第十六話 その笑顔は誰のもの
話は、落ち着いたように見えた。男の一人が腰へ手を当て、ワンダに何か言っている。ワンダは短く答え、道の端を指した。その次の瞬間だった。
「偉そうに指図してんじゃねえ!」
男が、ワンダへ殴りかかった。愚かな男だ。僕がそう思うのと、隣でニアが小さく声を上げるのは、ほぼ同時だった。
「危な――」
ニアは肩をすくめ、目を閉じた。僕は閉じなかった。
ワンダは半歩、身体をずらした。拳が空を切る。その腕を流し、踏み出した男の足に、自分の足を添える。男が地面へ伏せた。実に、予想どおりだった。勢いよく転ぶために、ずいぶん大きく振りかぶったものだ。
残りの男たちは動かなかった。いや、動けないと言った方が適切だろう。一人が倒れた仲間を引き起こす。もう一人は口を開きかけ、ワンダと目が合うと閉じた。判断が遅いのは困るが、できないよりはましだ。
「今、どうなったんですか?」
ニアが、恐る恐る目を開けた。
「殴ろうとしたほうが転んだ」
「ワンダさんは?」
「見てのとおり、立っているよ」
ワンダは男の服の土を払ってやるつもりまではないらしく、道を空けていた。男たちは何か言い合いながら、そそくさと離れていく。ニアは胸元で手を重ね、長く息を吐いた。
「よかった……」
それから、ワンダを見つめた。僕は、その横顔を見た。
――ああ。この目は知っている。先ほどまでの不安が薄れ、驚きが残り、その奥に、隠しきれない嬉しさがある。前の僕へ、何度も向けられていた目だ。これはもう、かなり惚れている。
あと一押しで落ちる。いや、一押しもいらない。つん、と指先で触れるくらいで、ころりといくだろう。僕はため息を吐いた。
やめておけ、ニア。本当に、悪いことは言わない。ワンダに、君はもったいない。世の中には、もっと気の利いた言葉を使い、女性の服を褒め、入浴を急かすときにも獣を引き合いに出さない男がいる。君なら、そういう男を選べる。
ワンダに似合うのは、もっとこう、泥臭い相手だ。同じ冒険者で、多少口が悪く、遠慮なく言い返せるような。長い旅にも付き合えて、少々汗臭いと言われたくらいで――。
いや、それは怒っていい。そこは譲らなくていい。とにかく、純朴で可愛らしいニアには向いていない。
「……ワンダさん」
隣から、小さな声がした。耳を澄まさなければ聞き逃しそうな声だった。僕は聞き逃さなかった。
なんだ、その呼び方は。ただ名前を呼んだだけなのに、どうして、そんなに柔らかい声になるんだ。ニアは男というものを知らないのだ。そうだ。知らないから、親切にされただけで、あんな顔をする。
雛鳥が、最初に見たものを親だと思うようなものだろう。たまたま、目の前にワンダがいた。それだけだ。……酒場で働いていれば、男くらい大勢見るのでは? その疑問は、いったん脇へ置いた。
ニアは駄目だ。それだけは、僕が止めなくてはならない。僕の中で、極めて重要な方針が定まったときだった。そして、ワンダが獣人の女性と一緒にこちらへ歩いてくる。僕の思考が、止まった。
可愛い。
長い茶髪を高い位置で一つに結び、歩くたびに、その先がさらりと揺れている。頭の上の獣の耳は、周囲の物音を拾うようにわずかに動いていた。気の強そうな目元。それでいて、顔立ちは可憐だ。唇を少し開くと、八重歯がのぞく。冒険者の装備に包まれた身体はすらりとしていて、胸元には女性らしい丸みがあった。
実に、僕の好みだった。……そうだった。僕には、美少女ハーレムを作るという大切な目標があった。危ない。別件に気を取られて、本来の目的を見失うところだった。
「終わったのかい、ワンダ」
僕は立ち上がり、にこやかに声をかけた。
「ああ」
「ご苦労さま。そちらの方は?」
「サーディだ」
答えたのは、彼女自身だった。近くで見ると、眉間に少し力が入っている。助けられて安堵しているというより、何かを気にしているような顔だった。サーディはまず、ワンダへ頭を下げた。
「すまんな。連れがいるというのに、手間をかけさせた」
「問題ない」
続いて、僕とニアにも順に頭を下げる。
「そちらの二人も。待たせてしまって、悪かった」
「気にしなくていいよ。僕たちは、座っていただけだから」
「そうです。怪我はありませんか?」
ニアが尋ねると、サーディは顔を上げた。
「ああ。どこもやられていない」
「よかった」
ニアが微笑む。サーディの表情も、ほんの少し和らいだ。気は強そうだが、礼儀正しい。謝る相手を選ぶ態度でもない。
