第十九話 同じ部屋
「どうぞ、入ってください」
ニアが扉を開け、僕たちを中へ招いた。見るだけ。そう、見るだけだ。僕は自分に言い聞かせながら、玄関をくぐった。
中へ入ると、磨かれた床に窓からの光が差していた。壁際には小さな棚があり、その上に花が飾ってある。廊下は奥まで続き、左右にいくつもの扉が並んでいた。
「おばあちゃんと二人で住んでいたんです。私が小さかった頃は親戚が集まることもあって、部屋だけはたくさんあるんですよ」
「立派な家だな」
サーディが、きょろきょろと辺りを見回した。
「外から見たときより広く感じる」
「ありがとうございます。こっちは居間で、奥が台所です」
ニアが扉を開ける。
居間には四人がけのテーブルがあり、その向こうにも腰を下ろせそうな場所があった。窓際には鉢植えが並び、よく手入れされている。なるほど。これなら確かに、三人増えても――。
「十分、泊まれそうだな」
サーディが言った。
「そうだね」
僕はうなずきかけて、止まった。
危ない。何を納得しているんだ、僕は。部屋の広さが問題なのではない。いや、さっき僕が問題にしたのだった。だが、今はそこではない。
「無理に詰め込むことにはならないと思います」
ニアが、僕に向かって微笑む。
「ああ……確かに広いね」
「よかった。レイリーンさんも気に入ってくれました?」
「家は、ね」
「家は?」
「素敵な家だと思うよ」
それは本当だ。嘘をつく必要はない。ただ、話を進めないでくれ。サーディは窓の外をのぞいていた。庭の鉢植えを見つけたのか、耳がぴょこぴょこと動く。
「庭まであるんだな」
「小さいですけど。おばあちゃんが花を育てていたんです」
「きれいにしている」
「水やりくらいしかできていないんですけどね」
「いや、私が世話をしたら、もっと大変なことになると思う」
サーディが笑った。楽しそうだ。実に楽しそうだ。彼女に尻尾が生えていたなら、今ごろはぶんぶんと振られていただろう。君は家を見に来ただけだぞ。もう泊まることが決まったような顔をするんじゃない。
「このテーブルなら、四人で食事もできますね」
ニアが言った。
「朝は日も入るし、気持ちがよさそうだ」
サーディが応じる。
「でしょう? お茶もここで飲めますよ」
「それはいいな」
これはまずい。二人の間で、すでに朝食とお茶の時間が始まっている。僕は、最後の希望を見た。ワンダ。頼む、ワンダ。君だけが頼りだ。君まで食卓の席を数え始めないでくれ。
「確かに広い家だ」
ワンダが言った。
「ああ、だが、だからといって――」
「泊まらせてもらうわけにはいかない」
僕は心の中で拳を握った。よし。さすがだ、ワンダ。
「えっ」
ニアが振り返る。
「せっかく案内してもらったが、やはり世話になりすぎる」
「そんなことありません。部屋も空いていますし、私が来てほしいんです」
「気持ちはありがたい。だが、俺は遠慮しておく」
見事だ。はっきりと、しかも丁寧に断った。惚れ惚れするような断り方だった。惚れはしないが。ニアは困ったように眉を下げた。
「私、そんなに頼りないですか?」
「そういうことじゃない」
「お掃除もお食事も、皆さんが手伝ってくださるなら大丈夫です」
「家のことだけじゃないんだ」
ワンダは少し言いにくそうに、僕たちを見た。
「君たちは女性だろう。そこへ俺が一人混じって泊まるのは、よくないと思う」
僕は彼の顔を見上げた。
……そんなことを考えていたのか。情緒が少年の頃から止まっているとばかり思っていたが、きちんと分別があるじゃないか。偉いぞ、ワンダ。僕は今、君の理性をとても褒めたい。
「気を遣わなくてもいいのに」
ニアが言う。
「俺が気になる」
ワンダは首を横に振った。
「レイリーンとサーディが泊めてもらうなら、それは二人で決めればいい。俺は別の宿を探すよ」
……なるほど。
僕は少し考えた。僕とニアとサーディが、ここに泊まる。ワンダは別の宿。三人で朝食を食べ、お茶を飲み、夜は同じ屋根の下で過ごす。その中にワンダはいない。悪くない。いや、悪くないどころではない。これは僕にとって、僥倖ではないか?
