佐藤さわりの霊障事件簿 買収された大学と悪魔ブリル
物語を書くとき、いつも頭を抱えるのが――佐藤さわりは普通の人間だという事実である。
感は鋭い。観察眼もある。行動力もある。
だが、彼女は魔法少女でもなければ、退魔師の家系でもない。
悪魔と契約したわけでもないし、異能の力を授かったわけでもない。
そんな“ただの人間”が、どうやって悪魔や魔女や邪霊と対峙するのか。
ここが、毎回の最大の難問である。
読者の皆さんも、ぜひ一度考えてみてほしい。
もしあなたが佐藤さわりだったら、どうやって悪魔を倒すだろうか。
警察に通報する? 逃げる? それとも、意外な知恵を使う?
このシリーズは、「普通の人間が、普通ではない怪異にどう立ち向かうか」を描く物語だ。
そのギャップこそが、佐藤さわりの魅力であり、彼女の戦いの本質でもある。
今回もまた、彼女は“普通のまま”悪魔と向き合う。
その姿を、どうか楽しんでいただきたい。
第一章:買収された大学と黒い影
東京の西側に広がる住宅街の一角に、令和親切大学は静かに佇んでいた。文学部の名門として知られ、古くから国語学や日本文学の研究で名を馳せてきた大学である。しかし、その空気はある日を境に一変した。
新しい理事長が就任したのだ。
名を――林勇生。
五十代半ば。妙に豊かな黒髪を後ろへ撫でつけ、額には一本の皺もない。肥満ではないのに腹だけが前へ突き出し、歩くたびに揺れる。笑えば、前歯の二本の金歯がぎらりと光り、まるで誰かの魂を吸い込むかのように妖しく輝いた。
仏教には「五光が指す」という言葉があるが、林の背後に立ちのぼるのは光ではなかった。
――黒い靄。
それは煙のように揺らめき、しかし決して消えない。見る者の胸に、言いようのない不安だけを残していく。
*
林が理事長に就任してから、令和親切大学では奇妙な現象が続発した。
まず、学生たちが――言葉を失い始めた。
キャンパスを歩けば、口を閉ざした学生たちがうつむき、ただ足音だけが響く。まるで全員が突然、唖になったかのようだった。
その静寂を破るのは、中国人留学生たちの大声だけである。
「你去哪儿?」「快点儿!」
キャンパスは、まるでどこかの大陸の街角のように変貌していた。
それもそのはずだった。
林勇生は、大学の公用語を――中国語のみと定めたのだ。
授業も、クラブ活動も、掲示板も、標識も。
すべてが中国語に置き換えられた。
当然、退学者は続出した。逃げるように大学を去る学生も多かった。
だが、残った学生たちには、さらに不可解な変化が訪れた。
キャンパスを離れても、彼らは日本語を思い出せないのだ。
スーパーで買い物をする女子学生が、無意識に口にする。
「我要这个(wǒ yào zhè ge)……」
自分でも驚いたように口を押さえるが、もう遅い。
日本語の感覚が、少しずつ、確実に削り取られていく。
まるで――日本人が中国人へと変貌していくかのように。
さらに、林は思想教育にも手を伸ばした。
授業では、1960年代に中国で吹き荒れたプロレタリア文化大革命が称賛され、学生たちは意味も分からぬまま、C国のウー・テンタイ首席の語録を暗唱させられた。
宗教は否定され、学問の自由は奪われ、構内にあった礼拝堂は叩き壊された。
否定、否定、否定――従来の価値観を破壊し、新しい思想を流し込む教育方針だった。
そして、恐ろしいことに、令和親切大学だけでは終わらなかった。
東京で二番目の大学が買い占められ、さらに――
お嬢様大学として名高い大和女子大学までもが、林勇生の手に落ちた。
静かに、しかし確実に。
林勇生による「日本人の中国人化計画」は進行していた。
第二章:若き国会議員村田薫子、光の中の影
国会議事堂を背に、村田薫子は深く息をついた。
黒髪のショートカットが風に揺れ、紺のスーツの襟がきりりと立つ。
身長一七〇センチ、痩せ型。
その姿は、政治家というより、どこかのステージに立つタレントのように輝いていた。
与党の衆議院議員。
そして、時代の波に乗るように開設したYouTubeチャンネル――「かおるこちゃんねる」の主でもある。
質疑を終えた帰り道、彼女は近所のスーパーに立ち寄った。
ほんの数分の買い物のつもりが、いつも通り、そうはいかない。
「薫子ちゃん、物が高くて買えないのよ、なんとかしてよ」
「うちの孫がね、奨学金が……」
声をかけてくるのは、若者から老人まで幅広い。
村田は一人ひとりの手を取り、笑顔を絶やさずに応える。
「大丈夫です。必ず、なんとかしますから」
その笑顔は、政治家としての仮面ではなかった。
彼女は本気で、目の前の人々を救いたいと願っていた。
しかし、そんな村田にも弱点はある。
――料理がまるでできない。
だから、今日もお弁当を買って帰る。
東京での活動中は、これが彼女の“ご馳走”だった。
*
夜。
「かおるこちゃんねる」のLIVE配信が始まった。
画面の向こうで、村田は真剣な表情をしていた。
「皆さん、聞いてください。今、日本の大学が買い占められています。
令和親切大学は、もともと文学部の名門校でした。それが今では――中国語学科と革命応用学科に置き換えられているんです」
視聴者のコメントが流れる。
《え、怖い》
《そんなことあるの?》
《かおるこ頑張れ!》
村田は続けた。
「日本人なのに、学内の公用語は中国語。こんな馬鹿なことがありますか?
