第13話 夜更けの包囲
ペタ、ペタ、と。
奥の壁際に座る俺の耳にも、聞き覚えのある湿った音が届いた。
「リュシア」
そばにいたエリゼが名を呼ぶと、異形を見張っていたリュシアが振り返った。
エリゼは何も言わず、拘束された異形へ視線を向ける。それだけで意図が通じたらしい。リュシアは小さく頷いた。
右手の中に、細身のショートソードが光で形作られる。
さらに二振りの光の短剣が彼女の左右に浮かび、三つの切っ先が拘束具に封じられた異形へ向けられた。
俺まで外の音に気を取られている。こういう隙に、こいつが何かするかもしれない。
その備えなのだろう。
リュシアが異形へ視線を戻すのと、ほぼ同時だった。
「副隊長は正面入口。ライド、窓につけ。拘束担当の二人は監視を継続。アイボ、民間人を奥の壁際へ。俺もそちらにつく」
「了解」
短い返事が重なった。
何が来るのか、どれほどの数なのか。問い返す者はいない。
隊員たちはそれぞれ腰の留め具から、警棒に似た黒い短杖を引き抜いた。
握り込まれた途端、表面に刻まれた溝へ淡い光が走る。詳しい用途までは分からないが、構え方を見る限り、制圧用の魔道具なのだろう。
副隊長は扉の閂を確かめると、その正面を避け、扉脇の壁へ背を寄せた。
ライドと呼ばれたのは、魔導四輪を片づけて戻ってきた隊員だった。窓へ駆け寄るような真似はせず、壁沿いに身を低くして近づき、窓枠の脇で足を止める。
夜の窓は鏡のように室内の灯りを映すばかりで、俺の位置からは外の様子がほとんど見えなかった。
拘束を担当していた二人は、異形の左右へ分かれた。
一人が拘束具の状態を確かめ、もう一人は異形の手足から目を離さない。二人とも、リュシアの光刃の正面から外れるように立ち位置をずらしていた。
「こちらへ。窓から離れてください」
アイボは事情聴取を終えた女性たちを、俺たちのいる壁際へ誘導した。それから俺に片手を向け、座ったままでいるよう示す。
「怪我人は無理に動かなくていい。そのままでいてください」
エリゼは俺のそばから動かず、アイボが俺たちと窓の間に立った。
隊長自身は、その一歩前へ出る。
入口、窓、拘束された異形。
それぞれへ短く視線を巡らせた。
指示が飛んでから、まだ十秒も経っていない。
ペタ、ペタ。
湿った音は止まらない。
「隊長。窓側です」
窓枠の陰から、ライドが声を落とす。
「姿は?」
「見えません。ただ――一体じゃありません。音が重なっています」
隊長は自分で窓を確かめようとはせず、その場で短杖を構え直した。
「扉は開けるな。こちらから外へ出る必要もない。全員、持ち場を離れず侵入に備えろ」
再び、短い返事が重なった。
「ライド、外を探れ。数と位置を確認しろ」
「了解」
ライドは窓枠の陰に身を寄せたまま、短杖の先を窓へ向けた。
表面の溝を淡い光が走り、先端に豆粒ほどの光球が三つ生まれる。光球は閉じた窓をすり抜けると、俺の視界から消えた。
ライドの目が、何もない宙をゆっくりとなぞり始める。
光球を通して外を見ているのだろう。
「四体確認。屋根に二、東側の壁に一、裏手に一。どれも、こちらの窓からは死角になる位置に張りついています」
「動きは?」
「ありません。窓や出入口へ寄る様子もなし。こちらを窺っています」
「拘束対象は?」
隊長の問いに、異形のそばにいた隊員が答えた。
「変化ありません。拘束具も正常です」
隊長は短杖を構えたまま、入口、窓、拘束された異形の順に視線を巡らせる。
「副隊長は正面を継続。ライドは外の監視だ。数か位置が変わったら即座に報告しろ」
「了解」
「拘束班は、そいつにわずかでも動きがあれば知らせろ。アイボ、応援を要請しろ。終わり次第、民間人の護衛に戻れ」
「了解しました」
アイボが俺たちの脇を抜け、さらに奥の部屋へ向かう。空いた場所へ、隊長が一歩下がってきた。
「相手の目的も能力も分からん。数だけで優勢とは考えるな。こちらからは仕掛けず、侵入してきた個体だけを確実に止める」
異を唱える者はいなかった。
副隊長が扉脇で腰を落とし、拘束担当の二人が異形との距離をわずかに広げる。ライドは中空を見つめたまま、外の監視を続けていた。
短杖を構える腕も、異形へ向けられた光刃も、微動だにしない。
しばらく待っても、ライドから新たな報告はなかった。
「……動きました」
その一言に、俺は思わず息を詰めた。
「屋根の二体が正面へ移動。壁の一体も窓へ近づいてきます」
副隊長が短杖を握り直す。
拘束された異形を監視する二人もわずかに腰を落とし、リュシアの周囲に浮かぶ短剣が静かに向きを変えた。
「全員、そのまま待て。合図するまで動くな」
隊長の低い声が飛ぶ。
外の音が近づいてくる。
ペタ、ペタ、ペタ、と。
湿った足音が壁の向こうを這い上がり、頭上を横切った。
このまま窓か扉を破って入ってくる。
俺には、そうとしか思えなかった。
「……止まりました」
ライドの声に戸惑いが混じる。
「何があった」
「屋根の一体が、こちらとは別の方向を見ています。北側――大通りの方です」
何かを見つけたのだろうか。
ライドは報告を続けず、中空の一点を目で追っている。
ほんの数秒の沈黙。
次の瞬間、ライドの声が跳ね上がった。
「散開! いえ、違う――逃げます!」
外で何が起きているのか、俺には見えない。
ただ、頭上にあった足音が左右に分かれ、壁の向こうにあった音も急速に遠ざかっていく。
「屋根の二体は別々の建物へ。壁の一体は路地へ降りました。裏手の一体も反対方向へ離脱!」
「追うな!」
隊長が即座に命じた。
「ライド、行き先だけ確認しろ。他は持ち場を維持。陽動の可能性がある」
「了解。四体とも別方向へ離脱中です。こちらへ戻る動きはありません」
それでも、誰も構えを解かなかった。
やがて、あの不快な足音が完全に聞こえなくなる。
「……四体とも索敵範囲外へ出ました。これ以上は追えません」
「分かった。光球を戻せ。引き続き周囲を警戒」
「了解」
代わりに遠くから、石畳を蹴る規則正しい足音が近づいてきた。




