第1話 聖女は黒薔薇を欲しがる
悪役令嬢もの大好きなので書きました。サイコパスvsサイコパスです。
少女が階段から落ちた。
白い制服の裾が翻り、細い身体が宙に投げ出されると、周囲から悲鳴が上がった。
王立アストリア学園の中央階段は、大理石で造られている。二階から落下すれば、運が良くても骨折は免れない。打ち所が悪ければ、平民の少女一人の人生など、そこで簡単に終わる。
だが、ヴィオレッタ・アルディーンは動かなかった。
助けられなかったのではない。助けなかった。
少女の落下地点まで七歩。自分の立ち位置から手摺りまでは三歩。駆け寄ったところで間に合う可能性は三割以下。無理に手を伸ばせば、自分も巻き込まれる。
王太子の婚約者である公爵令嬢が、平民一人を救うために負傷する。
ーー釣り合わない。
ヴィオレッタがそう結論づけた直後、淡い金色の光が少女の身体を包む。
落下の勢いが、不自然に消えた。
少女は羽毛のようにゆっくりと降下し、階段下に立っていた青年の腕へ収まった。
「大丈夫か!」
少女を抱き留めたのは、私の婚約者、レオンハルト王太子だった。
金髪に碧眼。長身で、均整の取れた体格。王国中の少女が夢見る物語の王子を、そのまま現実へ引きずり出したような美貌である。
その腕の中で、少女が怯えたように瞬きをした。
「わ、私……」
「怪我は?」
王子は心配そうな微笑みを少女に向ける
「ありません。殿下が、助けてくださったから……」
違う。
王太子が抱き留めるより先に、落下速度が減少していた。
おそらく少女自身が奇跡を使った。
ヴィオレッタは少女の指先を見る。右手の中指が、祈りの形に曲げられている。光が消えた今も、爪の隙間には微かな金色の粒子が残っていた。
周囲の生徒たちは、そこまで見ていない。
彼らが見ているのは、平民出身の可憐な聖女と、彼女を救った美しい王太子。
身分違いの男女が運命的に出会った瞬間。
それだけだった。
「殿下」
ヴィオレッタは、騒ぎの中心へ歩み寄った。
声をかけると、王太子がようやく彼女に気付く。
「ああ、ヴィオレッタ」
婚約者に向けるには、随分と平坦な声。
そして、腕の中の少女を下ろそうとせずしっかりと抱えていた。
「そちらの方にお怪我は?」
「ないようだ。だが念のため、医務室へ連れていく」
焦るような声で王太子は答える。
「賢明なご判断です」
ヴィオレッタは少女へ視線を移した。
年齢は十六前後。蜂蜜色の髪は肩のあたりで柔らかく波打ち、瞳は春の空を思わせる淡い青。小柄で華奢だが、栄養状態は悪くない。
白を基調とした制服は、平民向けに学園から支給される簡素な型だ。
だが袖口には、非常に細い銀糸で百合の刺繍が施されている。
聖教会の紋章。それを見て確信する。
「あなたが、本日から入学される聖女様ですね」
ヴィオレッタが微笑むと、少女は王太子の腕の中で身体を硬くした。
これは怯えた演技。
少なくとも、ヴィオレッタはそう感じた。
「は、はい。ミリア・ロゼと申します」
おどおどとした様子で聖女は答える。
「ヴィオレッタ・アルディーンです。学園生活で困ったことがあれば、遠慮なく相談してください」
「公爵令嬢様が、私なんかに……?」
甘えるような上目遣いを向けられる。
「身分にかかわらず、学園の生徒は互いに尊重されるべきです」
正しい言葉。
正しい微笑。
正しい姿勢。
周囲から、感嘆の息が漏れる。
さすが王太子妃となる方だ。
平民にも分け隔てなく接する慈悲深い令嬢。
そんな評価が、声にならずとも伝わってきた。
ヴィオレッタは、それを確認してからミリアへ手を差し出した。
「歓迎いたします、ミリア様」
ミリアは、おずおずとその手を取った。
指先が触れた瞬間、ミリアの口元がほんのわずかに歪んだ。
喜びでも、安堵でもない。獲物を見つけた者の笑みだった。
「ありがとうございます、ヴィオレッタ様」
その声だけは、どこまでも無垢だった。
◇
午前の講義が始まる頃には、階段で起きた出来事は学園中へ広まっていた。
聖女ミリアが転落し、王太子が救った。
王太子の婚約者であるヴィオレッタはその場にいたが、何もしなかった。