「そうだね。それなら――」
言いかけて、僕は口を閉じた。
ワンダは、別の宿へ行く。別の場所で食事をして、別の場所で眠る。明日の朝、すぐ隣にいるわけでもない。……それは、少し。少しだけ、心細いような気がした。いや、何を言っているんだ。同じ町にいるのだから、会おうと思えば会える。僕は一人で眠ることもできるし、ここにはニアとサーディがいる。心細い理由などない。ないはずだ。
「……そうですか」
ニアの声に顔を上げると、彼女は見るからに肩を落としていた。サーディも、耳を伏せ気味にしている。いやいや。ニアはともかく、なぜサーディまで残念そうにする。おい。
「ワンダは、どうしても別の宿に行くのか?」
サーディが尋ねた。
「そのつもりだ」
「そうか……」
そんなに残念か。二人とも、もう少し隠そうという気はないのか。やはり別の宿がいい。少し心細いとしても、それがいい。
「ニア、家を見せてくれてありがとう」
ワンダが言った。
「二人のことは、改めて相談してくれ。俺は宿を探してくる」
話がまとまる。そう思った、そのときだった。
「ワンダさん、お願いします」
ニアが頭を下げた。僕は目を瞬いた。……待て。なぜニアが頼む。
「いや、ニア」
ワンダも面食らったように言う。
「頼むのは、世話になる俺たちのほうだろう。君が頭を下げることじゃない」
「それでも、お願いします」
ニアは顔を上げ、まっすぐワンダを見た。
「ワンダさんにも、いてほしいんです」
おい、ちょっと、この子は、やばいぞ。
見た目からは想像もつかない、とんでもない肉食獣なのかもしれない。危ない、ワンダが。このままでは、ワンダの貞操が奪われる。いや、まだ泊まる話をしているだけだが、危ないものは危ない。
「俺がいたら、気を遣うだろう」
「ワンダさんが私に気を遣っているくらいは、私も気を遣います」
「それでは落ち着かないんじゃないか」
「そんなことありません。ワンダさんといると、安心します」
強い。言葉が、まっすぐすぎる。ワンダ、踏ん張れ。君は押しに弱いんだ。僕は知っている。
「部屋は別にできますし、嫌なことがあったらちゃんと言います」
「だが――」
「何も言わずに我慢したりしません。だから、ワンダさんも遠慮しすぎないでください」
ワンダが黙った。なぜ黙る。そこで次の言葉を探してくれ。
「私も、ワンダがいてくれると心強い」
サーディまで言った。
「妹を捜すにも、一緒に相談できると助かるしな」
「昼間は手伝える。泊まる必要はないだろう」
「そうだが……帰る場所が同じなら、朝も相談できる」
朝も。何だ、その楽しそうな響きは。
「それに、私も世話になる。何かあれば私からも言う」
「はい。一緒に過ごして、困ることがあれば相談しましょう」
ニアがうなずいた。二人がワンダを見つめる。
ああ、ワンダ。駄目だ。その顔は折れかけている。君ならできる。さっきまであんなに立派だったじゃないか。もう一度、「別の宿を探す」と言うんだ。ワンダは息をついた。
「……そこまで言ってくれるなら」
言うんだ、ワンダ。
「世話になってもいいか」
言わなかった。ワンダは折れた。
「はい!」
ニアの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます。あ、いえ、来てくれてありがとうございます、でしょうか」
「世話になるのは俺のほうだ」
「じゃあ、お互いにありがとうございます、ですね」
ニアが笑う。ワンダは少し困った顔をしたが、うなずいた。
「ただし、食材代は出させてくれ。掃除や料理も、できることはやる」
「もちろんです。一緒にやりましょう」
「私も手伝う」
サーディの声も弾んでいる。耳がまた、ぴょこぴょこと動いた。
