淵の、手前で - 黒瀬 蓮 -
深夜二時のスタジオは、昼間より息がしやすい。
人の声も、足音も、照明の熱も少しずつ引いていって、作り物の夜だけが、セットの窓にぺたりと貼りついている。
今夜の場面に、台詞はない。役の男が、窓の外をただ見ている。それだけの一シーンだ。
台詞がないぶん、俺は全部を設計する。どこで瞬きをして、どこで喉を鳴らし、どこで視線を一度だけ落とすか——役の男の渇きも、諦めも、外側から寸分違わず組み立てて、決めたとおりに置いていく。本番は、それをなぞるだけ。役の中には、決して入らない。
入らないことが、今の俺の芝居だ。
入ってはいけないと、俺は知っている。一度そこへ深く入って、こちら側へ戻ってこられなかった人を、知っているから。
舞台の上で誰より眩しく燃えて、そのまま自分の輪郭を役に明け渡し、向こうへ行ったきり帰ってこなかった人。
「シーン二十五、窓辺。テストなしで本番いきます」
助監督の声で、空気が一段、硬くなる。カウントが落ち、赤いランプが点いて、カメラが回りはじめる。
俺は、役の輪郭の中にきっちりと足を置いた。飛び込まない。淵の、ぎりぎり手前で止まる。
脚本の男が見ているのは、窓の外の景色じゃない。それは、もう戻れない「どこか」。閉じた扉、伸ばせなかった手、置いてきてしまった誰か――それを外側から作るには、その「戻れなさ」の形を、どこかで知っていないといけない。
皮肉なことに、俺はそれをよく知っていた。
役の男が見ている場所と、あの人が輪郭をなくして消えた場所が、ほんの一瞬、同じ温度で重なる。外から組み立てていたはずの渇きに、俺自身の渇きが、内側から答えてしまう。設計の外、ずっと閉じてきた、壁の向こう側から。するりと隙間をすり抜けて、零れ落ちていく。
それが目の奥に熱を灯し、眦に滲むまでに、そう時間はかからなかった。
ト書きに、涙はない。俺が許可した涙でもない。なのに一粒だけ、勝手に頬を伝っていく。
――どうして。
自分の鎧を裏切って、自然と流れ落ちた雫に驚く。反射的に指が拭いにいこうとしたけれど、寸での所で止めた。
拭わない。
拭ったら、嘘になる。
――いや。本当は、拭うのが怖かった。この一粒が何の証なのか、俺にはもう分かっていたから。
役が、鎧の縫い目を、たった一度だけすり抜けた。淵の手前で止まっていたはずの爪先が、ほんの少しだけ、向こう側へ出てしまった。あの人が二度と帰ってこなかった、あの場所。
冷えていく頬の上で、そこだけが、いつまでも熱かった。
「カット!」
声がかかって、世界に音が戻る。誰かの息、床を鳴らす靴底、モニターの前で低く交わされる声。それでも俺だけは、しばらく淵から上がってこられなかった。計算して作り上げたはずの「男」という役の底の底。その暗い深淵を、覗き込んでしまったから。
「……黒瀬さん?」
メイクが、遠慮がちに近づいてくる。心配そうな目だ。俺は、大丈夫だと笑ってみせた。今度はちゃんと笑えたはずだ。笑って、戻る。それが俺の仕事なのだから。
頬に残った跡を、親指で擦った。今度は、拭う。ここが現場で、俺が黒瀬蓮に戻らなきゃいけないことを、身体に思い出させるために――もう二度とこぼさないと、鎧を纏いなおす為に。
モニターの前で、監督がこっちを見ていた。
「上手くなったな。――でも、昔みたいには入ってない。もう少し、役に入ってもいいんじゃないか」
少し、心配そうな、気遣うような顔。それに曖昧な笑顔を返して、その視線から逃げるようにそっと目を伏せた。
役に、入ってもいい? 昔みたいに? それはもう無理だ。その演技の先に何が待っているかが、俺には見えているから。入れば、戻れない。だから、入らない――感情のままに、演技することも、しない。
淵のこちら側から芝居をする。全部を明け渡して向こうへ行くことは、もう、しない。あの人と、同じ道を辿らないために――加減を、覚えた。覚えるしか、なかった。
ただ、こうして淵の手前で、綺麗に作って綺麗に戻るだけの芝居で、本当に誰かの胸に届くのかは、俺にはわからない。加減ばかりを覚えた役者に、心を動かされる奴なんて、どこかにいるのか。その答えを、俺はまだ持っていない。
それでも、求められるままに、俺は今日もカメラの前に立って、知らない男の渇きをなぞっている。
いつか眠れない夜に、こんな地味な深夜ドラマを、ひとりきりで点ける奴がいるかもしれない。息をするのが少し苦しくて、理由もなくテレビをつけて、たまたま俺の横顔で、手を止める。そんな、どこかの誰か。
その、たった一人にでも、届いていればいい。
さっき拭ったばかりの頬が、まだ、少しだけ熱かった。――これは、もう誰にも渡さない。俺の中にしっかりと鍵をかけて、しまい込むべきものだ。
あの夜から、俺は一度も、役に爪先ひとつ入らせていない。あれが、最後の一粒だった。
それで何を守って、何を失くしたのかは、今でも、うまく言えないまま。
(黒瀬蓮/エリュシオン・ミラージュ)
黒瀬蓮は、Xで"今"を生きています。
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黒瀬蓮が、ある新人俳優と初共演する物語『アクションの後で』も、近日連載開始です(※R18・ムーンライト)。
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