第2話 最初に奪うもの
2話連続投稿です。更新は不定期になります。
翌朝。
ヴィオレッタが学園の正門を通ると、周囲の生徒たちが一斉に声を潜めた。
昨日の昼食時に起きた出来事は、階段での騒動以上の速さで広まっている。
王太子の婚約者であるヴィオレッタが、本人の前で愛していないと言い放った。
王家と公爵家の婚約を、領地、財力、軍事力を得るための取引だと言い切った。
内容はおおむね事実だった。
ただし噂の中では、ヴィオレッタは王太子を見下し、王家を公爵家の力で乗っ取ろうと企んでいることになっている。
人間は事実そのものより、理解しやすい物語を好む。
冷酷な公爵令嬢。その彼女に傷つけられた王太子。
その心を慰める、平民出身の清らかな聖女。
役者は揃っていた。
あとは望まれる役を演じるだけで、物語は勝手に進んでいく。
「ヴィオレッタ様」
馬車を降りたヴィオレッタのもとへ、セシリアが駆け寄ってきた。
普段と変わらず整えられた制服に、丁寧に結われた黒髪。しかし目の下には、薄く疲労の跡が残っている。
「おはよう、セシリア」
「おはようございます」
セシリアは周囲を睨むように見回した。
視線を向けられた生徒たちが、慌てて顔を背ける。
「昨夜から、随分と勝手な噂が流れております」
「そうね」
「このまま放置なさるおつもりですか?」
「何か問題があるの?」
「問題しかございません」
セシリアは声を抑えながらも、怒りを隠そうとはしなかった。
「殿下を愛していないという部分だけが切り取られ、ヴィオレッタ様が王家を軽視しているかのように言われています」
「実際、殿下個人の感情は重視していないわ」
「ですが、それを認めてしまえば」
「セシリア」
ヴィオレッタは足を止めた。
「噂を否定するために、私は殿下を愛していると嘘をつくべきかしら」
「それは……」
「一度ついた嘘は、その後も維持しなければならない。必要のない嘘は、管理すべき情報を増やすだけよ」
セシリアは黙り込んだ。納得はしていない。
それでもヴィオレッタの判断に従うつもりなのだろう。
「それに、噂を広めている者は既に把握しているわ」
「どなたですか?」
「大半は、自分が聞いた話を面白がって広めているだけ。最初に流した者を特定するには、もう少し時間が必要ね」
「私が調べます」
セシリアは即座に答えた。
「今日中に、最初の発信源を突き止めてみせます」
「そう。任せるわ」
ヴィオレッタが微笑む。
それだけで、セシリアの表情から僅かに緊張が消えた。
役割を与えられること。必要とされていると確認すること。
それが彼女にとって最も効果的な報酬だった。
「お二人とも、おはようございます」
背後から明るい声が聞こえた。
振り返ると、ミリアが立っていた。白い制服に包まれた小柄な身体。
「おはようございます、ミリア様」
ヴィオレッタは微笑んだ。
セシリアは一拍遅れて頭を下げた。
「おはようございます」
その声は硬い。
ミリアは気づいていないように笑う。
「昨日はありがとうございました。おかげで講義にも迷わず参加できました」
「それは何よりです」
「ヴィオレッタ様は、本当にお優しいのですね」
周囲の生徒たちが聞き耳を立てている。
昨日、王太子に冷酷な言葉を浴びせた令嬢を、その場に居合わせた聖女が褒めている。
ミリアの言葉によって、ヴィオレッタへの非難は一時的に弱まった。
偶然ではない。ミリアはヴィオレッタを庇ったのではない。
王太子の側に立ちながらも、敵意を見せず相手を認められる、寛容で善良な聖女。
そう周囲に印象づけただけだ。
「聖女様」
セシリアが口を開いた。
「ヴィオレッタ様のお時間を、あまり奪わないでいただけますか」
「セシリア」
ヴィオレッタが名前を呼ぶと、セシリアは僅かに肩を震わせた。
「申し訳ありません」
「私は怒っていないわ。ただ、ミリア様はまだ学園に慣れていない。冷たくする必要はないでしょう」
「承知いたしました」
セシリアは頭を下げた。
ミリアは二人のやり取りを、興味深そうに見つめていた。
「セシリア様とヴィオレッタ様は、とても仲が良いのですね」
「幼い頃からのお付き合いです」
セシリアが答える。その声には、僅かな誇らしさが含まれていた。
「七歳の頃から、ずっとヴィオレッタ様のお側におります」
「すごい」