こ、こいつら……なんて分かりやすい。ニアはワンダが泊まると言った途端に笑顔になり、サーディは今にも庭を一周しそうな様子だ。
シーラのことは忘れていないだろうな。もちろん、忘れているはずはない。拠点ができたのだから、捜しやすくもなるだろう。それでも、その嬉しそうな顔は何だ。僕は小さくため息をついた。もう決まったことは仕方ない、か。
「レイリーンさんも、よろしくお願いしますね」
ニアが僕に笑いかける。
「ああ。こちらこそ、世話になるよ」
「はい。一緒に暮らせるの、楽しみです」
……可愛い。こんなふうに言われたら、僕も嬉しくなるではないか。だが、その後ろでワンダに向けられているサーディの視線が気になる。まったく、落ち着かない。
「それじゃあ、お部屋のことをお話ししますね」
ニアが廊下のほうへ手を向けた。
「すぐ使える部屋が二つあるんです。それとは別に、もう一部屋あるんですけど、今は荷物置き場になっていて」
「荷物置き場?」
「おばあちゃんのものや、使っていない家具を入れてあるんです。夕方、仕事に行く前に片付けておきますね」
「それなら、僕も手伝うよ」
「私もだ。荷物を運ぶくらいなら任せてくれ」
サーディが腕を軽く上げた。
「ありがとうございます。助かります」
「だが、仕事の前にそこまでしてもらうのは悪い」
ワンダが言った。
「手伝うとしても、荷物の置き場所を考えるだけで時間がかかるだろう」
「でも、皆さんの休む場所ですから――」
「急いで片付けなくても、俺とレイリーンは同じ部屋で構わない」
静寂が訪れた。
とんでもない静寂だった。ニアの笑顔が止まっている。サーディの耳も止まっている。二人はゆっくりとワンダを見た。ワンダは、そんな二人を見返した。
「……何か、おかしなことを言ったか?」
僕は彼の横顔を見た。それから、ニアとサーディを見た。もう一度、ワンダを見た。
……これは。これは、一転攻勢ではないか? ワンダが僕と同じ部屋にいれば、少なくとも夜の間、二人が彼に近づくのを防げる。しかも、それを言い出したのはワンダ自身だ。僕と同じ部屋で構わない、と。さっき、別の宿へ行くと言われたとき、胸のどこかに引っかかったものがあった。それが、いつの間にかなくなっている。
……いや、それは二人を警戒しなくて済むからだ。きっとそうだ。さっきまで僕は、この男が折れたことを嘆いていた。どうやら早まったようだ。よくやった、ワンダ。君はまだ僕の味方だった。
「ああ、僕もワンダと同じ部屋で全然構わないよ」
全力で乗った。思ったよりも声が弾んだ気がして、僕は慌てて口元を引き締めた。提案が都合よかっただけだ。それ以上の意味はない。
「そうか。なら――」
「待ってください」
ニアが言った。笑顔だった。笑顔ではあったが、先ほどとは何かが違う。
「私も、少し待ってほしい」
サーディも口を開く。さっきまで二人でワンダに泊まるよう勧めていたのに、今度は揃って僕を見ている。実に分かりやすい。
「ワンダさんとレイリーンさんが、同じお部屋ですか?」
「うん。僕は構わないよ」
「そうではなくて……お二人は、その、男女ですよね?」
「そうだな」
ワンダが答える。
「だから俺は、別の宿に泊まろうとしたんだが」
「それとこれとは別です」
「別なのか?」
「別です」
ニアはきっぱりと言った。さっきのワンダの懸念を、今度は君が持ち出すのか。しかし、そこは指摘しないでおこう。ややこしくなる。
「レイリーン、君も本当にいいのか?」
サーディが僕に尋ねた。
「もちろん。僕たちは一緒に旅をしてきた仲だからね」
口にしてから、少しくすぐったくなった。旅をしてきた仲。それだけでは足りないくらい、僕はワンダのことを知っている。向こうも僕を知っているから、あんなふうに言ったのだろう。そう思うと、また口元が緩みそうになった。
