散華
風が吹く度にカーテンが揺れる。花や木々の香りに包まれた冷たい風だ。
眠気を誘う心地のよい空気に浸りながら目を瞑ると、脳裏に一人の少女が浮かぶ。
寂しげな影を負った、儚い微笑みを浮かべる少女。
――この安らぎの中に身を堕としたら、君の元へ行くことができるだろうか……。
皺だらけの手で小さな小箱を抱きながら、彼は意識を手放す。
君が逝ってから、僕は何度春を迎えたことだろう。
今年もまた、桜が咲いた。
君と同じ名を持つ花が……。
風が吹き、一片の桜の花びらが、色褪せた手紙の上へと舞い落ちた。
ドアノブを回し軋んだ音を立てながら古い扉を開けると、青いパジャマを着た少女がベッドに腰掛けている。
「おはよ、桜」
明るく声をかけると、少女――桜は振り向き、彼女特有の今にも消え入りそうな儚げな笑みを浮かべる。
「おはよう……でも、もう昼過ぎよ? 楓」
桜は幼馴染の少年――楓に、疑問交じりの質問をする。
その儚げな笑みに含まれている寂寥に気づかない振りをし、楓は照れくさそうに反論する。
「いいんだよ、僕は今来たばっかなんだから。だから朝でも昼でも夜でも、最初の挨拶は“おはよう”なの」
「ふふ……そうなんだ」
得意げにそう言い切ると、桜は苦笑しながら頷いてくれた。
楓の幼馴染の少女、桜は生まれつき心臓病を患っている。
長くは生きられない。そう医者に宣告されている身だ。それでも彼女は笑みを絶やさない。生きることを諦めていないからか、それとも……。
楓は努めてそれから先のことは考えないようにしながら、いつもの定位置に座る。それはベッドのすぐ隣に置いてある椅子だ。そこなら桜の顔がよく見える。
その日も同じように口を開く。言葉になって出てくるのはいろいろなことだ。今日友達と何を話したか、テストで何点を取ったのか、天気のこと、最近流行っていること。……何でもだ。
楓や他の人にとったらなんでもないことでも、桜にとってはどれも新鮮に捉えられる。彼女はいつも話を楽しそうに、そして同時に少し羨ましそうに聞いている。その目を見るたびに楓は少し悔しくなる。
桜は小さい頃から病によってその身を束縛されてきた。他の子と同じように駆け回ることができずに、いつも蚊帳の外だった。
自由に焦がれる桜を救う手立てを、楓は持っていない。
助けたい。
力になりたい、と望んでいるのに……。
何もできない自分を、楓は何度も疎ましく思う。
そして、今日も同じように、その想いに苛まれる。
「……あれ?」
枕元に、昨日まで無かったものが置いてある。
綺麗な細工の施してある小箱。
「なぁ桜。それって……」
「これ? ……これはね“宝石箱”よ」
「宝石箱ねぇ……綺麗な細工だな。これって、何を使っているんだ?」
「楓ったら、螺鈿を知らないの? ……螺鈿っていうのはね、貝殻の裏にある真珠層、っていう部分を加工して作ってあるのよ」
「ふーん、桜は物知りだな」
「楓がモノを知らなさすぎなのよ」
桜が呆れたように苦笑する。
楓も一緒になって笑っていたが不意に、先ほどの桜の言葉に疑問をもつ。
「あれ? 宝石箱ってことは……その中に宝石でも入れてあるのか? ていうか桜って、宝石なんか持っていたんだな」
首を傾げながら楓が訊ねる。
「ああ、それはね……」
小箱を手に取り、何かを言おうとしていたが途中で言葉を切る。それからまるで、悪戯を企んでいるように、ほくそ笑む。
「……秘密」
「ええ? なんだよ、それ」
「えへへ」
「笑ってないで、教えろよ」
「だぁめ。秘密ったら秘密だよ」
桜は楽しそうに笑みを浮かべながら、愛おしそうに小箱の飾りをなぞる。
そんな桜を見ていると、何だか箱の事なんてどうでもよくなっていて……気が付いたら楓も一緒になって笑い合っていた。
病室に響く笑い声。
それは久しくなかった穏やかな瞬間。
……そしてそれが、彼女と過ごした最後の時間。
楓が覚えている、桜の最後の笑顔となった。
桜が――死んだ。
線香の臭いが鼻につく。
楓は線香の煙を不快に感じ、席を立つ。途中、楓の母親が気にするように顔を向けたのを感じたが、楓は一瞥をすることなく部屋を出る。