ミリアは目を輝かせた。
「では、セシリア様はヴィオレッタ様の一番のお友達なのですね」
セシリアの表情が柔らかくなる。
しかし、ヴィオレッタは何も答えなかった。
ミリアの視線がヴィオレッタへ移る。
「違うのですか?」
「セシリアは、私が最も信頼している人間の一人よ」
「お友達ではなく?」
「名称に意味があるのかしら」
ヴィオレッタは問い返した。
「信頼できる人間であることの方が、友人と呼ぶことより重要でしょう」
「そうですね」
ミリアは納得したように頷いた。
その横で、セシリアが僅かに視線を落とした。ほんの一瞬。注意して見ていなければ気づかないほどの変化だった。
だがミリアは見逃さない。
ヴィオレッタもまた、見逃さなかった。
◇
午前の講義は、領地経営学だった。
学園の生徒たちが複数の班に分かれ、架空の領地における問題を解決する。
今回与えられた課題は、洪水に見舞われた領地への食糧支援だった。
限られた予算。破壊された街道。不足する馬車。価格を釣り上げる商人。
領民を救いながら、領主の財政を破綻させてはならない。貴族としての実務能力を測るための授業である。
「それでは、班を発表する」
講師が生徒たちの名前を読み上げる。
ヴィオレッタとセシリアは別の班に分けられた。
ヴィオレッタの班には王太子。
セシリアの班にはミリアが入っている。
王太子が露骨に不満そうな顔をした。
昨日の一件以来、ヴィオレッタとは一言も交わしていない。それでも同じ班になること自体は拒絶しない。
婚約者に対する怒りと、彼女の能力を利用したい気持ちは、彼の中で矛盾なく共存している。
人間は、自分の都合に合わせて感情を使い分ける。
「まず被害状況を確認しましょう」
ヴィオレッタは配布された資料を広げた。
「北部の街道は使用不能。西側の橋も崩落しています。南から運ぶしかありません」
「だが南部の商人は、既に小麦の価格を倍にしている」
王太子が答える。
「王命で価格を下げさせればいい」
「拒否されます」
「王命だぞ」
「商人に命令はできますが、小麦を生産することはできません。安値を強制すれば、彼らは在庫を隠します」
「では、どうする」
「価格は維持します。その代わり、輸送費を王家が負担するという名目で商人へ支払い、後から臨時税として回収します」
「同じ金を動かしているだけではないか」
「ええ。ですが商人には利益を得たという実績が残り、領民には王家が救済したという印象が残ります」
王太子は黙った。自分が思いついた案ではない。それでも最終的には、自分の名で提出されることを理解している。
ヴィオレッタは正面を向いたまま、隣の班へ意識を向けた。ミリアは資料を読み込まず、セシリアの手元ばかりを見ている。
「ミリア様」
セシリアが声をかけた。
「孤児院で、洪水や飢饉を経験したことはありますか?」
「小さな洪水なら、何度か」
「その時、何が最も不足しました?」
「食べ物です」
「食料の種類を伺っています。穀物、肉、保存食など」
ミリアは困ったように笑った。
「ごめんなさい。そこまでは覚えていなくて」
「でしたら、被災者の経験については資料を参考にしましょう」
セシリアは淡々と作業を進める。
他の生徒が出した意見を分類し、使えるものだけを選び、計算を修正する。
ミリアにはほとんど仕事を与えていない。
彼女が平民だからではない。能力が分からない者に重要な作業を任せないだけだ。
ヴィオレッタと同じ考え方。
長い時間を共にするうちに、セシリアはヴィオレッタの判断基準を身につけていた。
「セシリア様は、すごいですね」
ミリアが言った。
「計算も速くて、みなさんをまとめるのもお上手で」
「これくらいは、貴族として当然です」
「私には難しくて」
「学べば身につきます」
「ヴィオレッタ様も、セシリア様のことを頼りにしているのでしょうね」
セシリアの手が止まる。
「それは今の課題と関係ありません」
「ごめんなさい」
ミリアは俯いた。
数秒後、セシリアは溜息をつく。
「ただ、ヴィオレッタ様から多くの仕事を任せていただいているのは事実です」
「一番信頼されているから?」
「おそらく」
「いいな」
ミリアが小さく呟いた。
「私も、誰かに必要とされてみたいです」
セシリアは何も答えなかった。
