さくらさく 前編
大きな桜の下で微笑む男性。
それが、私が初めて目にした彼の姿だった。
そして彼の浮かべている微笑み。
眼を細めて眩しそうに桜を見上げている彼は、どこからどうみても幸せそうに笑っていたのだけれど。
どうしてかな。
私には……彼が泣いているようにしか見えなかったんだ。
◇ ◇ ◇
私の名前は佐倉咲。今年の四月から私立桃園高等学校に通い始めたピチピチの女子高生だ。
桃園高校では、校内の中庭にある大きくて立派な桜の木が有名だ。樹齢五百年だといわれている。何故桜の木が有名なのに、高校名には“桃”が入っているのかは謎だ。そんなことは理事にでも聞いてくれ。
窓から見える桜の大樹を見上げながら、廊下をのんびりと歩く。本当は走ったほうがいいのかもしれない。……いやいや、廊下は走ってはいけないのだから、今こうして私がのんびり歩いているのは仕方のないことなのだ。急がなきゃいけないのは分かってはいるのだけれどね。
心の中で言い訳をしつつ、階段を下りて中庭に出る。するとそこには体操着姿の少年少女が数人立っている。近づいていくにつれ、彼らの表情が見えてきた。苦笑、呆れ……その中でも一人だけ体操着を着ていない背の高い青年だけが疲れたように私を見ていた。
「……咲、お前今日も遅刻だぞ」
「すいませーん、反省してまーす。……ところで木ノ下先輩、名前での呼び捨てやめてくれませんか?」
「そんなの俺の勝手だろうが」
聞く耳持たないと言った様子の青年に、内心緩みそうになる唇を気づかれないように必死に引き結ぶ。
「……おい、お前制服のままじゃないか。制服はどうした?」
「忘れちゃったんですよ」
「しれっと嘘をつくな! お前今日は体育があったんだろ!? 佐藤さんから聞いたぞ!」
「じゃあ別のクラスの子に貸しているんですよ」
「じゃあって何だ!」
怒鳴られながらも、私は嬉しくなってくる。
彼がこうして怒鳴るのも、名前を呼び捨てるのも、全て私に対してだけだからだ。
私の名前は佐倉咲。
桃園高等学校に通う一年生。
現在ボランティア部に所属していて、週に二回町内清掃を行っている。
……そして彼、木ノ下楓に恋をしている。
ごみでいっぱいになったゴミ袋の口を縛りながら体を起こすと、丁度同じタイミングで彼も体を起こしていた。
「よし、今日はこれで終わりだな」
「そうですね」
彼は部長と話しつつ、部員に指示を出している。おそらくいつも通り「ゴミを回収して焼却炉へ、それが終わったら解散」とでも言っているのだろう。ゴミ袋を持ち上げながら、私は一人の女生徒に近づく。
「みかちー、終わった?」
「うーん、終わったよ。さくっちは?」
「終わったから声をかけたんだよ」
「それもそうだね」
彼女はみかちー、私の友達で同じ部活に所属している。私が無理に誘って一緒に入ったのに、今では彼女の方がずっと真面目に部活に励んでいる。本当に真面目だなぁと感心してしまう。私だったら興味なかったらどんなに頼まれても絶対断るだろう。
「あ、そういえばみかちーったら、先輩にチクったでしょ」
「あは、だってさくっちとは違ってあたしは小心者だもん。聞かれたら誤魔化せないっしょ」
「もう」
口を尖らせて拗ねたように文句をつけると、みかちーは悪びれた様子もなく軽い謝罪を口にする。そのまま話の流れのまま、二人で先輩の方に目を向ける。先輩は昔の青春ドラマのように夕日を背にして立っている。夕日で顔が赤く照らされていて、かっこいいなぁ。
ぼんやりと見惚れていると、不意にみかちーが「ねぇねぇ、さくっち」と私の名前を呼びながら声をかけてくる。
「先輩って、いつまで来てくれるんだろうね。OBだし、高校の部活動なんて卒業したらもう無関係じゃん」
「……そうだね」
木ノ下先輩はボランティア部の正式な部員ではない。今年の三月、つまり四月に入学した私やみかちーとは入れ替わるように卒業してしまっているのだ。しかし今は大学生である彼は部活の活動日になると、よく高校まで来てくれて一緒に活動している。何故かは知らないけれど、彼はこの学校に少しでもかかわりを持っていたいようなのだ。……もしかして、もしかしてだけど……それが実は、私……に、会うためだったりして……?