「一緒に旅をしているからといって、同じ部屋で寝るとは限らないだろう」
「昨夜も同じ部屋だったよ」
二人が、今度は僕を見た。……あれ。ニアの口元は、まだ笑っていた。
「そうなんですか?」
「そ、そうだけど」
「そうか。昨夜も、か」
サーディがゆっくりとうなずく。何だろう。攻勢に出たつもりだったのに、少し怖い。
「変なことはなかった」
ワンダが言った。
「俺はソファで寝たしな」
「ワンダさんがソファで?」
「ベッドはレイリーンが使った」
「そうですか……」
ニアが、ほんの少しだけ息をついた。どういう意味だ、その安堵は。変なことがあると思っていたのか。いや、僕も似たようなことを心配していたのだが。
「けれど、ワンダにまたソファで寝てもらうのは悪い」
サーディが言った。
「私は床でも平気だが、部屋の広さや寝具を見てから決めたほうがいいだろう」
「そうですね。すぐに使える二部屋には、それぞれ寝台が一つずつしかないんです」
ニアが続けた。
「サーディさんに一部屋使ってもらうとしても、ワンダさんとレイリーンさんが一緒のお部屋なら、寝具をどうするか考えないと」
「それなら、やはり荷物置き場を片付けて、一人一部屋にしたほうがいいんじゃないか?」
サーディが言った。
「はい。皆さんに手伝ってもらえれば、仕事の前に片付くと思います」
「俺は床でも大丈夫だ」
「駄目です」
ニアとサーディの声が重なった。ワンダは口を閉じた。
「では、私が床で、ワンダが寝台に――」
「サーディさんも駄目です。というか、どうして次はサーディさんとワンダさんが同じ部屋に?」
「……」
サーディが黙る。僕は、そっと手を挙げた。
「僕は寝台がいい」
「知っている」
ワンダが即答した。
「まだ何も言っていないだろう」
「顔に書いてある」
「ひどいな。僕だって、必要なら譲るよ」
「必要になってから言ってくれ」
ニアがくすっと笑った。サーディも、こらえきれないように口元を押さえる。ちょっと待て。今のは僕が笑われるところだったか?
「とにかく、部屋を見てみましょう」
ニアが言った。
「寝具の数も確認して、荷物の部屋をどのくらい片付けるか決めればいいですし」
「そうだな」
サーディがうなずいた。
「それから、誰がどこで寝るかも相談しよう」
相談。その言葉を、二人はやけにしっかり発音したように聞こえた。
「レイリーン、何だか嬉しそうだな」
ワンダが僕に言う。
「気のせいだよ」
僕は、緩みかけていた頬を押さえた。そんなに顔に出ていたか? いや、部屋割りが都合よく進みそうで嬉しいだけだ。そういうことにしておこう。
「さっきまで、ずいぶん気にしていただろう」
「今も気にしているよ。皆が気持ちよく休めるかどうかをね」
「そうか」
ワンダはあっさりとうなずいた。
よし。あとは、この男が余計な提案を取り下げなければいい。ニアが廊下へ出る。サーディがその隣に続き、二人は振り返って僕たちを待った。
「こちらです。まず、すぐに使える部屋から見てください」
「寝台の大きさも確かめよう」
サーディが言う。
「ええ。もちろん、四人で」
ニアが付け足した。僕は笑顔を返した。もちろんだとも。
さっきまで、ワンダには別の宿に泊まってほしいと願っていた。今は、僕と同じ部屋に泊まってほしいと願っている。隣を歩くワンダを見上げると、彼は部屋の扉へ目を向けていた。もし同じ部屋になれば、明日の朝も、目を覚ましてすぐに顔を合わせることになる。それを想像すると、少しだけ足取りが軽くなった。
……二人からワンダを守れるのだから、当然だ。人の気持ちというものは、忙しい。