だが、その後ミリアへ簡単な計算を任せた。ミリアは僅かに数字を間違えた。
セシリアが訂正すると、素直に礼を言う。
二度目は、正しく計算した。
三度目は、セシリアが途中まで処理した数値と同じ答えを、先に導き出した。
能力がないのではない。
最初から相手に教えさせるつもりだったのだ。
教える側と教わる側という関係を作れば、相手は自分に対して責任を感じる。
セシリアは短時間でミリアへの警戒心を弱めていった。ヴィオレッタはそれを止めなかった。
ミリアが何をしようとしているのか、確認する必要がある。危険を避け続ければ、相手の目的は見えない。
時には、手の届く場所へ餌を置く必要がある。
◇
昼休み。
セシリアは一人で資料室へ向かっていた。昨日から流れている噂の発信源を調べるためである。
学園内の噂には流れがある。使用人から始まるものもあれば教師から漏れるもの、特定の学年や派閥から広がるもの。
最初に噂を口にした生徒を順に遡れば、ある程度の出所は絞り込める。
「セシリア様」
廊下の角で、ミリアが待っていた。
「何かご用ですか?」
「朝のことを謝りたくて」
「朝?」
「お二人の関係に、余計なことを言ってしまいました」
「気にしておりません」
セシリアは通り過ぎようとするが、ミリアはその隣を歩き始めた。
「どちらへ行かれるのですか?」
「あなたには関係ありません」
「噂を調べているのでしょう?」
ミリアの言葉に、セシリアの足が止まった。
「なぜ、それを」
「今朝、今日中に調べるとおっしゃっていました」
ミリアは微笑んだ。
「私もお手伝いします」
「必要ありません」
「でも、私が原因です」
「あなたが噂を流したのですか?」
「違います」
ミリアは首を横に振る。
「けれど、私が殿下に近づかなければ、ヴィオレッタ様が悪く言われることもなかったでしょう?」
自分を責めているように見える。だが、実際には責任を認めていない。
ミリアが言っているのは、自分の存在が周囲を動かしたという事実だけだ。
「でしたら、殿下から距離を置いてください。それで噂は収まります」
セシリアが言った。
「殿下が、私を放っておいてくださらないのです」
「拒絶すればよろしいでしょう」
「王太子殿下のお誘いを、平民の私が断ってもよいのですか?」
セシリアは言葉に詰まる。
形式上、断ることはできる。だが王太子に恥をかかせれば、ミリアの立場は悪くなる。
「ヴィオレッタ様なら、どうなさるのでしょう」
ミリアが尋ねた。
「必要のない誘いなら断られます」
「相手が殿下でも?」
「ヴィオレッタ様は、必要だと判断したことをなさいます」
「必要かどうか」
ミリアが繰り返す。
「本当に、それだけなのですね」
「何が言いたいのですか」
「セシリア様のことも、必要だから側に置いているのでしょうか」
セシリアの目が細くなる。
「当然でしょう」
「では、必要ではなくなったら?」
「そのような仮定に意味はありません」
「そうですか?」
ミリアは足を止めた。
廊下の窓から差し込む光が、ミリアの白い制服を照らしている。
「ヴィオレッタ様の周りには、優秀な人がたくさんいます」
「それが何です」
「セシリア様より優秀な方が現れたら、ヴィオレッタ様はその方を選ぶのでしょうか」
「くだらない質問です」
「でも、気になりませんか?」
「なりません」
セシリアは即答した。早すぎる答えだった。
ミリアは微笑む。
「そうですよね。七歳の頃からのお友達ですもの」
その言葉を残し、ミリアは別の廊下へ曲がっていった。
セシリアは一人、その場に立っていた。
◇
午後。
学園内に新たな噂が広まった。今度の中心は、ヴィオレッタではない。
セシリア・ベルン。
彼女の父であるベルン侯爵が、昨年の洪水被害に対する救援物資を横流ししていたという話だった。
ベルン侯爵家は、王国東部を流れる大河の水運を管理している。
昨年、上流域で洪水が発生した際には、王都から送られた大量の穀物を被災地へ運んだ。
その一部が帳簿から消えている。
消えた穀物と同じ量が、数週間後に隣国の市場で販売されていた。証拠として、複写された帳簿が学園の掲示板へ貼り出されていた。
生徒たちが集まり、声を潜めて話している。
「本物なのか?」
「王家の印がある」
「ベルン侯爵家が救援物資を売ったということ?」