「実はさくっちが目的で来てたりして」
「そうだね……って、ええ!?」
そうだったらいいなぁ、と考えていた妄想をズバリ言葉にされて、過剰に反応してしまう。顔が赤く染まるのを感じつつ、慌てて否定しようとするが遅かったようだ。みかちーはイタズラが成功して楽しんでいるようなニヤニヤ笑いを浮かべている。
「お、やっぱさくっちもそう思ってたんだ。そうだよね、先輩ってさくっちに対してだけは特別な感じだもんね」
「そそ、そんなことないって」
「もういっそ告っちゃえば? きっと上手くいくって!」
「みかちーったら、そんな簡単に言わないで……って、あれ?」
なんだかその言い方だと、私が先輩のことを好きなこと気付いているみたいな言い方な気が……?
「何言ってんのよ、さくっちの気持ちなんて先輩以外には全員に筒抜けだよ」
「ええ!?」
やだ、筒抜け!? 何それ!
顔色が真っ赤に染まるのを感じながら、私は慌ててみかちーの服を掴む。その力が強かった所為か、みかちーは皺になるのを嫌がるような素振りを見せるが……体操着なんだから、皺がなんなのよ! 今はそれ以上に重要なことがあるんだから!
「ね、ねぇみかちー、それどういう意味!? 筒抜けって……」
「今更慌てても無駄だって。不真面目な態度とか反抗的な行動って全部先輩に構って欲しいからわざとやってるんでしょ? 分かりやすすぎ、あれで気付かないのはよっぽどの鈍感くらい」
「キャー!」
「だから部内で気付いていないのは当の先輩ぐらいじゃないかなぁ。部長達も面白がって賭けとか始めちゃってるし」
「うそぉ!?」
「ほんとほんと。いつ気付くのに千円! とか、玉砕するに二千円! いやいやもしかしたら上手くいくに五千円! とか。……あ、ちなみに私はもちろん結ばれる、に入れたから安心してよ」
「イヤー!」
衝撃の事実発覚。てか、私ってそんなに分かりやすかったんだ。……ショックかも。
恥ずかしさと居た堪れなさで落ち込んでいると、みかちーが「そういえば前から聞いてみたかったんだけどさ」と訊ねてきながら私の腕を取る。
「さくっちって、いつから先輩のことが好きだったの? 部活に入る前からでしょ」
「ななななっ…………どど、どうしてそんにゃことが言えりゅの?」
「噛みまくるほど動揺しておいて誤魔化そうとしないの。それにさくっちって、先輩目当てでボランティア部に入ったんでしょ?」
「げほっ、げほっ」
「部活に入る前……新入生歓迎会とか入学式とか……あ、もしかしてこの高校に入る前からかな。それよりもこの高校を受験したことさえ、先輩目的だったりして……」
「そ、そこまで前じゃない……って、あ」
気が付いた時には既に遅し。みかちーはしてやったり、と言うような表情を浮かべていた。
「へー、じゃあやっぱり入学してからなんだ。ほらほら、もう吐いちまえよ、楽になるぜ」
「うう……みかちー、それじゃあテレビに出てくるヤーさんみたいだよ」
確か昨日見たドラマでそんなシーンがあった。ヤクザが優しく脅して情報を吐き出させた後、その人はコンクリートに詰められて東京湾に沈められたんだ。やばいって、私みかちーに沈められちゃう。
「いやだな、大好きなさくっちを沈めないって」
「えー、ほんとー?」
笑って冗談を言い合いながら、私は初めて先輩を見た時のことを思い返していた。
入学式の日、私は自分の入った高校にあるという桜の巨木を見たくて中庭に向かって走っていた。校舎を駆け抜け、目的の場所にたどり着く。するとそこには先客がいた。
風が吹き、花片が舞う。
桜の幹に手をあて、静かに微笑んでいる青年。そのあまりにも綺麗に微笑んでいる姿を見て、私はおかしなことに彼が泣いているように見えた。
目を閉じて大木に体を預けるようにしている青年があまりにも儚く見え、まるで桜に溶けゆくように感じた。私はそんな彼に、無意識の内に手を伸ばそうとした。その瞬間に、背後から大きく名を呼ぶ声がとんでくる。
「佐倉! 何をしているんだよ」
同中の友人の声だと、振り向いて確かめなくても分かる。私はその声に応えようと振り向きかけたその時、視界の端で青年がこちらを向いたのが見えた。
呆然と私を見る青年と目が合った。
彼の目は隠しきれないほど深い感情を閉じ込めているように見えた。
