第十二話 馬鹿な男
衣服が乾くのを待って着替え、僕たちは宿の食堂へ下りた。
朝食も、立派だった。白い布を掛けたテーブルには、磨かれた食器が並んでいる。籠に盛られたパンはまだ温かく、薄切りの肉には香草の香りがした。卵料理に果物、野菜のスープ。小さな器に入ったジャムまで、何種類もある。
冒険者の宿の朝食とは、ずいぶん違う。硬いパンと薄いスープを、眠い目で腹へ流し込む場所ではない。旅の貴族や、金に余裕のある観光客が、宿に泊まること自体を楽しむための場所なのだろう。どうりで高かったわけだ。
「……ジャムを選ぶだけで、一日が終わりそうだね」
「好きなものを取ればいい」
「全部でも?」
「食べきれるならな」
ワンダは向かいへ座り、淡々とパンをちぎった。僕も、いちばん近くにあったジャムを取った。
きっと、おいしいのだと思う。パンは柔らかい。スープも温かい。口に入れるたび、料理の香りは分かる。けれど、味はあまり感じられなかった。
エステルは所帯を持ち、ミレーヌには恋人がいる。部屋で聞いた言葉が、まだ頭のどこかに残っていた。ワンダは何も言わずに食事をしている。僕が黙っていても、無理に話題を探そうとはしない。皿を空にしながら、ときどき僕の食事の進み具合だけを見ていた。
「食べづらいか?」
「いや。おいしいよ」
「そうか」
おいしいのだろう、とは言わなかった。それでは料理を作った人に失礼な気がしたし、ワンダに余計な気を遣わせるのも嫌だった。
僕はパンをもう一口食べ、向かいの男を見つめた。考えてみれば、エステルが誰かと所帯を持つ姿は、あまり想像できない。旅の間、彼女はいつも自分の役目を持っていた。魔法のことなら自信満々で、人に頼られると嬉しそうで、僕たちが知らないことを教えるのが好きだった。
その隣に、夫として立つ男。僕以外の誰かを思い浮かべようとすると、一人だけ、よく知っている顔が浮かんだ。ワンダだ。
彼は昔からエステルを想っていた。エステルも、彼を嫌っていたわけではない。むしろ仲間として頼りにし、剣の腕も人柄も認めていた。それが恋愛感情だったかといえば、違うだろう。でも、可能性が何もなかったわけでは――。
僕は杯へ手を伸ばした。恋敵である僕が死んだ。悲しんでいるエステルのそばに、ワンダがいる。彼にとっては、チャンスだったのではないか。そんな考えが浮かんだ。
何か話そうと思った。さっきから続いている、この重たい空気を少し変えたかった。いつものように軽口を言えば、僕も彼も、もう少し普通に食べられるかもしれない。
「ねえ、ワンダ」
彼が皿から顔を上げた。
「何だ?」
「恋敵の僕が死んだんだから、エステルを口説き落とせばよかったのに」
ワンダの手が止まった。僕は、続けてしまった。
「彼女、君のことは認めていただろう。昔から、頼りにしていたし」
言い終わったあとで、自分の言葉を聞き直した。
ひどいことを言った気がした。いや、気がした、ではない。ひどいことを言った。ワンダの片思いを知っていた。同じ仲間として旅をしながら、その相手と恋人になったのは僕だ。その僕が、何を気軽に言っているのだろう。
口説けばよかったのに。まるで、彼がちょっとした機会を逃しただけのように。冗談だよ、と言いそうになった。それを言えば、今度は彼の気持ちまで冗談にしてしまう気がして、僕は口を閉じた。ワンダは食器を置いた。表情は、ほとんど変わっていなかった。
「傷心につけ込むようなことは、したくない」
静かな返事だった。
「……うん」
「落ち込んで、先がよく見えなくなっているときに、俺を選んでほしいとは思わない」
彼は少し言葉を探した。
「俺がそうしてほしいから、そばにいる。そういうことには、したくなかった」
僕は杯を置いた。机に触れた底が、小さな音を立てる。
「じゃあ、何も言わなかったの?」
「ああ」
「エステルに?」
「言わなかった」
短い答えに、言い訳はなかった。
自分がどれほど立派か説明するための言葉でもない。ただ、彼はそう考えて、そうしなかったのだ。ワンダらしかった。あまりにも、僕の知っているワンダらしい答えだった。
僕なら、どうしただろう。好きな相手がいて、そのそばにいられる機会があって。慰める言葉に自分への好意を期待したり、頼られることを都合よく受け取ったり、しなかったと言い切れるだろうか。
言い切れない。そもそも今、彼の片思いを、暗い空気を変えるための話題に使おうとしたばかりだ。自分が、ひどく汚く思えた。
「……変なことを言った」
「そうか?」
「そうだよ」
ワンダは僕を見た。
「お前が気にすることじゃない」
「でも」
「俺がどうしたかったかって話だろう。今、答えた」
責められたほうが、まだ楽だったかもしれない。無神経だと怒ってくれれば、素直に謝れた。嫌な奴だと呆れられれば、今のは本当にそうだったと言えた。でも、ワンダは僕を責めなかった。僕は、彼の名前を呼んだ。
「……ワンダ」
囁くような声になった。
続く言葉が見つからない。彼はその声を聞いて、少しだけ笑った。困ったような、自分を笑うような顔だった。
「俺は馬鹿なんだよ、レイン」
僕は顔を上げた。ワンダは目を伏せ、置いた食器へ視線を落とした。
「まだ、エステルのことを想っている」
食堂のどこかで、給仕が客へ挨拶をした。すぐ隣のテーブルでは、新しく運ばれた料理の説明が始まっている。こちらの席だけが、取り残されたように静かだった。
「……まだ?」
聞き返してから、馬鹿な質問だと思った。今、本人がそう言ったばかりなのに。ワンダはうなずいた。
「所帯を持ったと聞けば、諦めがつくと思っていたんだがな」
「つかなかったのかい」
「ああ」
彼は笑ったままだった。
「おかしいだろう。相手はもう、自分の暮らしを始めているのに」
僕は何も言えなかった。
ワンダは、その事実を受け入れている。彼女のそばへ割り込もうとも、選び直させようともしていない。僕に話したことも、きっと本心なのだろう。それでも、気持ちが消えたわけではなかった。
冷静に話せることと、何も感じていないことは違う。僕は彼の笑顔を見ていた。昨日から、何度も見てきた顔だ。落ち着いていて、こちらが何をしても動じなくて、少し腹立たしいくらいの顔。その奥に、まだそんな気持ちが残っているとは思わなかった。
「本当に、馬鹿な男だ」
ワンダは、自分に向けてそう言った。
馬鹿だね、と笑ってやることもできた。次の相手を探せばいい、と軽く言うこともできた。きっと彼は、それを聞いても怒らなかっただろう。けれど、どちらも口にできなかった。
彼がまだエステルを想っていると知って、胸の中に何かが引っかかっていた。申し訳ないのか。悲しいのか。それだけなのか。僕には、まだ分からなかった。
目の前には、温かい料理が並んでいた。ワンダは少し困ったように笑い、僕はその顔から目をそらせずにいた。