「人が飢えている時に?」
「セシリア様も知っていたのではないかしら」
噂は、事実より速く罪人を作る。セシリアが掲示板へ駆けつけた時には、誰も彼女の近くに立とうとしなかった。
「退きなさい」
セシリアが声を上げると生徒たちが道を開ける。
彼女は掲示板に貼られた紙を剥がした。
王家の輸送記録に、港の荷受け記録、隣国での取引証明まで。複写ではあるが、数字は精巧に揃えられている。
「偽物です」
セシリアは言ったが声が僅かに震えている。
記録そのものを見たことがあるのだろう。
完全な偽物ではないと、彼女自身が気づいている。
「誰がこのようなものを」
「セシリア」
ヴィオレッタが人垣の外から呼びかけると、生徒たちが左右へ退く。
「ヴィオレッタ様」
セシリアは救いを求めるように顔を上げた。
ヴィオレッタは彼女の手にある紙を見る。
数字。印章。日付。
どれも、以前ハロルドから受けた報告と一致している。
ベルン侯爵家が救援物資を横流ししたわけではない。
侯爵家の水運を管理している家令が、余剰分として処理された穀物を商人へ売却していた。
しかし帳簿にはベルン侯爵自身の署名がある。内容を確認せずに署名したとしても、責任を免れることはできない。
「ヴィオレッタ様、これは」
「まず王家へ提出しましょう」
ヴィオレッタは淡々と答えた。
セシリアの顔から血の気が引く。
「お待ちください」
「何を?」
「このような出所も分からない資料を、王家へ提出するおつもりですか?」
「真偽を確認するためよ」
「偽物です」
「ならば、調査されても問題はないでしょう」
周囲の生徒たちが息を呑む。
セシリアはヴィオレッタを見つめた。友人なら、信じると言ってくれる。
少なくともセシリアは、そう期待していた。
「ヴィオレッタ様は」
声が掠れる。
「父が、そのようなことをしたとお考えなのですか」
「私の考えは関係ないわ」
「関係なくなど」
「必要なのは事実よ」
ヴィオレッタは紙を受け取った。
「あなたが騒げば、証拠を隠そうとしていると受け取られる。今日は帰りなさい」
「ですが」
「セシリア」
拒絶を許さない冷たい声だった。
セシリアは唇を噛んだ。
「承知いたしました」
頭を下げ、人垣を抜けていく。
誰も彼女へ声をかけない。その後ろ姿を、ミリアが静かに見つめていた。
ヴィオレッタはミリアへ視線を向ける。
ミリアは驚いたように目を見開き、困惑した表情を作った。
掲示板へ紙を貼ったのがミリアだという証拠はない。しかし、彼女は昨年の洪水について午前中の講義で知った。
ベルン侯爵家が水運を管理していることは、学園の資料室で調べられる。
教会は救援活動に参加していた。聖女という立場を使えば、当時の記録へ接触することも不可能ではない。
全てを今日一日で調べたとは考えにくい。つまり、事前にベルン侯爵家の情報を得ていた。
標的を選んだのは昨日。準備を始めたのは、それ以前。
ミリアは入学前から、ヴィオレッタの周囲にいる人間を調べていたことになる。
ーー予想していたより速い。
ヴィオレッタは口元を僅かに緩めた。
◇
放課後。
セシリアは一人で学園の庭園にいた。馬車へ戻る気にはなれなかった。
ベルン侯爵家の紋章が刻まれた鞄を抱え、石造りの長椅子に座っている。
父へ確認したい。
だが何と聞けばよいのか分からない。
救援物資を売ったのか。人々が飢えている時に、利益を得たのか。自分に隠していたのか。
それ以上に、ヴィオレッタの反応が頭から離れなかった。
調査されても問題はない。必要なのは事実なのだと。
何一つ間違っていない。
しかし、セシリアが求めていたのは正しさではなかった。
「セシリア様」
声をかけられ、顔を上げるとミリアが立っていた。
「何のご用ですか」
「心配で」
「不要です」
「隣に座ってもよろしいですか?」
「お好きに」
ミリアは少し距離を空けて座った。
すぐには話しかけず、慰めもしない。ただ、セシリアと同じように庭を眺めている。
沈黙に耐えられなくなったのは、セシリアの方だった。
「あなたは、私の父が罪を犯したと思いますか」
「分かりません」
「聖教会も救援活動に参加していたのでしょう」
「私は当時、まだ聖女ではありませんでした」
「…そうでしたね」
再び沈黙が落ちる。
「ヴィオレッタ様は…正しい方ですね」