私は直ちに法案を整備し、このような大学は廃校にします」
その瞬間――
ぷつん。
音声が途切れ、画面にはくるくると回る読み込みマークだけが残った。
「え……? また?」
村田は眉をひそめ、背後の窓に目を向けた。
そこに――黒い何かが、へばりついていた。
顔はない。
ただ、闇だけが凝縮したような、ブラックホールのような塊。
村田は気づかない。
配線を確認し、パソコンを再起動し、ようやく配信を再開したときには、視聴者は半分に減っていた。
「このところ、WIFIの調子が悪いのかしら……新しくしないと駄目ね」
彼女は軽く笑ったが、その笑顔の裏に、何かが忍び寄っていた。
その頃、政治ジャーナリストの佐藤さわりは、LIVE配信を見ながら腕を組んでいた。
黒髪のチューリップ型ボブに黒縁眼鏡。
身長一六〇センチの小柄な体に、鋭い観察眼を宿す。
「このところ、変な現象が多いわね……」
だが、彼女はまだ気づいていなかった。
この異変が、後に自分の運命を大きく揺るがすことになるとは。
第三章:村田の死
深夜零時を回った議員宿舎は、静まり返っていた。
村田薫子は、湯気の立つ浴室で肩まで湯に浸かり、ようやく今日一日の疲れをほどいていた。
――そのときだった。
「……俺も、一緒に入る」
男の声。
低く、湿った声が、浴室の壁に染み込むように響いた。
「えっ……?」
村田は思わず湯から身を起こした。
独身で、一人暮らし。
誰かがいるはずがない。
耳を澄ませる。
「俺も……一緒に入る」
再び、同じ声。
浴室のドアの向こうから聞こえるような、しかし距離感のない、不気味な響き。
村田は震える手でドアを開けた。
廊下には誰もいない。
ただ、冷たい空気が流れ込んでくるだけだった。
「……疲れてるのね。令和親切大学の資料集めで、ずっと飛び回ってたから」
自分に言い聞かせるように呟き、湯に戻ろうとしたその瞬間――
また、声。
「薫子……」
村田は悲鳴を上げる代わりに、湯から飛び出し、タオルを巻いて浴室を後にした。
心臓が痛いほど脈打っている。
*
その夜、村田はなかなか眠れなかった。
寝返りを打つたびに、どこかで誰かが囁いているような気がする。
ようやく眠りに落ちたとき、夢を見た。
遠くから、一人の男が歩いてくる。
スーツ姿。
見覚えのある顔。
――杉浦鯛蔵。
同じ党の、あの“日本お馬鹿な政治家”と揶揄される男だ。
「薫子ちゃん、いっしょに温泉旅行しようよ。俺の子供を産んでくれ!」
にやけた顔で迫ってくる。
村田は叫ぼうとしたが、声が出ない。
次の瞬間、目が覚めた。
寝間着は汗でぐっしょり濡れ、髪も肌も冷たく張り付いていた。
「……最低の夢」
翌朝、村田はSNSで鯛蔵に抗議した。
しかし、返ってきたのは困惑した返信だった。
《俺はそんなこと言ってない!デマだ!》
村田はスマホを握りしめた。
自分の中で、何かが少しずつ壊れていく。
*
その日の午後。
村田はドトール・コーヒーで、政治ジャーナリストの佐藤さわりの取材を受けていた。
「ハニー・カフェ・オレをお願いします」
村田はいつものように、店で一番高いメニューを注文した。
普段は料理ができない彼女にとって、こうした甘い飲み物は小さな贅沢だった。
しかし、話の途中で――
村田は、砂糖をスプーンで何杯も、何杯も入れ始めた。
佐藤は目を見開いた。
「む、村田さん……?」
村田は我に返り、震える声で言った。
「えっ……どうして、こんな……」
佐藤は話題を変えた。
「ところで、中国人による公共施設の買い占めは、法律で制限できますか?」
その瞬間、村田の声が――変わった。
「できるわけないだろう」
低く、太く、まるで別人の声。
佐藤は息を呑んだ。
「……村田さん、今の……」
村田は何事もなかったように微笑んだ。
「今、一所懸命調査をし、委員会でも法案の整備を進めています」
佐藤の額を汗が伝う。
――これは、ただの疲労ではない。