事実を並べれば間違ってはいない。しかし、事実は配置によって印象を変える。
「わざとお助けにならなかったのでは?」
「殿下が聖女様を抱き留めた時、怖い顔をしていたそうよ」
「婚約者ですもの。嫉妬なさるのも当然でしょう」
歴史学の講義室、後方の席からそんな囁き声が聞こえていた。
聞こえるように話しているのだろう。
ヴィオレッタは振り返らず、黒板に書かれた大陸統一戦争の年表をノートへ写した。
噂を止めるのは簡単だ。
階段付近には複数の生徒がいた。落下速度が不自然に弱まったことに気づいた者を探し、証言させればいい。王太子が救ったのではなく、聖女自身の力で助かったと示せる。
だが、その必要はない。
現時点での噂は軽微だ。
それを否定すれば、かえって注目を集める。
それに、公爵令嬢が平民の少女を助けなかったという話は、ヴィオレッタの評判を大きく損ねるほどではない。
貴族社会において、それは罪ではないからだ。
むしろ、王太子と聖女の関係が注目されれば都合がいい。レオンハルトの軽率さを記録する材料が増える。
ヴィオレッタは心の中でほくそ笑んだ。
「ヴィオレッタ様」
隣の席に座るセシリア・ベルンが、小声で呼びかけた。
黒髪を一つに結んだ侯爵令嬢で、ヴィオレッタとは七歳の頃から行動を共にしている。
「何かしら」
「あの噂を放置なさるのですか?」
「訂正する価値がないわ」
「ですが、聖女様が殿下を誘惑したのではないかと……」
ヴィオレッタはペンを止めた。
「セシリア」
「はい」
「王太子殿下は、誘惑された程度で婚約者を裏切る方なの?」
「それは……」
「違うでしょう?」
「もちろんです」
セシリアは即答した。
彼女は幼い頃から忠誠心の強い娘だった。
王家へではない、ヴィオレッタへ。
ヴィオレッタが王太子妃になる未来を信じているからこそ、その夫となるレオンハルトも信頼しようとしている。
美しい関係。善良な人間が見れば、そう思うだろう。
「ならば心配する必要はないわ」
「申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」
「あなたが私を案じてくれたことは分かっているわ」
ヴィオレッタは穏やかな声で言った。
セシリアの表情が明るくなる。
単純。彼女は欲しい言葉が明確なのだ。
人間は、自分が望む言葉を与えてくれる相手を信頼する。
セシリアは有能だった。
書類整理、社交界の情報収集、人間関係の把握。どれもヴィオレッタ自身が行うより効率がいい。
だから大切に扱っている。壊れれば、代わりを育てるのに時間がかかる。
「ところで、聖女様の席はどこかしら」
「前から二列目です。殿下のすぐ近くに……」
セシリアの声がわずかに尖った。
ヴィオレッタは視線だけを前方へ向けた。
ミリアは王太子の斜め後ろに座り、講師の話を熱心に聞いているように見える。
だが、ノートには一文字も書かれていない。
代わりに机の下で、右手の指を動かしている。
一定の順序で親指と他の指を触れ合わせる癖。
ーー数を数えている。
一、二、三、四。
間を置き再び、一、二、三、四。
不安を抑えるための動作か。それとも何かを待つための動作か。
ヴィオレッタが観察していると、ミリアが突然こちらを向いた。
視線が重なる。
ミリアは驚かなかった。
むしろ、見つめられていたことを喜ぶように微笑んだ。
その直後、前方で小さな音がなる。王太子の机から羽根ペンが落ちたのだ。
「あっ」
ミリアが素早く屈み、同じく拾おうとした王太子と額をぶつける。
二人が顔を見合わせた。
講義室に、微笑ましげな笑いが広がる。
「申し訳ありません、殿下」
ミリアは額を抑え申し訳無さそうな顔を王太子へ向けた。
「いや、私こそ」
王太子は照れたように笑う。
ーーヴィオレッタは理解した。
ミリアが数えていたのは、王太子がペンを持ち直す間隔だ。
あの席の机はわずかに傾いている。持ち直すたびに振動により、端へ置かれた予備のペンは、少しずつ転がる。
そして彼女は落ちる時刻を予測し、同時に手を伸ばした。
