さくらさく 後編
私は期待をしていたのだと、その時初めて気が付いた。
みかちーの言う通り、彼が親しく名前を呼ぶ女子は私だけだし、私自身を見る目も凄く優しかった。後輩の中でも特別可愛がられていることにも気付いていた。
だから、期待をしてしまっても何の不思議もないではないか。
私が特別に想っているのと同じように、彼も……って。
でも、それはとんだ勘違いなのだと思い知った。
知らなかった。
彼の心に一人の女性が住み着いているなんて。
私は知らなかったの。
◇ ◇ ◇
チャイムが鳴ると同時に立ち上がりカバンの取っ手を持つ。周囲の視線が向けられる前に、足早に教室を出ようとする。
「あれ、さくっち帰るの?」
みかちーの声だ。こんなにも早く気付かれてしまうなんて。
舌打ちしてしまいそうになるのを堪えながら、振り向かずに答える。
「……帰るよ、それが?」
「え、でも部活……」
「出ないよ」
みかちーの言葉を遮るように拒絶を示す。背中にみかちーの戸惑うような気配を感じる。彼女の気持ちも分からないでもないが、それが鬱陶しいと思ってしまう。今までの私なら授業が終わっても席に座ったままクラスメート達が帰るのをじっと見ていた。そして最後の一人となり、ゆっくりと部活へと向かうのだ。すべては木ノ下先輩に怒られる(構われる)ために。……でも、もうその必要もない。
「……先輩、来てたよ?」
「だから?」
私の恋した人。構ってもらえて嬉しくて、一緒にいられるのが楽しくて。それでも、今は会いたくない。
「……ふられたの?」
私の頑なな態度から想像したのだろう。みかちーは言いにくそうに、けれどハッキリと訊ねてきた。
「ふられた? ……違うよ」
みかちーに届くか届かないかぐらいの小さな声でぼそりと答え、止めていた足を動かして教室を出る。廊下を足早に歩きながらもう一度「違うよ」と呟く。
ふられてなんかいない。だって私は、自分の気持ちを告ってさえいないのだから……。
そよぐ風にあたりながら、気持ちいいなと伸びをする。そのまま幹へと凭れ掛かる。
みかちーとの会話の後、教室を出たはいいが行く当てのなかった私は、中庭にある桜の大樹へと向かった。桜の木の下に立ち、花びらが散って少し葉の混じってきた桜を見上げていると、不意に登ってみたくなったのだ。学校の象徴でもある桜の木に登ることは校則で禁じられていたが、その時の私にとっては些細なことだった。試しに登ってみたら風は気持ちいいし、景色も綺麗だし、もっと早く登ってみればよかったなと思ったほどだった。
ぼんやりと木に登ったまま校舎を見下ろしていると、下校している生徒がちらほらと見えた。友達数人で帰っている人や、恋人らしき人と腕を組んでいる人、一人で本を広げながら歩いている人など様々な生徒が下校していた。いつもの自分だったら部活動をしている時間で、こんな風に下校している生徒を見ているなんて変な感じだとも思う。
そのまま下校中の生徒をしばらく見ていたが、視線を横に滑らせると桜が視界に入り込む。目の前にある桜を見ながら、先輩の想い人も“さくら”という名前だったと思い出す。
私と同じ“さくら”の名前を持つ人、けれど私には手に入らないものを手にした人。どんな人だったのだろうかと初めて興味を持った。
「……“さくら”って、どんな人なんだろう」
答えのない疑問。本当に知りたいのなら直接先輩に訊けばいいことだ。でも今は先輩の口から“さくら”の話は聞きたくない。ただ、少し気になっただけだ。自分の好きな人が好きになった人、どういう人なのだろうかと。……別に、本気で知りたいと思ったわけじゃない。
「……“さくら”」
名前を呟く。
次の瞬間、肩に手を置かれる。
「呼んだ?」
「キャア!」
「わぁ、ビックリした」
悲鳴を上げて振り向くと、そこには目を丸くしたボブカットの少女がいた。
「え、だ……誰?」
「誰って……今君が呼んだでしょ?」
「……え?」
何を言っているのだろうか、この人は。胡乱げな視線に気付いているのかいないのか、目の前の少女は大きくて丸い黒目を輝かせながら片手を胸に当てる。
「私はこの桜に宿る妖精なんだよ。悩める少女の手助けをするために出てきたんだ!」
大真面目に宣言する少女を前に、乾いた笑いが込み上げる。……そうか、これがあの有名な中二病というやつか、初めて見た。高校生になってもこの調子じゃあ、周りは大変だなと他人事ながら考える。
「そうですか、それじゃあ私は用事があるので……」
「あ、信じてないな。酷いよ、私は本気なのに」
「本気なら尚更悪い! って、手を離して!」
「やだ、離したら逃げちゃうでしょ」
「それが分かってるなら離して!」
「いいからいいから、私なら君の疑問に答えてあげられるよ」