桜はあの日の夜、発作を起こしたようだ。そしてそのまま、息を引き取った。
楓は間に合わなかった。彼の家に知らせが届いた時には、全てが終わっていた。
桜の笑顔が脳裏にちらつく。
冷たくなった彼女の死に顔を見ても、涙は出なかった。彼女が亡くなったと聞かされた時も、葬式に参列している時も。彼女の肉が燃え、骨になった時も……瞳が潤むことさえなかった。
自分はこんなに薄情な人間だったのか、と思うと自分自身に対して嘲笑さえ出てくる。
顔を上げると、雲一つない青空が広がっている。
――……これで良かったのかもしれない。
不意にそう思った。
彼女はずっと、外に出たいと望んでいたのに、病院という隔絶された場所に閉じ込められていた。生きている時には叶わなかったけれど、死してようやく叶った願い。もしかしたら、彼女にとっては幸せなことなのかもしれない。
「……楓君?」
そこまで考えた時、背後から声をかけられた。
のろのろと振り向くと、桜によく似た女性が立っていた。
「…………枝美子さん」
桜の母親だ。丸い、大きな黒目がよく似ているからすぐに分かった。
枝美子は痛みを堪えた表情のまま楓に近づき、持っていた小箱を渡すように差し出す。
「楓君、貰ってくれる?」
「……え? これって……」
桜が亡くなる前、見せてくれた螺鈿細工の小箱だ。
「桜の大切な……“宝石箱”よ」
「……なんで、僕に……」
それは当たり前の疑問だったのだろう。
桜の大切にしていた小箱。
遺品――いわば形見と呼ぶ品を赤の他人に渡すなんて信じられない。そんな意味を込めて視線を送ると、枝美子は小箱に視線を落とす。
「……そうした方が……きっと、桜も喜ぶと思ったから」
「……え……?」
枝美子はそっと楓の手に小箱を押し込めると、去っていく。
途方に暮れながらも、楓は手渡された小箱に視線を落とす。すると、中で微かに音がした。
「?」
疑問に思いながら蓋を開けてみると、一通の手紙と数枚の桜の花弁が入っていた。
「…………あ」
小箱の中にある白い手紙を見た瞬間、思わず声が漏れる。
震える指先を伸ばし、手紙に触れる。
唾を飲み込み、カサリと音を立てて手紙を開く。そこには丸みを帯びているが、流暢な筆跡で文字が書かれていた。――桜の字だ。
『 こんにちは、桜です。お元気ですか? 私は……病気さえなかったら元気です。
……って、何を書いているんだろうね。ごめんね。手紙なんて書いたことが無いから、どう書けばいいのかよく分からないの。
楓がこの手紙を読んでるってことは……もしかしたら、私は死んでしまったのかな? ……そうだろうな。楓やお母さんたちは、「絶対に治る」って言ってくれていたけど、私、知ってたよ。もう治らないって。死んじゃうんだって。……ごめんね 』
そこまで読んだところで唇をかみ締める。どうしてお前が謝るんだ。悪いのはお前じゃないだろ。
息を吸い、吐く。
手紙を開き、続きを読み始める。
『 ね、楓。楓は覚えてる? 桜が降った日のことを 』
桜が降った日。もちろん覚えているよ。忘れるはずがない。
あれは、楓と桜が十歳の時。
病院の中庭にある桜の木が満開になった、ある春の日のことだ。
『わぁ、満開だよ。綺麗だなぁ』
『……そう?』
『うん。……あ、そういえば桜って、この花とおんなじ名前だよね』
『……うん……』
『やっぱり桜のお母さん達も桜が好きだったから、桜って名前をつけたのかな。そうだったらいいよねぇ』
『…………』
『……え? あれ? 嬉しくないの?』
『……私、名前嫌いだもん』
『……どうして?』
『だって、桜って短い間しか咲かないもん。すぐに散っちゃう』
『……えーと……』
『それに弱いわ。雨風に打たれると全部落ちちゃうもの。落ちている花びらは踏まれて、すっごく汚いし』
普段の穏やかな桜からは考えられないような辛辣な物言いだ。
もしかしたらこの時、既に桜は自分の病について知っていたのかもしれない。だからこそ、短命であること認められずに、自らの名前にすら嫌悪感を持っていたのだろう。
『……うーん……確かに桜はすぐに散っちゃうけど……』
『……けど……何?』
『来年また咲くよ』
『…………え?』