――何かに、取り憑かれている。
*
佐藤は村田を放っておけなかった。
しかし、その前に確かめるべきことがある。
林勇生。
あの男だ。
佐藤は面会の予約もせず、令和親切大学へ向かった。
受付ではスマホの翻訳機能を使い、なんとか中に入れてもらう。
広い校内は、不気味なほど静かだった。
学生たちは口を閉ざし、ただ歩くだけ。
時折、中国人留学生の大声が響く。
理事長室へ向かう足は、なぜか重くなる。
まるで、見えない手が足首を掴んでいるかのように。
夕方、ようやく辿り着いた。
ドアをノックし、入る。
林勇生は、椅子に座っていた。
その姿を見た瞬間、佐藤は直感した。
――これは、人間ではない。
林は中国語で言った。
「これから行くところがある(我接下来要去一个地方)」
「インタビューは中国でしてね(采访请在中国进行)」
佐藤は中国語が分からない。
だが、言葉の意味よりも、林の背後に揺らめく黒い靄が恐ろしかった。
*
佐藤は村田を放っておけなかった。
取材対象としてではなく、一人の人間として。
そして――自分でも驚くほど自然に、こう思っていた。
「この人を守らなきゃ」
政治家としての村田の真っ直ぐさ、弱さ、そして危うさ。
それらすべてが、佐藤の胸を強く揺さぶった。
「無給でいい。しばらく秘書として、村田さんのそばにいたい」
そう申し出るつもりで、佐藤は議員宿舎へ向かった。
*
しかし――ドアは開いていた。
「村田さん……?」
部屋に入った瞬間、鉄の匂いが鼻を刺した。
床に、大きな血痕。
そして――村田薫子が倒れていた。
右手は、床を必死に引っかいた跡がある。
その指先で、血文字が書かれていた。
ぶ……り……る
佐藤は震えた。
「村田さん……!」
しかし、もう遅かった。
村田薫子は、静かに息を引き取っていた。
佐藤の胸に、深い後悔と怒りが渦巻いた。
――守りたかったのに。
――間に合わなかった。
その瞬間、佐藤の中で何かが決定的に変わった。
第四章:佐藤さわり対悪魔ブリル
村田薫子の死から三日。
佐藤さわりの胸には、まだ重い石が沈んだままだった。
――守れなかった。
――あのとき、もっと早く行っていれば。
しかし、後悔だけでは終われない。
村田が最後に残した血文字――「ぶ……り……る」。
それが、林勇生の正体であると佐藤は直感していた。
だが、どれだけインターネットを探しても「ブリル」という名の悪魔は見つからない。
検索結果はゼロ。
まるで、この世に存在しないかのように。
「……この道の権威者はいないのか」
佐藤は、古い文献を扱う大学を探し、ついに一人の人物に辿り着いた。
KO大学・西洋史教授、綱川正則。
西洋中世史、キリスト教史、悪魔学の専門家。
*
研究室の扉を開けると、綱川教授はふくよかな体を揺らしながら、古い羊皮紙をめくっていた。
「悪魔ブリル……ですか? お嬢さん、そんなおとぎ話を本気で?」
佐藤は机を叩いた。
「本気です! 村田薫子議員が、命をかけて残した言葉なんです!」
教授はため息をつき、棚から分厚い古書を取り出した。
革表紙はひび割れ、ページは黄ばんでいる。
「……これを見なさい」
開かれたページには、奇怪な挿絵があった。
山羊のような角、赤い目、牙が飛び出した口。
その姿は――林勇生と重なった。
佐藤は息を呑んだ。
「これ……退治方法は?」
教授は首を振った。
「悪魔に“退治方法”などないよ。だが……一つだけ、古い伝承がある」
教授は紙とペンを取り出し、奇妙な文字を走らせた。
それは、見たこともない悪魔文字だった。
「決闘状だ。悪魔は“挑まれた勝負”を断れない。
ただし――負ければ魂を取られる。覚悟はあるかね?」
佐藤は迷わなかった。
「あります」
*
その夜。
佐藤はSNSに、教授が書いた悪魔文字の画像を投稿した。
内容は、悪魔ブリルへの決闘状。
日時と場所は――青梅の山中、23時。
周囲は深い森林。
中央に広い平地。
その奥は断崖絶壁。