深く、強く、感情が揺れる彼の瞳に囚われたかのように、私は動けなくなった。
まるで私と彼の時間だけが止まったかのように、私たちはしばらく見詰め合っていた。
その後私は彼がOBであり、ボランティア部という部活に所属していたことが分かった。そして活動日にはよく顔を出して、参加することを。
気が付いたら私は友達のみかちーを誘ってボランティア部に入っていた。部活の初活動日に彼を見つけ、私は心が躍りだすような感覚を覚えた。その時初めて自分の気持ちを自覚したのだ。……彼に惹かれていることに。
私、佐倉咲は、彼――木ノ下楓に恋をしていることを。
暖かく胸を包む初めての恋に、私は浮かれていた。
その恋が、いずれ私を真っ暗闇に突き落とすことになるとは知らずに。
階段を駆け下りる自身の足音で、自分が今走っていることに気が付いた。足を動かして踊り場に着地し、その勢いのままに廊下を走り抜ける。普段は意識してゆっくりと歩んだその道のりを、今は何も考えられないようにただ走るということだけに意識を向ける。走った先に向かったのは突き当たりにある小さな部屋。そこは自分が所属しているボランティア部が部室として使っている場所だ。叩き付けるようにして扉を開き、息をつく間もなく駆け込む。部室に入り扉を閉め、外から開けないように鍵をして……そしてようやく私は深く息を吐くことができる。乱れた呼吸のまま扉を背に座り込んでしまう。荒い呼吸を続けながら、私は先ほど見た光景を思い浮かべていた。
今日は部の活動日、いつも通り遅刻していこうと校舎をのんびり歩いていたら廊下の先に木ノ下先輩がいた。集合場所に行っていないといけない時間帯に、まだこんな所でウロウロしていたら叱られてしまう。反射的に柱の陰に隠れ、しかし元々怒られるつもりだったのを思い出して陰から出ようとしたが、そこで先輩が一人でいるわけではないことに気がついた。
「あれ、誰だろ」
思わず呟いてしまい、ハッとして口を塞ぐ。幸いにも彼らには届いていなかったようだ。息をつきながら様子を窺っていると、親しい雰囲気に包まれていることに気がつく。先輩と一緒にいる青年も、先輩と同じように腕に来客証を付けていることから、彼もまたOBなのかなと思う。
そんなことを考えていると、二人の会話が微かに聞こえてきた。盗み聞きなんていけない、と思いつつ耳を澄ましてしまう。
『……楓、お前まだここに顔を出したりしてたんだな』
『いいだろ、別に』
『そりゃ、いーけどよ。……やっぱりお前って、まだアイツが忘れられないんだな』
『…………』
いけないいけないと思いつつ、溢れ出る好奇心を抑えられないままに盗み聞きを続けていた私の耳に、名も知らぬ青年の言葉が引っかかる。……“アイツ”? ……アイツって、誰……?
二人は柱の陰にいる私のことなんて気付かずに会話を続ける。
『……どういう意味だよ』
『そのまんま、お前がこの高校に執着する理由はアイツがこの高校に入りたがっていたからだろ』
『…………』
『……やっぱまだ引きずってんだな。もう四年も経ったっていうのに』
『……まだ四年だろ、たった四年だ』
青年の言葉を黙って聞いていた先輩が力強く『たった四年しか経っていない』と口にする。その口調に胸がざわつく。何故だろう、先輩がまだと口にするたびに私の中にある警鐘が派手な音を立てて鳴り響く。
『やっぱりまだ忘れてないんだ』
『当たり前だろ』
その時の先輩の浮かべていた表情は、私が今まで見たことのない表情だった。
切なくて、悲しくて、でもとても幸せそうな……そんないろいろな想いをぎゅっと濃縮して抑えきれなくなって泣いているような、そんな笑顔を浮かべていた。
……ああ、そうだ。私はこの表情を見たことがないことはない。一度だけある。初めて彼に出会った時、中庭の桜の木に向けていたのと同じ顔なんだ。それは私が彼に惹かれたキッカケで……なんて、愛しそうに桜を見ているのだろうかと……。
……愛おしげに、桜……を――。
『今でも俺は“桜”のことが好きだ』
その瞬間、私は走りだしていた。
「“さくら”って……誰?」
あの時の先輩の言葉、あれはどう考えても恋愛感情での“好き”だろう。ではその想いを向けている相手とは?