掴まれていた手を振り解こうと力を込めて引っ張っていたが、少女のその言葉に力が緩む。私の疑問? 何を適当なことを言っているのだろうか、この女は。何も知らないくせに。
無神経に話しかけてくる少女に苛立ちを感じながら振り向く。
「疑問って、貴女に分かるとでも言うんですか?」
分かるはずがない、こんな見ず知らずの少女なんかに。けれどそんな私の予想を嘲笑うかのように少女はにこやかに口を開く。
「君の想い人、木ノ下楓のことを知りたいんでしょ」
「!?」
確認ではなく断定口調。
驚きに目を見開く私に構うことなく、少女は言葉を続ける。
「楓のことはよく知っているよ、もちろん君の知りたがっている“さくら”のこともね」
「……貴女……誰?」
楽しそうに喋る少女に対して距離を取ろうとする。見ず知らずの少女が何もかも分かっているとでも言うように笑うその姿に恐怖を感じてしまう。しかし木の上にいるので大きく動くことはできず、距離を取ろうとするその動きは体が揺れる程度だ。少女はそんな私の態度を気にした様子も見せずに話し続ける。
「言ったでしょ、桜の妖精だって。……だから分かるんだ、“桜”を愛する人の気持ちが」
「……桜を、愛する?」
「うん、だから楓のことは誰よりも分かる。彼ほど“桜”を愛している人はいないから」
そう言った時の少女は嬉しそうに照れくさそうに、そして誇らしそうに笑っていた。先ほどまで感じていた少女への恐怖は薄れ、別の気持ちを感じて私は熱くなった目元を隠すように俯く。
「……いいな、先輩に好かれて」
それは羨望。目の前の少女も、先輩の想い人の“さくら”も……どんな形であれ先輩に愛されている。それが羨ましくて仕方ない。……私も、できることならば……。
私の向けた羨望の眼差しに気付いたのか、少女は軽く小首を傾げている。
「君も楓に愛されているよ。手のかかる、可愛い後輩として」
それじゃあダメなの? と問われて私は大きな声で少女の言葉を否定する。
「それじゃ意味がない!」
後輩として? ……違う、それは私の望むカタチじゃない。欲しているのはそれではない。
「“可愛い後輩”なんて、結局は私じゃなくても他の人でもなれるじゃない。……そうじゃない、そうじゃなくて、私は……私は先輩の特別になりたいの! 私だけの、先輩にとってのたった一人の特別に!」
“さくら”を知る前はそれでもよかった。特別でなくても、その他大勢の中の一人でも私は満足していた。先輩の特別になりうる存在だと信じられていたから。
でも“さくら”を知ってからは違う。
誰よりも先輩の近くにいる“さくら”。彼女がいる限り、私は先輩の特別にはなりえない。
だから私は“さくら”が憎い(羨ましい)んだ
涙が自然に溢れてきた。手で口元を押さえて嗚咽を漏らす私を、少女は苦笑しながら見下ろす。
「……じゃあ、やるべきことは決まってるね」
「え?」
何のことかと問い返すと、少女は拳を握りこんで断言する。
「君の魅力で楓の心を奪っちゃうんだよ」
「え、ええ!?」
何を言い出すのだろうか、この少女は。しかし少女は自分の言葉に満足しているのか、うんうんと頷いている。
「ちょ、無理だって……だって、相手は偶像化された理想の女の子なんだよ。勝てるわけないじゃない。それを……」
「だから?」
私の弱気を吹き飛ばそうとでもするように、少女は強く言葉を紡ぐ。
「相手は理想の女の子、ということは今が相手の限界でしょう。でも君は違う。君にはこれからがある。“さくら”以上になるか以下になるか……それは君次第なんじゃないかな?」
「――あ……」
そうだ、私はこれからも先輩といることができる。何年、何十年と……頑張れば先輩の特別になれるかもしれない。
生まれた希望に表情を明るくさせる私とは対照的に、少女の表情はどことなく暗い。
「……本当は、そんな未来きてほしくなんかないんだけど……」
「……え? 何か言った?」
「あ、ううん。なんでもないよ」
暗い表所のまま首を振る。その時何かに気付いたように、少女は遠くを見る。
「楓が来るよ、“さくら”じゃなくて、君を迎えに」
「そうなの? よく分かるね」
少女の視線を辿るように見るが、私には影も見えない。すると少女は「……分かるに決まっているよ、楓のことなら私には分かる」と視線を向けたまま答える。
「……え、それってどういう……」
「気にしないで、それよりもう行った方がいいよ。……頑張って」
「……ありがとう」
励ましに礼を告げる。そこで不意に疑問に思った。この少女はどうしてここまで力になってくれるのだろうか。挫けそうだった私を励まし、恋を応援して……それは私のため? それとも……先輩のため?