佐藤は平地の中央にブルーシートを敷き、その上に立っていた。
足元には、地面に刻まれた複雑な魔法陣。
ブルーシートは、その魔法陣を隠すためのものだ。
風が止んだ。
森が息を潜めた。
――コツ、コツ。
暗闇の向こうから、足音が近づいてくる。
やがて、姿が現れた。
林勇生。
「あなたの正体は悪魔ブリル……そうでしょう!」
佐藤は叫んだ。
「悪魔ブリル! 果たし合いだ、尋常に勝負しろ!」
林は笑った。
金歯が、月光を受けてぎらりと光る。
「ふふふ……よくわかったな」
右手で顔を払うと――
皮膚が裂け、肉が剥がれ、黒い煙が噴き出した。
その奥から現れたのは、醜悪な怪物。
山羊のような角。
血のように赤い目。
牙が飛び出した口。
背中からは黒い靄が渦を巻いて立ち上る。
悪魔ブリル。
「一つだけ教えて。どうして日本人のアイデンティティを奪うの?」
ブリルは嗤った。
「頼まれたのさ。C国からな。
報酬として――一千万人分の魂を貰う約束でな」
「……最低」
「それより、お前の魂はもう俺のものだ」
ブリルが一歩踏み出す。
佐藤は後ずさる。
背後は断崖絶壁。
――落ちる。
そう思った瞬間、ブリルは佐藤が立っていた場所に足を踏み入れた。
佐藤は右手の人差し指を立て、叫んだ。
「エロイムエッサイム――!」
轟音。
地面が震え、魔法陣が光を放つ。
ブルーシートが吹き飛び、魔法陣が回転を始めた。
渦を巻く地面が、ブリルの足を飲み込む。
「うぉぉぉぉ! やめろ! 出せ! 出せぇぇぇ!」
ブリルは叫び、爪を立て、地面を掴もうとする。
だが、渦は容赦なく悪魔を引きずり込み――
地獄へと戻した。
最後に響いたのは、断末魔の叫びだった。
「ぐああああああああああ!」
渦が止まり、森に静寂が戻る。
佐藤は膝から崩れ落ちた。
「……村田さん。終わりました」
エピローグ
数週間後。
令和親切大学のキャンパスには、久しぶりに日本語のざわめきが戻っていた。
中庭のベンチでは、文学部の学生たちが古典の授業について語り合い、
図書館の前では、新入生が緊張した面持ちで案内板を見上げている。
掲示板には、かつて消されていた日本語のクラブ活動のポスターが貼り直され、「俳句サークル」「歴史研究会」「合唱団」など、懐かしい名前が並んでいた。
壊された礼拝堂は、大学の有志によって修復が始まっている。
割れたステンドグラスの破片を拾い集める学生の姿は、
まるで失われた時間を一つひとつ取り戻しているようだった。
そして何より――
学生たちの声が、自然に笑っていた。
「ねえ、次の授業どこだっけ?」
「お腹すいた、学食行こうよ」
「昨日のドラマ見た?」
そのどれもが、当たり前の日本語だった。
かつて黒い靄が漂っていた校舎の上空には、
今はただ、春の柔らかな陽光が降り注いでいる。
大学は、ようやく“大学”に戻ったのだ。
*
東京の晴れた日。
ドトール・コーヒー。
佐藤さわりは、ハニー・カフェ・オレをゆっくり口に運んだ。
「敵……とったわよ、村田薫子さん」
その瞳には、静かな決意が宿っていた。
(完)
今回の物語では、佐藤さわりはついに“悪魔”と真正面から対決することになった。
しかし、彼女は最後まで超能力を使わない。
呪文も、魔法も、神の加護もない。
あるのは――知恵と勇気と、ほんの少しの無茶だけだ。
村田薫子という政治家を守れなかった悔しさ。
その後悔が、彼女を悪魔との決闘へと駆り立てた。
佐藤さわりは、強くはない。
だが、折れない。
だからこそ、彼女は読者の心に残るのだと思う。
さて、次はどんな怪異が彼女の前に現れるのか。
そして、普通の人間である彼女は、どんな方法でそれを乗り越えるのか。
作者である私自身も、毎回頭を抱えながら、しかし楽しみながら書いている。
読者の皆さんも、どうかその“普通の人間の戦い”を、これからも見守ってほしい。
それでは、また次の事件簿でお会いしましょう。