「……私、じゃないよね」
私の名前も“さくら”だ。しかしそれは名字の方で、彼は普段から名前で“咲”と呼んでいる。普段なら嬉しいと感じることだけれど、今はその事実が残念だ。
「それじゃあ、一体誰の、こ……と……」
そこまで考えて、不意に恐ろしい事実に気がついた。
先輩は普段から異性に対して名字で呼んでいた。たとえば相手がみかちーなら「佐藤さん」と。それなのに私に対してだけは名前で「咲」と呼んでいる。
今までは単純に一人だけ扱いが違って、それを特別なのだと喜んでいたが……そうではなかったとしたら?
私の名字を呼びたくなかっただけなのでは……?
ポツポツと水滴が窓に当たる。まるで私の中で膨れ上がった考えを肯定するかのように雨が降り始める。頭の隅のどこか冷静な部分が、今日の部活動は中止だなと考えていると、遠くの方からこちらに向かっている足音が聞こえてきた。
先輩だ。
悲しくなるほどハッキリと認識した自分に、泣きたくなるほどおかしな気持ちになった。
足音が近づいてき、部室の前まで来たことが分かる。そのまま開けようとしたのだろう、ドアノブがガチャガチャと鳴る。
「……あれ、鍵が閉まってる?」
先輩の声だ。
鍵が閉まっていることに不思議がっている先輩が何度も何度もドアノブを捻る。でも、開かない。当たり前だ、私が内側から鍵をかけているのだから。
「……先輩先輩、鍵がかかっているから開きませんよ」
よかった、声は普通に出る。
「…ん、その声……咲じゃないか。どうして鍵なんてかけて……ってか、もう部活の時間過ぎてるじゃないか。何でまだ部室に……そうか、お前今日も遅刻か」
諦めたように納得する先輩のいつも通りの声。いつも通り……当たり前だ、先輩は私があの会話を盗み聞きしていたことなんて知らないのだから。
「……ねぇ、先輩……ちょっと訊きたいことがあるんですけど……いいですか?」
「は? 何だ急に。改まって訊かれると何だか怖い気もす……」
「“さくら”って、誰ですか?」
声が止まった。先ほどまであった冗談めかした空気が凍り、辺りには沈黙が生じる。その重さに耐えられず、私は言葉を続ける。
「さ、さっき、先輩たちの話を聞いちゃいまして、それでなんていうか気になって……も、もしかして……恋、人……とかってやつですか?」
少しずつ詰まりながら、それでも何でもないことのように訊ねる。違うよ、という答えが返ってくるのを期待しながら先輩の答えを待つ。実は昔ふられちゃってね、なんて答えだったら一番いいのかもしれないなと思った。そうしたら私は先輩かわいそー、なんてからかいながら、きっとこの扉を開くことができるはずだ。
……でも、現実はそんなに甘くなんてなかった。
先輩は少しの沈黙の後、「そうだよ」と言った。
「桜は俺にとって何よりも大切な女の子で……恋人以上だったと、俺は思ってる」
「……へ……へー……先輩にそんな人がいたんだ……し、知らなかった。先輩に女の影なんて見えなかったし……」
高校の部活にOBとして参加しているくらいだから、彼女なんていないと思っていた。放課後デートなんてしている暇ないだろうし。そんな私の考えを察したのか、先輩は静かな口調で語り続ける。
「四年前に、亡くなっているんだ。……でも、俺にとって忘れられない存在だし、忘れたくもない」
「…………」
扉越しで会話をしているから顔は見えないけれど、きっと今先輩はあの泣いているような優しい笑顔で話しているのだろうと思う。……そっか、あれは“さくら”に向けての笑顔だったのかな……?
「新しい恋人とか……作る気、ないんですか?」
「……ああ」
先輩の言葉が突き刺さる。
我慢できずに溢れ出る涙を拭うこともできずに嗚咽を噛み殺し、私は先輩の話を聞き続ける。
「今も、今までも、そしてこれからも……俺は桜だけを愛している。きっと、ずっと変わらずにな」
いつか、あの時桜の木に向けていた笑みを、私にも向けてほしいなと思っていた。
けれどそんな日は永遠に来ない、そう突きつけられたような気がした。




