10
10
入学式の日、私は上履きを持ってくるのを忘れた。下駄箱の前で泣きそうにたたずんでいた私に声を掛けてくれた男の子が居た。
「どうしたの?」
「上履きを忘れちゃって…」
「なんだ、じゃあ、これを履けばいいよ。ちょっと大きいかもしれないけど」
彼はそう言って真新しい自分の上履きをポンと私の前に置くとそのまま裸足で駆けて行った。
入学式が終わって私は彼を探した。けれど、見付けることが出来なかった。いつか返さなければ。そう思って毎日彼の上履きをカバンの中に入れていた。
二年生になって彼と同じクラスになった。けれど、なかなか話をする機会がなかった。ある日、体育の水泳の授業の時。生理用品が入った袋を私は教室に忘れてきた。授業が終わって着替えるときに気が付いて教室へ取りに行った。たまたま授業を休んでいた彼が一人教室に居た。私は思い切って彼に声を掛けた。
「私の机のところにあれが入った袋があるから取ってくれない?」
「あれって?」
鈍感! そんなの言えるわけがないのに。
「いいから早く取って!」
彼はすぐに持ってきてくれた。持ってきてくれた彼が私を見ている。自分が水着姿だと気づくと、急に恥ずかしくなった。
「エッチ!」
思わず心にもないことを言ってしまった。
「ごめん……」
彼の顔が赤くなっていた。彼もきっと恥ずかしかったのに違いない。私は慌ててお礼を言おうと思ったのだけれど、素直に言うことは出来なかった。
「バカね、別に謝らなくてもいいのに。ありがとう」
恥ずかしくて、恥ずかしくてその場から逃げるように走り出した。バカ! バカ! 私のバカ!
二学期になって席替えがあった。
「彼の隣になれますように!」
ずっとそう願っていた。
「願いをかなえてくれたらもう何も贅沢は言いません。だからお願い、神様!」
先にくじを引いた私は自分の席でドキドキしながら待った。後からくじを引いた彼が番号を確かめながら近づいてくる。
「神様お願い!」
彼が座ったのは私の隣だった。願いがかなった。今度こそ彼にちゃんと挨拶しなきゃ……。
「よろしくね。森田君。水着じゃない私の事もちゃんと見てね」
何を言ってる、私! 彼がドン引きしてる! やっちゃった……。
それからというもの、私はなんとか彼に気に入られようと必死だった。ありがたいことに隣の席だから班行動はいつも一緒だった。修学旅行も文化祭も。修学旅行ではずっと彼の隣に座った。彼はおとなしい性格だったけれど、彼のことが好きな女子は結構多かったから大変だった。
文化祭ではおとなしい彼にみんなが仕事を押し付けた。だから、私が手伝ってあげようと思ったんだけど、残念ながら私が手を出せる仕事はなかった。でも、一緒に居られるだけで私は幸せだった。作業が終わった日、もうこれで一緒に居られる時間が無くなると思ったら急に何か記念になるものを残したいと思った。だから途中で教室に引き返してこっそり落書きをした。それは私にとっては一世一代のラブレターだった。それはずっと使いまわしで使われている大道具のパネル。来年になったらまた違う絵が上塗りされる。だから、縁の狭いところに書いた。
“森田君が好き”
それから急いで彼に追いつくと、彼は心配して聞いてくれた。
「忘れ物は見つかった?」
「うん。でも置いてきちゃった」
「えっ? どうして?」
どうしてって、あんなの持ってこられないよ。
「森田君に見つけて貰おうと思って」
彼が卒業するまでに見つけてくれたら彼と付き合おう。大丈夫。きっと見つけてくれる。そう信じていた。
バレンタインデー。私は彼のために手作りチョコを用意した。ところが、当日、別のクラスの親友がチョコを忘れたと言って泣きついてきた。私は仕方なく自分のチョコを親友に渡した。それがいつの間にか私が親友の彼にチョコを渡したようになっちゃって……。それ以来、彼が笑わなくなった。私は必死に彼の気を引こうと試みたのだけれど、彼に笑顔が戻ってくることはなかった。
三年になって彼とは別々のクラスになった。このまま彼の笑顔が見られないまま卒業するのは耐えられないと思った。それでも月日はあっという間に流れて行った。
卒業式の日、私は彼に会いに行った。私の忘れ物を取りに……。けれど、彼は私の忘れ物を見つけてはくれなかった。悲しかった。悲しくて、悲しくて何日も涙が止まらなかった。
もう二度と彼に会うことはないのだろう……。神様は私を見捨てた……。いや、違う! 神様はちゃんと約束を守ってくれたんだ。
『願いをかなえてくれたらもう何も贅沢は言いません……』あの時、私はそうお願いした。席替えの時、願いがかなった。だから、それ以上のことは我慢しなさいってことなんだ。
思いがけず彼と再会した。そして、仕事上とは言え彼とお付き合いすることになった。これはきっと今まで我慢してきたことへの神様からのご褒美なのかしら。
「これを見て」
彼にそう言われて我に返る。彼が示したスマートフォンに写しだされていたのはあの日の忘れ物。
「やっと見つけた。まだ大丈夫かな?」
大丈夫……。大丈夫。大丈夫!
「これでお芝居は終りね」
晴海社長がにっこり笑った。
「はい!」
私はメイクを落としてかつらを取った。
「では、本日付けで高橋デザイン事務所への出向を解く。いいわね。筒井香織さん。さあ、最後のご挨拶に行ってらっしゃい」
私は筒井香織として最後の挨拶をするために彼が勤める会社へ出向く。彼がどんな顔をするのかとても楽しみだわ……。