ミリアが言った。
セシリアの指が鞄を強く握る。
「当然です」
「お友達のお父様でも、疑いがあれば調べる」
「貴族として正しい判断です」
「セシリア様も、そうしてほしかったのですか?」
「何が言いたいのです」
「ヴィオレッタ様に、信じてほしかったのではありませんか」
セシリアは答えなかった。
「…ごめんなさい」
ミリアは俯く。
「私、また余計なことを」
「あなたには分からないでしょう。ヴィオレッタ様は、感情で判断する方ではありません」
セシリアが低い声で言った。
「はい」
「私を信じていないわけではない」
「はい」
「公の場で私を庇えば、アルディーン公爵家まで疑われる。それを避けただけです」
「きっと、そうだと思います」
ミリアは全てを肯定し、反論しない。
だからこそ、セシリア自身の言葉が空虚に聞こえる。
「でも」
ミリアは小さく続けた。
「ヴィオレッタ様は、セシリア様より公爵家を選んだのですね」
「当たり前です」
「セシリア様も、同じことができますか?」
セシリアはミリアを睨んだ。
「…ヴィオレッタ様を困らせるくらいなら、私は自分の家を切り捨てます」
「すごい…!」
ミリアの目が輝く。
「セシリア様は、ヴィオレッタ様のためなら何でも捨てられるのですね」
「ええ」
「では、ヴィオレッタ様はセシリア様のために、何を捨ててくださるのでしょう?」
ーーセシリアの呼吸が止まる。
ミリアは立ち上がった。
「失礼いたします」
「待ちなさい」
セシリアが呼び止める。
「掲示板の資料」
ミリアの足が止まる。
「あなたが貼ったのですか?」
振り返ったミリアは、悲しそうな顔をしていた。
「どうして、そう思うのですか?」
「今日、洪水について学んだ。あなたは聖教会と関係がある。資料へ触れられる可能性がある」
「それだけで?」
「ヴィオレッタ様に近づくため、私を排除しようとしているのではありませんか」
ミリアは暫く黙っていた。
やがて、口元を僅かに持ち上げる。
ーー聖女の仮面が一瞬だけ消えた。
「排除なんて、していません」
甘い声だった。
「私はただ、確かめたかっただけです」
「何を」
「セシリア様がいなくなった時、ヴィオレッタ様がどんな顔をするのか」
セシリアが立ち上がり、平手を振り上げる。
しかし、その手がミリアの頬へ届く前に止まった。周囲には、まだ生徒が残っている。
公爵令嬢の側近である侯爵令嬢が、平民の聖女を殴る。それだけでどのような噂が流れるか、セシリアにも理解できた。
ミリアは逃げない。頬を差し出すように、一歩近づいた。
「叩かないのですか?」
「あなたは」
セシリアの声が震える。
「何を考えているの」
「セシリア様と仲良くなりたいのです」
「ふざけないで」
「本当です」
ミリアは微笑んだ。
「だって、あなたを奪えば、ヴィオレッタ様が少しくらい困ってくださるかもしれないでしょう?」
ーーセシリアの平手が振り下ろされる。
ミリアは動かなかった。
乾いた音が庭園に響く。白い頬に赤い跡が残る。
ミリアはゆっくりと顔を戻した。その瞳には怒りも悲しみもない。
あるのは喜びだった。
「やっと、怒ってくださいましたね」
セシリアは一歩後ずさった。目の前にいる少女が、自分とは全く異なるものだと理解した。
「セシリア」
庭園の入口から声が聞こえた。
ヴィオレッタが立っている。どこから見ていたのか。どこまで聞いていたのか。
その表情からは読み取れない。
「ヴィオレッタ様」
セシリアは青ざめた。
「これは」
「馬車へ戻りましょう」
「ですが、聖女様が」
「聞こえなかった?」
冷たい声。
セシリアは俯いた。
「申し訳ありません」
ミリアは頬を押さえながら、ヴィオレッタを見つめた。
「ヴィオレッタ様。セシリア様を叱らないでください」
「あなたが許すかどうかは関係ないわ」
「では、罰を与えるのですか?」
「必要なら」
ヴィオレッタはミリアの赤くなった頬へ視線を向ける。
「医務室へ行きなさい。聖女の顔に傷が残れば、余計な問題が増えるわ」
心配ではない、損失を避けるための言葉。それにミリアは嬉しそうに笑った。
「やっぱり、ヴィオレッタ様は素敵ですね」
◇
公爵家の馬車の中。ヴィオレッタとセシリアは向かい合って座っていた。
ヴィオレッタが話がしたいと誘ったのだ。
