第15話 貴族の家
昨夜はあの後、騎士団に付き添われて《灯屋》へ戻った。
その後、異形が再び姿を現すことはなく、帰り着いた頃にはすっかり夜も更けていた。
少し眠っただけで、朝を迎えた。
朝になると、約束どおり騎士団の魔導四輪が店の前で待っていた。
昨日乗った警備隊のものよりひと回り大きく、車体の縁には細かな装飾まで施されている。
痛む脇腹を庇いながら乗り込むと、エリゼとリュシアはすでに車内で席に着いていた。
扉が閉まり、間もなく魔導四輪が静かに走り出す。
「そういえば、今日は学校はいいのか?」
「今日は普通にお休みの日ですよ」
「そうだったか」
「昨日が休日前でよかったです。さすがに、あの時間まで起きていて、朝から授業を受けるのは大変ですから」
確かに、夜更かししたあとの授業はしんどい。
学生の頃は、俺も授業中によく寝ていたな。
座席は広く、昨日乗った警備隊の車両よりも揺れがはるかに少ない。
車体の大きさや装飾だけでなく、中の造りも相応に上等らしい。
車窓を流れていく朝の王都を眺めているうち、昨夜、騎士団長の前でリュシアを「様」付けで呼んだことを思い出した。
「そういえば、向こうに着いたら、話し方を変えた方がいいのか?」
「変えるって、また敬語に戻すんですか?」
リュシアがわずかに眉を寄せた。
「いや、リュシアの家の人たちの前で、俺だけ普段どおりに話しているのはまずいんじゃないのか?」
「今までどおりで大丈夫です。昨日みたいに『様』を付けるのもやめてください」
「そ、そうか……」
俺のいた国では、貴族制度なんて、俺が生まれるよりずっと前に廃止されている。
貴族にどう接するべきかなど、知る機会があるはずもなかった。
「不敬に当たったりはしないのか?」
「そんなことで不敬罪にはなりませんよ」
リュシアは不思議そうに一度目を瞬いた。
「そうなのか?」
「はい。公の場で、相手に恥をかかせようと侮辱したのなら話は別ですけど。普段の話し方だけで罪に問われるなんて……何千年前の話ですか」
リュシアがくすりと笑う。
「あはは、何千年前か」
俺のいた国なら、二千年も遡れば歴史と神話の境目に近い。
王国、貴族、騎士。
そんな言葉に引っ張られて忘れそうになるが、この世界の文明は、俺のいた世界よりもはるかに長く続いている。
そんな話をしているうち、車窓の先に巨大な石造りの門が現れた。
手入れは行き届いているが、積み上げられた石からは長い歴史を感じる。
魔導四輪が門の前で速度を落とすと、門柱に組み込まれた魔導具が淡く光った。
光が車体を一巡し、確認が済んだのか、巨大な門がゆっくりと左右へ開いていく。
「これが、貴族の家……家というよりは」
門をくぐった先に広がっていたのは、俺が想像していたような一棟の大邸宅ではなかった。
俺の知るものに例えるなら、巨大な大学のキャンパスに近い。
広い道路が敷地の奥まで伸び、その両側に大小さまざまな建物が並んでいる。
道沿いの案内板には、政務棟、研究棟、講堂、王都駐屯騎士団本部など、いくつもの施設名が記されていた。
車道には何台もの魔導四輪が行き交い、歩道にも騎士や職員らしき人々の姿が絶えない。
家と呼ぶには、あまりにも多くの人と機能が集まりすぎている。
「ん?」
脇道から現れた小型の魔導四輪とすれ違った。
荷台にはいくつもの箱が積まれていたが、車体のどこにも人影がない。
「……人が乗ってない」
「運搬用の魔導四輪ですよ」
「いや、運転している人もいなかった」
「敷地内の決められた道を走るだけですし、それに公道じゃありませんから。当然では?」
「へぇ……俺のいた世界にも似たものはあったけど、あんなふうに外を走るのが当たり前ってほどじゃなかったな」
「そうなんですか。あ、もうすぐ着きますよ」
リュシアが前方へ視線を向ける。
その先には、周囲の建物よりもひときわ大きな治療棟が建っていた。
一つの貴族家が所有する治療施設とは思えないほど大きい。
正面玄関の横に掲げられた案内板には、診療区画だけでなく研究区画の名も並んでいた。
怪我や病気を治すだけでなく、治療に関する研究もここで行われているらしい。