楓は弱気な桜の想いさえ吹き飛ばすように笑う。
『桜は散っても来年また綺麗に咲くよ。そして再来年……三年後、四年後……ずっとずっと……ずーっと』
『……ずっと……』
『うん』
『…………』
桜は顔を俯かせていたと思ったら、次の瞬間顔を上げ、満面の笑みを浮かべていた。
『…………そうだね。……桜は、毎年咲くんだもんね』
『そうだよ』
『……うん……うん』
その時、何の偶然か、強い風が吹いた。目も開けていられないほど強い風。
『わ』
『キャ』
慌てて埃が目に入らないように腕を使って庇う。
風が収まり、目を開けると、花びらが舞っていた。
ひらひら、ひらひら。
風に舞い、まるで桜が踊っているかのような光景だった。
『……きれい……』
『……うん』
桜が降る。
この光景を、楓も桜も生涯忘れることはなかった。
『……ねぇ、桜』
『……何?』
『桜は、確かに短い間しか咲かないけど……だからこそ、綺麗なんじゃないかな?』
『え?』
桜はキョトンとしたまま楓を見つめる。
『短い間だからこそ、一生懸命頑張って咲くんだ。だからこそこんなにも綺麗な花なんだよ。これって凄いことだと思わない?』
『…………』
空を見上げ、花びらが降ってくるのを声もなく見つめている。そして、不意に顔の筋肉を緩め、笑顔を形作る。
『……そう、だね。……そうだね』
その笑顔に、もう暗い影はなかった。
『……ね、楓。私も、桜みたいに綺麗に生きることができるかな』
『できるよ。できるに決まっている』
大げさな身振り手振りを加えて肯定すると、桜は嬉しそうに目を細める。
『そっか……ありがとう、楓。私、桜みたいに生きるよ。頑張って、綺麗に咲いて見せるから!』
病院の中庭で、そう話した。小さな幼い頃の思い出。
桜は忘れていなかったんだ。
あんな、他愛の無い出来事を……かけがいの無い思い出として……。
『 あの時から……ううん、もしかしたら、その前からずっと……楓は私にとって、なくてはならない人だった。
ずっと、貴方のことが好きでした 』
好きで、いてくれた。
「…………ふ、っ……」
楓は桜の手紙を握り締める。
強く。強く。握り締める。
『 ありがとう。大切な気持ちを教えてくれて。楓に出会えたからこそ、私は生きていることに感謝することができました。短い時間を、懸命に生き抜くことをできました。
本当に――ありがとう 』
涙が溢れ、声が漏れる。彼女の想いが胸に詰まる。
伝えることの出来なかった想いが、心に響く。
涙で滲み、霞んだ視界で桜を見上げる。
「僕も……好きだよ……桜……」
胸に秘め続けてきた恋を口にする。
伝わるだろうか。天に召された君に、この想いが。……どうか、伝わって欲しい。
『 貴方と過ごした日々は、まるで宝石のように、私の中で光り輝いています。
今までも――そして、これからも。 桜 』
小箱の中に入ってある桜の花弁を手に取る。きっと、彼女にとってこれは宝石にも等しい宝物であったのだろう。
『これ? ……これはね“宝石箱”よ』
『桜の大切な……“宝石箱”よ』
桜と桜の母親の枝美子さんの声が頭をよぎる。そっか、そういうことだったんだね。
確かにこの小箱は、桜の“宝石箱”だったんだ。
小箱と手紙と花弁を手に取り、楓は胸に抱く。まるで、桜の想いを抱きしめるように。
涙が一筋、頬を伝う。
楓は桜の想いを胸に抱きながら泣き続けた。
十五歳の春、楓は自分の初恋が終わったことを知った。
「ただいま~、おじいちゃぁ~ん」
パタパタと可愛らしい足音を立てて幼子が戸を開けて入ってくる。
その子は大好きな祖父の膝に顔を埋めようとして、祖父が目を瞑っていることに気が付く。
「……あれぇ?」
「…………あら、おじいちゃんは寝ているのね。邪魔しちゃ駄目よ。桜」
「はぁい」
幼子の母親は、子どもを部屋の外に出そうとして不意に気付く。
祖父の表情がこの上なく安らかなことに。
「……なんだか幸せそうね。どんな夢をみているのかしら?」
風が吹き、桜の花びらが舞う。
ひらひら、ひらひらと。
まるで、天からの祝福のように花弁が舞う。
少年と少女が桜の木の下で、楽しそうに笑いあっていた。
Fin