第十三話 ワンダの隣
朝食を終え、僕たちは宿を出た。受付の主人は、昨夜の一部屋騒動などなかったかのように、丁寧に頭を下げてくれた。いい宿だった。部屋も料理も、申し分ない。僕の作戦が何ひとつ成功しなかったことを除けば、文句はなかった。
通りには、朝の賑わいが広がっていた。荷車を押す男。店先の品物を並べる女。籠を抱えて足早に歩く人たち。誰もが、どこかへ向かっている。僕はワンダの隣を歩きながら、その流れを眺めていた。
これから、どこへ行けばいいのだろう。昨日までは、もっと簡単に考えていた。生き返った。美少女になった。今度はこの姿でハーレムを作ろう。実に明快な計画だ。考えた本人が言うのも何だけれど、希望に満ちている。
ところが、計画には服代も、食事代も、宿代も含まれていなかった。肝心の僕には、金も、まともに使える武器もない。しかも、昔の恋人たちは、それぞれの人生を歩き始めている。
自分がレインであることは変わらない。でも、性別も顔も身体も変わった。名前を名乗らなければ、昔の知り合いに気づいてもらうことさえ難しい。世間から見れば、ほとんど別人だろう。
剣の振り方は覚えている。相手の動きだって読める。けれど、頭の中で相手を倒し終えていても、身体のほうは手首をつかまれている。昨日、それを二度も確認した。あまり繰り返して確かめたい事実ではない。以前なら、剣一本あれば何とでもなった。今は、その一本を振るう自分を、まだ信用できない。
「……僕は、どうすればいいんだ」
気づけば、言葉が出ていた。ワンダがこちらを見る。冗談でも、愚痴でもなかった。本当に、分からなかった。ワンダは少し考えた。そして答えた。
「分からん」
僕は彼を見上げた。
「わ、分からんってさ……」
「俺にも、分からない」
「繰り返さなくても聞こえているよ」
「そうか」
「もう少し何か、ないのかい?」
「何かって、何だ」
僕が知りたい。
この男は、本当に気の利いたことを言わない。途方に暮れている幼馴染だぞ。しかも今は、こんなにも可愛らしい美少女なのだ。少しは励ましたくなるものではないのか。大丈夫だ、とか。何とかなる、とか。具体性がなくても、言い方というものがあるだろう。
僕は顔に手を当てた。朝から、相談相手を間違えた気がする。
「俺がいるさ」
隣から声がした。
僕は顔を上げた。ワンダは前を向いて歩いていた。何か特別なことを言ったつもりはないらしい。僕が立ち止まりかけたので、少しだけ歩調を緩める。
「……何?」
「何だ?」
「いや、今、君が」
「聞こえなかったか?」
聞こえた。はっきりと、聞こえた。だから、返す言葉が見つからない。
どうすればいいかは、分からない。でも、俺がいる。
彼の中では、その二つは矛盾していないのだろう。僕に代わって人生を決めるわけでもなく、何も心配するなと大見得を切るわけでもない。ただ、僕の隣にいることだけは、最初から決まっているような言い方だった。
なんなんだ、この男は。さっきまで、何も考えていないと思っていた。今は、何を考えてそんなことが言えるのか、分からなかった。
「ワンダ、僕は――」
「あ、ワンダさんとレイリーンさん!」
後ろから、明るい声が聞こえた。昨夜、酒場で聞いた声だ。
振り返ると、ニアがこちらへ小走りに来ていた。仕事着ではなかった。明るい色の上着に、歩くたび裾が揺れるスカート。小さな肩掛けの鞄を持ち、赤毛には飾りのついた留め具を使っている。よく似合っていた。僕は思わず、目を奪われた。
可愛い。それは間違いない。ただ、なんてタイミングが悪いのだろう。……タイミングが悪い? 僕は、自分の考えに引っかかった。