いい。とてもいい。
僕は早くも、彼女を有望な候補として心の中へ迎え入れた。もちろん、本人にはこれから僕の魅力を知ってもらう必要がある。そこを省くほど、僕は横着ではない。
「僕はレイリーン。こっちはニアだよ」
「ニアです。よろしくお願いします」
「レイリーンと、ニアだな。覚えた」
サーディはきちんと僕たちを見て、うなずいた。その様子に満足していると、ワンダが僕を見た。
「具合は?」
「いいよ」
「もう休まなくていいのか」
「見れば分かるだろう。すっかり元気さ」
ワンダが少し眉を寄せた。ニアは嬉しそうに言った。
「さっきより、お顔が明るくなりましたね」
「そうだろう?」
「ああ。急にな」
ワンダの一言には、反応しないことにした。
美しい女性との出会いが、元気を与えてくれることもある。それだけの話だ。サーディは、僕とベンチを見比べた。
「休んでいるところだったのか。それなら、なおさら――」
「大丈夫だよ。本当に」
僕は慌てて言った。謝らせるために、明るい顔になったわけではない。できれば、その可愛らしい顔から、もう少し険しさを取ってほしい。
「それより、何があったんだい?」
尋ねると、サーディの耳が少し伏せられた。ワンダが、彼女をちらりと見てから口を開いた。
「人を捜しているそうだ」
「人を?」
「ああ。それで、通りで声をかけていたらしい」
サーディがうなずく。
「見かけなかったかと、尋ねて回っていたんだ。あの連中にも、同じように聞いただけなんだが」
「相手が悪かった」
ワンダが言った。
「朝まで飲んでいたらしい。まともに話ができる状態じゃなかった」
「それで、囲まれたのかい?」
「最初は、何を怒っているのか分からなかった。聞き返したら、さらに機嫌を損ねたようでな」
サーディが息を吐いた。
「酒の匂いには気づいたんだが。声をかける前に、もう少し相手の様子を見るべきだった」
険しい顔の理由が、少し分かった気がした。自分の不注意で、面倒を起こしたと思っているのだろう。
「声をかけただけだ」
ワンダが言った。
「ああ」
「怒鳴る理由にはならない」
「だが、あんたにまで手を出した」
「それも、あいつが勝手にやったことだ」
サーディは口を閉じた。僕も、口を挟んだ。
「君が殴るようにお願いしたわけでもないだろう?」
「そんなことはしていない」
「なら、そこまで引き受けなくていいと思うよ。自分の拳をどこへ出すかくらい、大人なら自分で決めるさ」
「……そうだな」
サーディが、僕を見た。よし。今のは、なかなか気の利いた言葉だったのではないか。相手の気持ちを軽くしつつ、さりげなく頼もしさも感じさせる。ワンダも見習うといい。
「それに、ワンダは無傷だよ。相手のほうが、いろいろ痛かっただろうけど」
「転んだだけだ」
ワンダが言った。
「君が転ばせたんだろう」
「あのまま突っ込ませるより、ましだった」
「それはそうだけど」
ニアが、控えめにうなずいた。
「剣を抜かれなくて、よかったです」
「抜く必要もなかった」
ワンダの返事は、いつもどおり短い。なのに、ニアの顔が少し緩んだ。さっきの方針を、僕は思い出しかけた。その横で、サーディがまた眉を寄せる。
「それでも、騒ぎにはなった。急いでいたとはいえ、考えが足りなかったな」
「もう済んだことだ」
ワンダが肩をすくめた。それから、ほんの少し口元を上げる。
「連中も、いい酔い覚ましになっただろう」
サーディが瞬きをした。
「……手荒な酔い覚ましだな」
「殴ってきたのは向こうだ」
「そうだったな」
彼女の肩から、少し力が抜けた。耳がゆっくり起きる。
「すまない。助かった」
ワンダを見て、サーディが笑った。八重歯が、少しのぞいた。とても可愛らしい笑顔だった。僕は思った。
いい。笑うと、ますますいい。先ほどまでの勝ち気な表情との違いが、実に魅力的だ。ぜひ、もっと笑ってほしい。ただし。
なぜワンダに向かって笑っている? 僕だって、気の利いたことを言ったはずだ。ワンダは相手を転ばせて、酔い覚ましになったと笑っただけじゃないか。……助けたのも、ワンダだった。そこは、そうなのだけれど。
僕は二人を見比べた。泥臭い冒険者で、気が強く、遠慮なく言い返せそうな女性。そんな言葉が、頭の隅を横切った。僕は、その続きを考える前に追い払った。
今は関係のない話だ。サーディは、まだ少しだけ笑っている。ワンダも、穏やかな顔でそれを見ていた。
……なんだ、この獣人は。