魔導四輪が治療棟の正面で止まり、俺たちは順に車を降りた。
「おはようございます、リュシアお嬢様」
入口にいた職員の一人が、リュシアの姿を見るなり頭を下げる。
周囲にいた者たちも、それに続くように一礼した。
「おはようございます」
リュシアは慣れた様子で挨拶を返す。
中へ進む間にも、すれ違う者の多くが足を止め、彼女へ頭を下げた。
リュシアも、そのたびに小さく会釈を返している。
自宅にいるだけで、常に「ノクレール家のお嬢様」として扱われる。
これほど多くの人に頭を下げられ続ける暮らしは、年頃の少女にとって、あまり落ち着けるものではないのかもしれない。
そう考えかけて、すぐにやめた。
リュシアは生まれたときから、こうした環境の中で育ってきたのだろう。
ノクレール家の自領なら、ここ以上の規模の施設があってもおかしくない。
俺の感覚だけで、彼女まで同じように感じていると決めつけるのは、ただの邪推だ。
「こちらへどうぞ」
職員の声で、俺は考えるのをやめた。
案内されたのは、診察室と治療室を兼ねたような部屋だった。
磨かれた石の壁に、濃い色の木製棚。その中央には金属製の寝台が置かれ、周囲には用途の分からない魔導具がいくつも並んでいる。
建物そのものには長い歴史を感じるのに、置かれている設備は、俺の知る病院より進んでいるように見えた。
「高嶺総一郎様ですね。事情は伺っています」
部屋で待っていた白い長衣姿の女性が、寝台を示した。
「まずは詳しい状態を確認します。こちらへ横になってください」
言われたとおり寝台に横になる。
治療師は細長い銀色の魔導具を俺の身体の上へかざした。
魔導具から放たれた淡い光が、足元から頭までゆっくりと移動していく。
「……本当に、魔力反応がありませんね」
治療師は驚くというより、珍しいものを確かめるような口調で呟いた。
「診断には影響しないんですか?」
「事前に伺っていますので、術式を調整してあります。問題ありません」
治療師が魔導具の側面へ触れる。
すると、傍らに置かれていた薄い板の上に、俺の骨格と内臓らしき像が重なって浮かび上がった。
レントゲンと断層画像を一度に見ているようなものだろうか。
治療師は浮かんだ像を何度か切り替え、脇腹や左脚を直接確かめていく。
「肋骨を含め、骨に亀裂や骨折はありません。内臓と頭部にも異常は見られませんね」
その言葉に、リュシアが小さく息を吐いた。
「左脇腹の裂傷も、筋肉までは達していません。ほかは肩と背中、両腕の打撲と擦過傷。それから左脚の強い打撲です」
「それなら、大した怪我じゃなかったんですね」
「重傷ではありませんが、軽傷とも申し上げません。応急処置が適切だったため、悪化していないだけです」
治療師の視線がエリゼへ向く。
「傷もきれいに処置されています」
「それならよかったわ」
エリゼはそう答えたが、その目は明らかに俺へ向けられていた。
黙っておこう。
「では、治療を始めます」
脇腹に巻かれた包帯が外される。
治療師が傷口へ手をかざすと、淡い光が薄い膜のように広がった。
最初に感じたのは、わずかな熱だった。
やがて傷口の奥がむず痒くなり、開いていた皮膚がゆっくりと閉じていく。
光が消えたときには、脇腹には薄い赤色の線が残っているだけだった。
続いて、肩、背中、腕、左脚へ順に治療が施されていく。
身体の奥に残っていた鈍い痛みが、温かなものに押し流されるように消えていった。
「これで処置は終了です」
寝台から起き上がり、脇腹を軽く捻ってみる。
痛くない。
左脚にも体重をかけてみたが、昨日までの鈍い痛みはすっかりなくなっていた。
俺のいた世界なら、傷を縫って、しばらく痛みと付き合うことになっていただろう。
それが、わずかな時間で治ってしまった。
「傷と打撲は治っています。ただし、失った血液や体力まで戻ったわけではありません。睡眠も足りていないでしょうから、今日は無理をせず休んでください」
「これなら、もう大丈夫そうだけどな」
「あなたの『大丈夫』は信用していないわ」
「私もです」
エリゼとリュシアの声が、ほとんど同時に重なった。
どうやら傷が治っても、二人からの信用までは戻らなかったらしい。




