深呼吸をする。
「『地の断片』が禁忌技術なのは知っている?」
「知っているも何も、『地の断片』さえ知らなくて」
でしょうね。と私もうなずく。あれ、何か引っかかる。
「ねぇちょっと、おかしいと思わなかった?禁忌技術は作ることは許されない。なのにどうやって、ソルのお兄さんは、遠環に行けたの?」
「えっ」
「ソルのお兄さんだけじゃない。遠環へ向かう人は、まぁ、そんなに多くはないけれど、遠環観測の施設を作っちゃうほどは、いるわけで」
「……確かに」
ソルの青い瞳が揺らぐ。
「だから、絶対に必要なものじゃないんだよ。私が最初に言ったように」
「でも、見つけてください。『地の断片』の作り方」
ソルの声は少し早口で、動揺しているのが伝わってきた。
「わっわかっているから」
私は、慌てて、帳簿に目を戻す。
「あっ」
目を戻したら、そこにあった。待っていましたと言わんばかりに。
見つけた。
そのページだけ、字がいつもより丁寧だった。
『地の断片。
求める地へ、近づくための小瓶。
ただし、遠環へ渡るための道具ではない』
私は、その文を声に出して読んだ。
「……どういうことですか」
その声は、低かった。
「ソル……」
ソルの手が、ぎゅっと制服の袖を握る。
兄の制服の、ソルには少し大きな袖が、指の中でしわになる。
「それがあれば、兄に会えると思っていました」
「うん」
「遠環に行けると思っていました」
「うん」
「だから、ここまで来たんです」
私は、何も言えなかった。
「ババニは、僕に嘘をついたんですか」
ソルの声は、震えてはいたが、私を責めるような強さはなかった。
たぶん、ソルも、最初から違和感を感じていたんだと思う。
でも、きっと、ババニの嘘を信じたかったんだ。
「……あのね」
私は言った。
ババニの嘘は、ソルを遠環へ向かわせるためじゃない。
逆だ。
遠環へ行かせないためだ。
そう思った。
「遠環って、この世では答えを見つけられなかった人が行くところなんだって。ババニが、そう言ってた」
私はまた帳面に目を落とす。ババニの文字が、やけに愛おしかった。
「ババニにとっては、もうこの世界の答え合わせが済んじゃったんだよ」
私は静かに続ける。
口にしてから、少しだけ胸が痛んだ。
そう思いたかったのかもしれない。
ババニは、私よりずっとすごい人だから。
この世界で見つけられるものを、全部見つけてしまった人だから。
だから、遠環に行った。私を残して。
「でも、ソルはそうじゃないんだよ」
たぶん、ババニは、ソルがお兄さんのことを知る必要があると思ったんだ。
ソルが兄を追いかけてしまうと分かっていたから。
兄を理解する前に、兄の足跡だけを踏もうとすると分かっていたから。
ババニは、ソルをこの店に向かわせた。
私のところへ。
……本当に、勝手な師匠だ。
「つまりね。ソルを、遠環へ行かせないためだったんだと思う」
ソルの顔が強ばった。
「行かせないため?」
「うん。地の断片が必要だって言えば、ソルはまず、それを探すでしょ。すぐ遠環には行けない」
「……」
「それで、ここに来る。お兄さんを追いかける前に、お兄さんが何を見ていたのか、知らなきゃいけなくなる」
言いながら、ババニを思う。
ババニ、帰ってくることがあったら、私も殴りたいかもしれない。
「ババニは、ソルに時間を作らせたんだと思う」
「時間?」
「お兄さんを追いかける前に、お兄さんのことを知る時間」
ソルは黙った。
「でも、ごめんね」
私は続けた。
「私、ババニの嘘には理由があったと思う。でも、その嘘は、ちゃんとソルを傷つけた」
ソルの青い目が、私を見る。
「理由があったとしても。ババニは、ソルに本当のことを言わなかった」
私は帳面を閉じた。
「だから、ババニに怒っていいと思う」
そう言うと、ソルは少しだけ目を伏せた。
「怒っています」
その声は小さかったけれど、ちゃんと熱を持っていた。
「うん。それでいいと思う。私もババニに怒ってるもん。今」
私は、窓の外を見た。もう朝はとっくに通り過ぎていて、お昼が近そうだった。