偶然に見せかけた接触。稚拙だが、効果的だった。
ヴィオレッタは目を細めた。
「面白いわね」
ヴィオレッタは同類の出現に喜びを隠せなかった。
◇
昼食時、ヴィオレッタは王太子から同席を求められた。
学園の中庭に設けられた貴族専用の食事席。
白いテーブルクロスの上には、銀の食器と季節の花が整然と並べられている。
王太子の右側にヴィオレッタ。
左側にミリア。
通常ならあり得ない席順だった。
平民であるミリアは、貴族専用席へ座る資格を持たない。
だが王太子の招待であれば、誰も拒絶できない。
「ミリアはまだ学園に慣れていない」
王太子は、そう説明した。
わずか数時間で呼び捨てになっている。
「ヴィオレッタ。君が色々と教えてやってくれ」
「承知いたしました」
ヴィオレッタは即答した。
王太子は少し拍子抜けしたような顔をした。
反対されると思っていたらしい。
ヴィオレッタが何かを拒めば、王太子は自分の権威を試すために強行する。
素直に受け入れれば、興味を失う。
婚約して九年経っている。扱い方は理解していた。
「ミリア様。苦手な食べ物はございますか?」
「いいえ。孤児院では、食べられるだけで幸せでしたから」
ミリアは健気に微笑んだ。
その言葉に王太子の表情が曇る。
「孤児院では、満足な食事も与えられなかったのか?」
「院長先生は頑張ってくださいました。でも、私たちのような子供は多かったので……」
「そうか」
王太子は、自分の皿から肉料理を切り分け、ミリアの皿へ置いた。
「遠慮せず食べるといい」
「殿下の分が減ってしまいます」
「構わない」
「お優しいのですね」
ミリアは目を潤ませた。
王太子は満足そうだった。
ヴィオレッタは二人を見ながら、スープを口へ運んだ。
ミリアが王太子へ語った情報には、事実と嘘が混じっている。
教会から提出された資料によれば、ミリアがいた孤児院は王都南部の聖マルタ孤児院。寄付金は十分であり、少なくとも過去五年間に深刻な食糧不足は起きていない。
だが、完全な嘘ではない可能性もある。
食事が与えられていたことと、ミリアが満足に食べられたことは別だ。
年長の子供に奪われていた。罰として減らされていた。あるいは、自ら食べなかった。
その可能性もある。
ヴィオレッタは、ミリアの手を見た。
傷跡はなく爪も健康的だ。
飢餓を経験した者に多い、食事への執着も見られない。
むしろ、王太子から与えられた肉にはほとんど手をつけていなかった。
「ヴィオレッタ様」
ミリアが声をかけてきた。
「何でしょう」
「ヴィオレッタ様と殿下は、幼い頃から婚約されているのですよね?」
「九年前からです」
「素敵ですね。お二人は、とても愛し合っているのでしょうね」
王太子の手が止まった。
ヴィオレッタは彼を見なかった。
「王家とアルディーン公爵家の結びつきは、王国の安定に不可欠です」
ミリアが首を傾げる。
「それは、愛しているということですか?」
「質問の意図が分かりません」
「ごめんなさい。私、貴族のことを何も知らなくて」
そう言いながら、ミリアは謝罪していなかった。
目が笑っている。
「好きだから結婚するのではないのですか?」
王太子は黙って答えを待っている。
ヴィオレッタは考えた。
ここで愛していると答えれば、王太子は安心する。しかしミリアはどうか。
彼女は私たち二人の間に亀裂を作ろうとしている。既に愛し合っている婚約者同士でなければ、奪う価値が下がる。
そう考えているのだろう。
逆に愛していないと答えれば、王太子の自尊心を傷つける。
そして王太子はヴィオレッタへの反発を強め、ミリアへ傾く。
ーー私にとって長期的には、そちらの方が都合がいい。
ヴィオレッタは微笑んだ。
「いいえ」
王太子が顔を上げる。
「私は、殿下を愛しておりません」
食事席から音が消えた。
周囲の貴族たちまで、こちらの会話に耳を澄ませている。
「ヴィオレッタ」
王太子の声には、明らかな怒りが含まれていた。
「今の言葉は、どういう意味だ」
「言葉どおりです」
「では、なぜ私と婚約している」