車輪の音だけが、狭い車内に響いている。セシリアは俯いたまま口を開かない。
頬を打ったことを後悔しているのか。ミリアの言葉に動揺していることを恥じているのか。
あるいは、ヴィオレッタが何も説明しないことに傷ついているのか。
全てなのだろう。
「父君の件だけれど」
ヴィオレッタが口を開く。
セシリアが顔を上げる。
「救援物資を売ったのは、ベルン侯爵ではないわ」
「では…」
「水運を管理している家令よ。侯爵家の印を使用し、余剰として処理した穀物を隣国へ売却した」
セシリアの顔に安堵が浮かぶ。
だが、ヴィオレッタは続けた。
「ただし、帳簿には父君の署名がある」
「父は内容を知らずに署名しただけです!」
「確認せずに署名したなら、それも責任よ」
「それは…」
「救援物資の横流しは重罪。王家が本格的に調査すれば、侯爵位の返上だけでは済まない可能性がある」
セシリアの指が震えた。
「…家族は」
「父君は投獄。領地は没収。母君と弟君は、平民として追放されるでしょうね」
「そんな!」
「最悪の場合は、家令と共に処刑される」
セシリアは息を呑んだ。
「…助けてください」
考えるより先に、言葉が出ていた。
「ヴィオレッタ様。どうか、父を」
「なぜ?」
セシリアは答えられない。
ヴィオレッタは窓の外を眺めた。
「ベルン侯爵家を救うには、相応の損失を受け入れる必要があるわ」
「何でもいたします」
「東部の水運権を、アルディーン公爵家へ譲渡してもらう」
セシリアの顔が強張る。
水運権はベルン侯爵家の収入の大半を占めている。それを失えば、家名は残せたとしても、権力の大部分を失う。
「家令が独断で行ったことを示す証拠はこちらで用意する。父君の責任は監督不行き届きに留め、罰金と水運権の返上で決着させるわ」
「王家へ返上させた後、その水運権をアルディーン公爵家に与えさせるおつもりなのですね」
「ええ。東部の輸送を立て直すには、新たな管理者が必要だもの」
「それが、アルディーン公爵家である必要がございますか」
「私がベルン侯爵家を救うのよ。ほかの家に利益を渡す理由があるのかしら」
「……いつから、ご存じだったのですか」
「三か月前」
セシリアの表情が止まる。
「三か月」
「商人の動きから不自然な点には気づいていたわ。証拠が不足していたから、静観していた」
「なぜ、私に教えてくださらなかったのですか」
「あなたに話せば、父君へ伝えたでしょう」
「当然です」
「家令が証拠を処分する可能性があった」
「それでも」
「あなたが動揺すれば、ミリアにも悟られる」
セシリアの瞳に涙が浮かぶ。
「では、私は最初から何も知らされず、利用されていたのですか」
「ええ」
ヴィオレッタは否定しなかった。
セシリアが唇を噛む。
「私は……」
声が震えている。
「私は、ヴィオレッタ様にとって何なのですか」
「最も信頼できる部下よ」
「友人ではないのですか」
「友人という言葉を使えば、あなたは満足するの?」
「……そういうことでは」
「ならば、何を求めているのか明確にして」
ヴィオレッタの声には、苛立ちも同情もない。
セシリアの感情を、解決すべき問題として扱っている。
「私は七歳の頃から、あなたのお側にいました」
「知っているわ」
「あなたのためなら、何でもしてきました」
「その働きは高く評価している」
「評価ではなく……!」
セシリアの目から涙が落ちる。
「私を大切だと、そう言ってほしいのです……」
「大切よ」
ヴィオレッタは即答した。
セシリアが顔を上げる。
「あなたほど優秀な人間を育てるには、少なくとも十年はかかる。失えば大きな損失になる」
セシリアの表情が崩れる。
期待していた言葉とは違うが、それでも嘘ではない。
「それだけですか」
「それ以上が必要?」
「私は、ヴィオレッタ様のために家族さえ捨てられます」
「それはあなたが決めたことよ」
「ヴィオレッタ様は、私のために何かを捨てられますか」
ミリアと同じ問い。
セシリア自身が、口にしたくなかった言葉。ヴィオレッタは僅かに目を細めた。
「捨てる価値があると判断すれば」
「判断」
「ええ」
「感情ではなく?」
「感情で水運権は守れないわ」
ヴィオレッタはセシリアを真っ直ぐに見つめる。
「あなたには選択肢がある」
馬車が公爵邸の門を通る。