どうして、そんなことを思うのだ。可愛い女性と再会できた。喜ばしいことじゃないか。昨日は仕事中で、落ち着いて話す時間もなかったのだし。それなのに、ワンダと話しているところを邪魔されたような気がした。別に、大した話ではない。いや、僕にとっては大した話だけれど。とにかく、途中だったのだ。
「おはよう」
ワンダが軽く挨拶する。
「おはようございます。こんなところで会うなんて」
ニアが彼へ微笑んだ。僕も慌てて口元を整えた。
「おはよう、ニア」
「おはようございます、レイリーンさん。昨夜はよく眠れました?」
「ああ。よく眠れたよ」
「よかった。ワンダさんと、もうお出かけなんですね」
「宿を出たところだ」
ワンダが答える。ニアは僕と彼を交互に見た。
「そうだったんだ。私も、ちょうど用事が済んだところで」
「今日は、仕事はないのかい?」
僕が尋ねると、ニアは小さく首をかしげた。
「酒場が開くのは夕方からなので。それまでは自由ですよ」
「ああ、そうか」
昨夜のニアが印象に残っていて、朝もあの格好で料理を運んでいるような気がしていた。もちろん、そんなわけはない。彼女にも仕事以外の時間があるのだ。
僕はもう一度、私服姿のニアを見た。その可愛らしさについて、何か一言伝えようとしたところで、彼女が先に口を開いた。
「二人は、何をしているの?」
「歩いている」
ワンダが答えた。僕は目を閉じた。
ほーら、これだ。この男は、会話というものを何だと思っているのだろう。見れば分かることを伝えて、どうする。彼女が聞きたいのは、これからどこへ行くのか、何の用事があるのか、そういうことだろう。ふふっ、これでは、ニアが愛想を尽かす日も近いな。
「ふふ。見れば分かるよ、ワンダさん」
ニアは楽しそうに笑った。僕は目を開けた。なんだ、この子は。
「これから、どこかに行く予定なの?」
「まだ決めていない」
「じゃあ、お散歩?」
「そんなところだ」
「いいね。今日は天気もいいし」
会話が、成立している。しかもニアは、嬉しそうだ。
なんなんだ、この子は。今の返答なら、呆れるところじゃないのか。つまらない男だと思ってもいい場面だろう。どうして、そんな強面の無表情な男へ、にこにこ微笑みかけているんだ。
「ワンダさん、この町はよく歩くの?」
「必要があれば」
「いつもお仕事だもんね。たまには、用事がなくても歩くと楽しいよ」
「ああ」
ニアが笑う。ワンダも、相づちを打つ。
僕の隣で、ごく普通に話している。胸の中が、またむかむかしてきた。理由は、分からない。いや、分からないことが多すぎる。僕は勇者であって、謎解きを仕事にしていたわけではないのだから、もう少し分かりやすくしてほしい。
「レイリーンさん?」
ニアが僕を見る。
「何か、気になることでも?」
「ないよ。何もない」
「そうですか?」
「二人とも、ずいぶん楽しそうだと思ってね」
言ってから、少し嫌な言い方になった気がした。僕はすぐに笑みを足した。
「あっ、その……いい天気だからかな」
「そうですね。気持ちいい朝です」
ニアは素直にうなずいた。
いい子なのだろう。笑顔は可愛いし、愛想もいい。昨日から、僕にだって親切にしてくれている。その彼女と、もっと親しくなれる機会だ。ハーレム計画を考えれば、喜ぶべき場面である。僕は一つ息を吸った。
――よし。気持ちを切り替えよう。
「暇なら、ニアも来るか」
ワンダが言った。
僕は彼の顔を見た。今、何と?
ニアが、ぱっと顔を明るくした。ワンダは、いつもの顔だった。ついさっきまで、僕たちは二人で歩いていた。僕がこれからどうすればいいのかという、大事な話をしていた。俺がいるさ、とまで言った。その続きが、これなのか。僕は口元に笑みを貼りつけた。
なんだ、この男は。
なんなんだ、この男は。
胸の中のむかむかは、少しも収まらなかった。