「ねぇ、貴女って……本当に、誰なの?」
三度目の質問に、少女は薄く笑う。
「言ったでしょ、この桜に宿る妖精だって」
「それはもういいって。ちゃんと答えてよ、貴女の名前は?」
「だから、私は“桜”なの」
「もう、いい加減に……」
ふざけているのかと思っていた。真面目に訊いているのに、答える気がないかのように飄々として。……でも、実はそうじゃないとしたら?
その瞬間、妙な予感がよぎる。少女の唇は弧を描いたままだ。まるで、私の予感を裏付けるかのように。
「……貴女……もしかして……」
続けようとした言葉を遮るように、少女が私の体を押す。押された体はそのまま宙へと投げ出された。
「私の楓をよろしくね……“さくら”さく、ちゃん」
「……い、おい、聞こえてるか、咲?」
「……あ、れ? 先輩?」
「お前何でこんな所で寝てんだ?」
「え、寝て……?」
見渡すとそこは中庭だった。どうやら中庭の桜の木を背にして眠っていたらしい。
「……じゃあ、あの子とのことも、夢……?」
自らを桜の妖精だと名乗った少女。しかし夢にしては現実味を帯びすぎていたし、体を押された感触もまだ残っている。
――貴女……もしかして……。
「……まさか、彼女が“さくら”なの……?」
――私はこの桜に宿る妖精なんだよ。
――だから、私は“桜”なの。
そうだ、彼女は最初から自分を“桜”だと言っていたじゃないか。それに“さくら”のことも、木ノ下先輩のこともよく知っていると。もしも彼女がそうであったのなら、それらの言葉に納得もいく。
しかし彼女が“さくら”なら、どうして私の応援なんてしてくれたのだろうか。彼女も先輩のことを好きだったのではないのだろうか――。
「おい、咲。どうしたんだって?」
「……先輩、私……」
言葉が続かない。言ってもいいのだろうか、自分の気持ちを。
声を出すことのできない私の脳裏に、先ほどの少女の姿が浮かぶ。ほんの少しの間しか接しなかった少女を、私はもうこんなにも好きになってしまった。もしも気持ちを伝えることで彼女を傷付けてしまうのだとしたら――……。
目を閉じ、唇を噛んで俯いてしまう。伝えられない、そう思った瞬間、私の背中に誰かが触れる気配を感じた。
――大丈夫。
声が聴こえた。
この想いを伝えることを、彼女が受け入れてくれているのだと、漠然とだが感じることができた。
その声に背を押されるようにして、私は顔を先輩へと向けて口を開く。
「……先輩、私……先輩のことが好きです!」
突然の私の告白に驚いたように、先輩の目が見開かれる。いつもの冗談だろうかと思っているのか、先輩は見極めるようにじっと私を見つめる。そうして私の本気を悟ったのか、申し訳なさそうに視線を落とす。
「悪いけど……俺……」
「知ってます、先輩が“さくら”のことを好きなのは。……でも、そんなの関係ないと思いませんか?」
「……え?」
「だって先輩はこれから先、“さくら”以上に私を好きになるんだから」
言って、先輩の襟首を掴んで引き寄せる。ぐっと顔が近付き、唇に暖かくて柔らかな感触を感じる。数秒そのままでいて、掴んでいた襟を離して真っ赤に染まった先輩の顔を見る。驚きと羞恥に染まった先輩の素っ頓狂な表情が凄く可愛くて、私は彼にとびっきりの笑顔を向ける。
「絶対に私のものしてみせますから……覚悟しておいてくださいね、楓先輩」
そして私は頭上の桜を見上げ、宣戦布告をするように指を突きつける。
貴女から先輩を奪ってやるから、覚悟しておいてね“さくら”!
fin