「私のもとを離れ、ベルン侯爵家と共に処分を受ける。あるいは、これまでどおり私に仕え、家族を生かす」
「それは、選択ではありません」
「いいえ、選択よ。どちらを選んでも、私は止めない」
ヴィオレッタは静かに答える。
馬車が止まり、扉が開かれた。
ヴィオレッタは先に降りる。
セシリアは動かない。
しかし、彼女が選ぶ答えは分かっていた。彼女は決して家族を見捨てることはできない。
ヴィオレッタを憎み、離れることもできない。
七歳から積み重ねた時間。
家同士の関係も、自分の地位も、将来も。
全てがヴィオレッタと結びついている。
ーーセシリアには、他の生き方がない。
ヴィオレッタが公爵邸の階段へ向かおうとした時、背後で馬車から降りる音がした。
「お待ちください」
セシリアの声にヴィオレッタは振り返る。
セシリアは地面へ膝をついた。
侯爵令嬢が、人目のある場所で跪いている。
公爵家の使用人たちは誰も驚かない。ヴィオレッタの命令がない限り、見なかったことにするよう教育されている。
「ベルン侯爵家を、お救いください」
セシリアは頭を下げる。
「水運権を差し出します」
「あなたの所有物ではないわ」
「父を説得します。拒絶するなら、私が侯爵家の不正を証言します」
家族を守るために、父を脅す。ヴィオレッタのために、家の権力を差し出す。セシリアは自分の意思で、その道を選んだ。
「代わりに」
震える声で続ける。
「これからも、あなたのお側に置いてください」
ヴィオレッタは跪くセシリアを見下ろした。
「顔を上げて」
セシリアが従う。
涙で濡れた目に、恐れと執着が混じっている。
「あなたが有能である限り、手放すつもりはないわ」
愛しているとも、友人だとも言わない。
それでもセシリアは安堵した。
「ありがとうございます……」
ヴィオレッタが差し出した手を取り立ち上がる、その瞬間。
セシリアは以前より深く、ヴィオレッタに従属した。
忠誠心だけではない。家族の命、実家の存続、自分の将来。
全てがヴィオレッタに握られている。
人は愛情を裏切ることができる。忠誠を捨てることもできる。
だが、生存に必要な相手から離れることは難しい。
ヴィオレッタは、セシリアの手を離した。
「明日からも、これまでどおりに」
「はい」
「ミリアには何も言わないで」
セシリアの表情が強張る。
「聖女様が資料を掲示したのですか」
「可能性は高いわ」
「ならば、なぜ処罰しないのです」
「証拠がない」
「証拠なら、私が」
「必要ないわ」
ヴィオレッタは公爵邸へ歩き始める。
「彼女が次に何をするのか見たいの」
セシリアは、その背中を見つめた。
ヴィオレッタがミリアを危険視していないわけではない。危険だと理解したうえで、近くに置こうとしている。
それは勇気でも自信でもない。
自分が敗北する可能性を、最初から計算に入れていない者の判断だった。
◇
翌日。
ミリアは教室に入ってきたセシリアを見て、僅かに目を見開いた。
セシリアは昨日と変わらず姿勢も表情も整ったままヴィオレッタの隣に座っている。
父親の疑惑について、生徒たちが遠巻きに見ている。しかし本人に動揺はない。
「おはようございます、セシリア様」
ミリアが近づく。
「昨日は、大丈夫でしたか?」
「ご心配には及びません」
「ヴィオレッタ様とは、お話しできたのですか?」
「ええ」
セシリアは微笑んだ。
「全て、解決いたしました」
ミリアの目が細くなる。
「そうですか」
「それと、昨日は失礼いたしました」
「頬のことですか?」
「はい」
「気にしていません。私が余計なことを言ったのですから」
「そうですね」
セシリアは肯定した。
以前なら、聖女に対して無礼な言葉を使ったことを気にしただろう。
今は違う。
ヴィオレッタから、ミリアに何も知らせるなと命じられている。
ならば、それ以外のことを考える必要はない。
ミリアはセシリアの顔を観察した。目の周りは僅かに腫れている。昨夜、泣いた痕跡。
それでもヴィオレッタの隣にいる。
離れるどころか、以前より強く結びついているように見える。
「ヴィオレッタ様」
ミリアが呼びかける。
「何でしょう」
「セシリア様は、大切なお友達なのですね」
ヴィオレッタは隣に座るセシリアを見た。
「ええ」
昨日とは異なる返答。
セシリアの表情が僅かに動く。
ミリアは微笑んだ。