「殿下が王太子であり、私がアルディーン公爵家の娘だからです」
王太子の顔が赤くなる。羞恥と怒り。その奥に、傷ついた幼児のような感情がある。
「私でなくてもよいということか」
「同じ条件を満たす方がいらっしゃれば、理論上は」
「もういい」
王太子が立ち上がると椅子が大きな音を立てて倒れる。
「君は昔からそうだ。何もかも理屈で考える。人の心というものがないのか」
「殿下」
「ついてくるな」
王太子はミリアを残し、その場から立ち去った。
周囲の生徒たちは、誰も言葉を発さない。
ヴィオレッタは倒れた椅子を使用人に直させ、食事を続けた。
ミリアだけが、彼女を凝視していた。
ーー期待していたものと違う。
その顔には、そう書かれていた。
「よろしいのですか?」
ミリアが尋ねる。
「何がでしょう」
「殿下、傷ついていました」
「そうでしょうね」
「追いかけないのですか?」
「今の殿下は、私の言葉を受け入れません」
「でも、婚約者なのでしょう?」
「ええ」
「好きではないのに?」
「必要ですから」
ヴィオレッタはナイフを置いた。
「必要……」
「私が殿下に嫁げば、王家はアルディーン公爵家の領地、財力、軍事力、そして貴族院における影響力を得られます。王位継承を安定させるための婚約です。そこに私情を挟む必要がございますか?」
ミリアは瞬きをした。
「そんなこと、私に話していいのですか?」
「隠す理由がありません」
「私が殿下に告げるかもしれません」
「既にご存じです」
彼は知っていても、理解していない。
王太子は、自分が政略結婚をする立場だと知っている。
「私が殿下に嫁げば、王家はアルディーン公爵家の領地、財力、軍事力、そして貴族院における影響力を得られます。王位継承を安定させるための婚約です。そこに私情を挟む必要がございますか?」
しかし心のどこかで、ヴィオレッタが自分を愛していると信じていた。
愛されて当然だと思っていたからこそ、その幻想が壊れた時に取り乱す。
ミリアはしばらく沈黙した。
やがて、口元を手で隠すようにして笑った。
「ヴィオレッタ様って、不思議な方ですね」
「よく言われます」
「怖くないのですか?」
「何がです?」
「殿下に嫌われることが」
「殿下が私を嫌うことと、婚約を解消することは別の問題です」
王太子個人の感情だけで、アルディーン公爵家との婚約を解消することはできない。
王国北部の軍事力。国内最大の穀倉地帯。そして貴族院の三分の一を占める派閥。
それらを無視して婚約を破棄すれば、王太子の方が地位を失う。
レオンハルトも、それを理解している。
理解しているからこそ、ヴィオレッタを嫌いながら離れられない。
「では」
ミリアは身を乗り出した。
「私が殿下を奪っても、困らないのですか?」
無邪気な声だった。周囲には聞こえないほど小さい。
だが、問いかけそのものには隠す気がなかった。
ヴィオレッタの顔を見つめる少女の瞳には、好奇心が満ちている。
悪意ですらない。
子供が虫の脚を一本ずつ千切り、どこまで動けるか確かめる時の目。
「困ります」
ヴィオレッタが答えると、ミリアの瞳が輝いた。
「そうですよね」
「王太子殿下を失えば、新たな王位継承候補との関係を一から構築する必要があります。時間の損失です」
光が消えた。
「時間……だけ?」
「ほかに何が?」
ミリアは答えずテーブルの下で、白い制服の裾を強く握りしめる。
失望している。ヴィオレッタは、そう判断した。予想した反応を得られなかったからだろう。
だが次の瞬間、ミリアは笑った。
先ほどまでの聖女らしい、柔らかな微笑ではない。唇の両端をゆっくりと持ち上げた、薄く冷たい笑み。
「では、もっと大切なものを探さないと」
ヴィオレッタは返答しなかった。
「ヴィオレッタ様にも、一つくらいあるでしょう?」
「何がです?」
「奪われたら、泣いてしまうもの」
ミリアは立ち上がった。
食事には、ほとんど手をつけていない。
「今日はありがとうございました」
「午後の講義に遅れないように」
「はい」
ミリアは数歩進み、振り返った。
「私、ヴィオレッタ様と仲良くなりたいです」