「よかった。私、心配していたのです」
しかし、その瞳は笑っていない。
「何を?」
「セシリア様が、ヴィオレッタ様から離れてしまうのではないかと」
「彼女は離れないわ」
「どうして分かるのですか?」
ヴィオレッタは答えなかった。
代わりにセシリアが口を開く。
「私が、そう決めたからです」
明確な声だった。
ミリアは二人を見比べる。
何かがあった。ヴィオレッタはセシリアを慰めたのではなく、友情を示したわけでもない。
それにもかかわらず、セシリアは戻ってきた。
むしろ、以前よりも強くヴィオレッタへ執着している。ミリアには、その理由が分からない。
他人の大切なものを奪うには、相手との結びつきを切ればいい。
愛情を疑わせ、信頼を壊し、裏切られたと思わせる。
これまでは、それで十分だった。
だがヴィオレッタは違う。
彼女は愛情だけで人を繋ぎ止めていない。情が切れても離れられないように、相手の人生そのものを自分へ結びつけている。
ミリアは、初めて見る玩具を前にした子供のように目を輝かせた。
「ヴィオレッタ様は、すごいですね」
「何が?」
「人を飼うのがお上手です」
教室の空気が止まる。
セシリアが立ち上がりかけるが、ヴィオレッタが手で制した。
「ミリア様」
穏やかな声だった。
「飼われているのは、どちらかしら」
ミリアの笑みが僅かに止まる。
「どういう意味ですか?」
「あなたは私の反応が見たくて、昨日から随分と動いたようね」
「何のことでしょう」
「構わないわ。好きに続けなさい」
ヴィオレッタは頬杖をつくこともなく、正しい姿勢のままミリアを見つめる。
「あなたが何かを奪おうとするたびに、私はそれを利用する」
「利用?」
「昨日より今日の方が、セシリアは私から離れにくくなった」
ミリアはセシリアへ視線を向ける。
否定しない。
「あなたのおかげよ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
周囲から見れば、聖女へ感謝を述べているようにしか見えない。
「次は何を奪ってくれるのか、楽しみにしているわ」
ミリアは暫く黙っていたがやがて、ゆっくりと笑う。
「私も楽しみです」
二人の間で、セシリアだけが僅かに息を呑んだ。
ヴィオレッタもミリアも、昨日の出来事を失敗とは考えていない。
ミリアは、ヴィオレッタの所有物を奪おうとした。
ヴィオレッタは、その行為を利用して所有を強めた。
次も同じ結果になるとは限らないが、それでも二人は、やめるつもりがない。
「セシリア様では、足りなかったみたいですね」
ミリアが小さく呟く。
ヴィオレッタにだけ届く声。
「次は、もっと大切なものにします」
「期待しているわ」
講師が教室へ入ってくると、生徒たちは席へ戻った。講義が始まる。
教師がテキストを開き読み上げ始めると、生徒たちが一斉にノートを開き、書き取り始める。
その中でミリアは、ヴィオレッタを見つめていた。ヴィオレッタは前を向いたまま、視線に気づいている。
最初に奪おうとしたものは失敗した。
友人を壊せば、公爵令嬢も傷つくと思っていた。だが、ヴィオレッタは傷つかなかった。
壊れかけた友人を拾い上げ、以前より強い鎖を巻いただけだった。
ミリアは机の下で指を動かす。
一、二、三、四。
次に狙うものを数える。
王太子か家族か名誉か地位か。
どれなら、ヴィオレッタは怒るのか。
どれなら、あの正しい微笑を消せるのか。
ーー考えるだけで胸が高鳴る。
一方、ヴィオレッタもまた、頭の中でミリアの情報を更新していた。
目的は利益ではなく、感情的な反応そのもの。
予測不能ではない。
欲望が明確である限り、誘導は可能。
ヴィオレッタは結論を修正する。
ーー利用価値は、想定以上。
窓の外では、強い風が吹いていた。
学園の庭に咲く白薔薇の花弁が一枚、空へ舞い上がる。
花弁は風に運ばれ、黒い制服を纏うヴィオレッタの窓辺へ落ちた。
彼女はそれを指先で拾い上げる。
一度だけ眺めた後、何の感慨もなく握り潰した。
ミリアが欲しがるものを、守る必要はない。
奪わせればいい。
それを手にした瞬間。
奪ったものごと、彼女を捕らえればいいのだから。
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