「光栄です」
「きっと、すごく楽しいと思います」
そう言い残し、ミリアは去っていった。
後ろ姿が見えなくなるまで、ヴィオレッタは観察を続けた。
歩幅は一定。
背筋は伸びている。
階段から落ちかけた恐怖は、既に欠片も残っていない。それも当然だろう。
彼女はーー最初から恐怖など感じていなかったのだから。
◇
放課後。
ヴィオレッタは公爵家の馬車へ乗り込むと、向かいに座る執事へ一枚の紙を渡した。
「調査を」
老執事ハロルドは紙へ目を落とす。そこには、複数の項目が記されていた。
聖女ミリア・ロゼの出生。聖マルタ孤児院へ預けられた経緯。聖女として発見された状況。奇跡を初めて使った時期。孤児院にいた全児童と職員の現在。
「期限はいかほどで」
「今夜」
「承知いたしました」
この男は決して無理だとは言わない優秀な人間だ。だから彼は三十二年間、公爵家の執事を務めている。
「それと、階段を調べて」
「階段でございますか」
「ミリア様が転落した場所。靴跡、手摺り、周辺にいた生徒。特に彼女の直前を歩いていた者を」
「事故ではないと?」
「まだ判断していないわ」
ヴィオレッタは窓の外を眺めた。
学園の尖塔は夕日に照らされ、グラウンドに落ちた大きな影が遠ざかっていく。
正門のそばに、ミリアが立っていた。教会の馬車を待っているらしい。
その周囲には、既に複数の男子生徒が集まっている。貴族の子弟たちが、自分の馬車へ乗せようと申し出ているのだろう。
ミリアは困ったように笑っている。
だがその目は、彼らを一人ずつ値踏みしていた。
「お嬢様」
ハロルドが静かに尋ねた。
「あの聖女を危険とお考えですか?」
ヴィオレッタは少し考えた。
「危険という言葉は、曖昧ね」
「では、排除いたしますか」
「いいえ」
聖女の力は希少だ。
治癒、結界、浄化。
適切に利用すれば、軍事、医療、宗教、外交のすべてにおいて莫大な利益を生む。
性格に問題があるとしても、道具としての価値は変わらない。
「壊れていないか、確認するだけよ」
「壊れていた場合は?」
「使い方を変えるわ」
教会の白い馬車に乗り込むミリアの姿を捉える。馬車が角を曲がり、その姿が見えなくなった。
◇
ヴィオレッタの私室に、ハロルドが姿を現した。
「聖マルタ孤児院について、興味深い事実が判明いたしました」
ハロルドは口頭で報告を続ける。
孤児院の記録ではミリアは六歳の時、王都近郊の森で発見された。両親は不明で記憶がないと本人は話していた。
十歳の時、同室の少女が井戸へ転落して死亡。
十二歳の時、年長の少女が厨房で火傷を負い、感染症で死亡。
十三歳の時、ミリアと親しかった少女が孤児院を脱走。三日後、川で遺体となって発見。
いずれも事故として処理されている。
ミリアが聖女の力を発現したのは、三人目の少女が死亡した翌日だった。
「三人の共通点は?」
「全員、養子縁組が決まっておりました」
「ミリアは?」
「候補に選ばれたことはあります。しかし、養親となる予定だった者が直前に取り消しております」
「理由は」
「最初の夫婦は、縁組前の試験滞在中にミリアの度重なる虚言と盗みが発覚し、受け入れを取りやめています。
二組目も、同居する子供に対して執拗に嘘を吹き込み、家庭内の不和を招いていたことが分かり、正式な手続きの直前で縁組を撤回したそうです」
ヴィオレッタは先を促す
「階段については?」
「ミリア様の靴底と一致する擦過痕が、段の端から発見されました。ただし、転落時についたものか、意図的につけられたものかは判断できません」
「手摺りは」
「触れていません」
落下する人間は本能的に手を伸ばす。手摺りが近くにあったなら、なおさらだ。
「周囲にいた生徒は?」
「子爵家の令嬢が一名。ただし、接触は確認されておりません」
「本人は何と?」
「ミリア様が足を滑らせる直前に姿を見ただけで転落の瞬間は見ていない、と」
ヴィオレッタは瞼を閉じた。
階段から落ちたとしても王太子が助けるとは限らない。だが王太子が階下にいることは、事前に確認できる。
奇跡で落下速度を制御できるなら、危険もない。自ら転落し、王太子との接触を作ったのだ。
同時に、近くにいた令嬢へ疑いを向けることもできる。
成功すれば王太子の関心を得る。
失敗しても聖女の奇跡を示せる。
損失がない。
「賢い子ね」
目を薄く開き、ヴィオレッタは呟いた。
「今後、いかがいたしましょう」
「孤児院には口止めを」
「すでに手配済みです。教会へは?」
「知らせなくていいわ」
教会がミリアの本性を知っているかは不明だ。
知っていて利用している可能性もあるが、知らないのであればいずれ彼ら自身が代償を払う。
「監視を続けて」
「どの程度まで」
「彼女が食べたもの、話した相手、触れた物。すべて」
「承知いたしました」
ハロルドが退出する。
一人になったヴィオレッタは、椅子の背へ身体を預けた。
机の上には何も置かれていない。記録は残さない。
王族、貴族、聖職者、軍人、商人。王国の主要人物に関する情報は、すべて彼女の頭の中に収められていた。
家柄。能力。財産。交友関係。欲望。恐れているもの。隠している秘密。圧力をかけた際に、どこまで耐えられるか。味方として使うべきか。敵として利用すべきか。あるいは、排除すべきか。
ヴィオレッタの中で、人間はそれぞれ異なる位置に分類され、必要に応じて結びつけられている。
一人の貴族を思い浮かべれば、その血縁者、債権者、愛人、政敵までが連鎖的に浮かぶ。
忘れることはない。書き留める必要もなかった。
ヴィオレッタは目を閉じた。頭の中に、新たな区分を作る。
ミリア・ロゼ。
高い観察力。
優れた演技性。
危険に対する忌避の欠如。
他者の所有物への執着。
偶然を装う程度の計画性。
ただし、行動の目的は不明。
権力。金銭。身分。王太子への恋情。
いずれも、現時点では主目的とは考えにくい。
ヴィオレッタは思考を止め、昼食時のミリアの顔を思い出す。
『奪われたら、泣いてしまうもの』
彼女は本気で探すつもりだ。
王太子。地位。友人。家族。名誉。
どれを奪えば、ヴィオレッタが苦しむのか。
おそらく、一つずつ試すだろう。
ヴィオレッタは結論付ける。
『利用価値あり。現時点での排除は不要』
窓の外には、王都の公爵家の庭園が広がっている。
月光の下で、黒薔薇が咲いている。珍しい品種だ。温度、土壌、水分。そのすべてを厳密に管理しなければ、色を保てない。
美しいものほど、維持には手間がかかる。
壊すだけなら、一瞬で済む。
ヴィオレッタは窓辺に立ち、黒薔薇を見下ろした。ミリアは、あれを欲しがるだろう。
手に入れたいのではない。
ヴィオレッタが育てたものだから、摘み取りたいのだ。
ならば、摘ませればいい。
一本の薔薇を守るために、庭園全体を危険にさらす必要はない。
その代わり。
花へ手を伸ばした瞬間、その腕に鎖を巻けばいい。
「楽しみね」
ヴィオレッタは微笑んだ。
それは学園で見せていた、慈悲深い公爵令嬢の微笑と寸分違わなかった。
◇
一方、聖教会の宿舎では。
ミリアが鏡の前に座り、長い蜂蜜色の髪を梳いていた。
机の上には、王太子から贈られた白薔薇が置かれている。
ミリアは花を一輪手に取り、花弁を一枚ずつ千切った。
「必要なだけ、か」
花弁が床へ落ちる。
「王子様を取っても、泣かない」
もう一枚。
「悪口を言われても、怒らない」
もう一枚。
「お友達を奪ったら、どうかな」
残りの花弁をまとめて握り潰す。
白い花から汁が滲み、ミリアの指を汚した。
鏡の中で、聖女が笑っている。
「家族を殺したら?」
誰も答えない。
ミリアは潰れた薔薇を床へ捨て、靴底で踏みつけた。
「絶対に見つけてあげる」
完璧な令嬢が、何を奪われれば壊れるのか。
その答えを想像するだけで、胸が高鳴った。
「待っていてね、ヴィオレッタ様」
二人の少女は、同じ夜に笑っていた。
片方は、相手を壊すために。
もう片方は、支配するために。
二人の戦争は、まだ誰にも気づかれないまま始まった。
ーーまだこの世界は平和だった。
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