002話『海底都市の竜の巫女』
・(2025.10.16) 大幅な加筆修正を行いました。
・メッテ=メートル トルメッテ=センチメートル
[ エルディア地方 ~ エペ街道 北端 ]
「もう少しで一息着ける場所が見えて来る。それまでどうか辛抱してほしい」
「い、いえ……! 大丈夫です。どうぞ、よしなに……」
緊迫した面持ちで黒馬の手綱を操り、一心不乱に街道を北上しようとする長身の男性の傍で、ラキリエルは精一杯の胆力で平然さを装おうとしていた。
彼の愛馬と思しき黒馬には一人乗り用の鞍しか備えておらず、ラキリエルは彼の前方で密着するようにして座らされている。
走行中に落馬しないよう、男性は手綱を握る右掌とは逆の左掌にて彼女の腰を力強く抱き留め続けていたのであった。
黒尽くめの装束と一体化している被衣を目深に被っているために、彼の表情は伺えないが、きっとラキリエルの救出と安全地帯まで逃げ延びることのみを考えているのだろう。
その必死さが伝わって来なければ、今頃ラキリエルは密着した彼の身体より伝播する異様な高さの体温に呑み込まれてしまっていたのかもしれない……。
「(ご病気というわけではなさそうですし、そういう体質なのでしょう)
(嗚呼、それにしても……まるで揺り籠のような……)」
冷え切った心を温める程の熱は、最後の同胞にして従者であるツェルナーを喪ったばかりの彼女が、正気を保ち続ける救けとなっていた。
[ グラニアム地方 ~ エルディア地方との端境 ]
ラナリキリュート大陸は南部、中央部、北部でそれぞれ文化圏が大きく異なる。
地質や気候の差にともなう生活様式の違いから始まり政治体制、建築物、作物、魔力操作技術まで多岐に渡り様変わりする。
旅の商人や冒険者を相手に営業している宿泊施設の在り方も、その一つ。
比較的気候が安定しており、陸路に於ける人々の往来が盛んな大陸中央部付近では棲息する魔物への対処法も普及していた。
故に、街道沿いもしくは地方と地方と隔てる境目には単独で建設された旅籠屋……即ち、個人経営の宿泊施設が数多く見受けられた。
大抵の旅籠屋は石壁造りの三階建ての地上部に加えて、食料貯蔵庫と従業員のプライベートスペースを兼ねた地下室が存在する。
また巡回中の警邏隊や、商隊、旅芸人の一座等が滞在するための馬舎や馬車置き場が完備されており、敷地の周囲には野盗や魔物の襲撃を防ぐ為の木柵で囲われている。
繁盛している旅籠屋であればあるほど、腕自慢の傭兵や冒険者を雇い入れて防衛力を高めている場合も有り得るだろう。
グレミィル半島は、今でこそラナリア皇国の属領の一つとして併呑されているが元々は大陸中央部で巨大な勢力を誇っていた旧イングレス王国の一部であった。
したがって大陸中央部の文化に深く影響されており、エルディア地方とグラニアム地方の境目には、何軒かの旅籠屋が現在も営業を続けていた。
ラキリエルを救出した男性が立ち寄ったは、正にこの旅籠屋の中の一軒である。
夜通し、あるいはそれ以前から駆け抜け続けていたためか既に疲労の極みにあった黒馬を馬舎の前で停め、相乗りさせていたラキリエルに手を貸して丁重に降りていただくと、黒馬を預けてから旅籠屋の入り口へと彼女を案内した。
空を見上げれば、既に薄明の兆しが見え隠れしている。
[ グラニアム地方 ~ 南端の旅籠屋『祈月の轍 亭』 ]
「ふぁ~~……ああ、いらっしゃい。
こんな時間までご苦労さん、さぞや大変な旅だったんだろうね」
扉を開いた先では、夜番に就いていた従業員がカウンター越しに、気さくに迎え入れてくれる。
誰もが定刻通りの旅を遂行できるわけではないし、夜間に活動する亜人種もこの半島には一定数が存在するので従業員からすれば不審には感じることはない。
時にはこのような時刻に来訪する客も珍しくはないのだろう。
「三階の二人部屋は空いているか? 半日ほど滞在させてほしい。
見ての通り二人だ……それから馬を一頭、停めさせてもらったよ」
要件を伝え、懐より小さな革袋を取り出してカウンターにそっと置いた。
「代金は全額前払いで置いておく。
グレナ銀貨ではなく、エディンでかまわないな?」
「へいへい、もちろん大丈夫ですとも。
上階なら南西と南東の部屋が空いてますから、お好きなほうをどうぞ。
いやぁ、なんとも気前がいいお客さんだ!
そんならサービスで、後で軽食を付けさせていただきますよ」
「……ありがとう。じゃあ鍵は持っていく」
手馴れた口振りで交渉を進める黒尽くめの装束を纏った男性。夜番の従業員のほうも、彼の意図を素早く汲み取り応対していく。
なおグレナ銀貨とは旧イングレス王国の貨幣の一種であることに対し、エディンとはラナリア皇国全域で流通している共通の貨幣である。
グレミィル半島の大抵の店では、どちらでも支払い可能ではあるのだが近年は他のラナリア皇国の属領との交易が盛んになってきており、エディンのほうが圧倒的に有難がられている。
「それにしても……えらい別嬪さんをお連れのようだ。
この辺じゃあ中々に見かけることのない格好をされていますが、
余所から買われてきた奥さんですかい?」
「……そんなところだ。だが余計な詮索は控えてくれ」
「え、奥さん……わたくしが?!」
急に話題とともに好機の視線を向けられて慌てるラキリエルを後目に、男性は従業員の視界を遮るように彼女の前に立ち、部屋の鍵を受け取ってから三階へ続く階段へと彼女を先導した。
「先程は目の前で無礼なやり取りを聞かせてしまって申し訳ない」
三階の南東、空いていた二人部屋に入ると開口一番に男性が謝罪の言葉を発するとともに軽く頭を下げてきた。
入口での従業員から投げられた言葉のことを指しているのだろう。
「いえ、ああいうのが一般の方々の軽い挨拶みたいなものなのだと
従者の方々から耳にしたことはありましたので……」
「そうか……なら良いんだが」
恐らく全く理解していないな、と察したものの敢えて言及するような野暮な真似は控えておいた。
従業員が言い放った「余所から買われた奥さん」とは主に娼婦のことを指す。
彼からすれば夜間行動主体の種族でもない者がこんな夜明け前の時刻に来訪して二人部屋を所望したのだから、不審には思わないまでも興味は懐くものである。
精々、何かしらワケアリな放蕩貴族が愛人または娼婦でも連れて密会を楽しもうとしているように映ったのだろう。
「後で軽食を付けさせていただきます」というのも、行為が終わるまで干渉しないという暗喩である。
ともあれ追手からラキリエルを遠ざけたい男性にとっては都合の良さそうな勘繰りだったので、そのまま話を合わせたのだ。
そうして宿泊部屋の扉を締めながら、聞き耳を立てている者が存在しないことを確認した後に、装束の一部である被衣を脱いで素顔を露わにした。
「すっかり申し遅れてしまったが、まずは名乗らせていただこう。
俺の名はサダューイン・エヌウィグス・エデルギス。
このグレミィル半島を治めるエデルギウス家の一員で、現大領主の弟に当たる」
「っ! エデルギウス家の、サダューイン……様」
男性の正体と、黒尽くめの装束の奥に秘匿されていた容姿を検め、ラキリエルは思わず息を呑んだ。
「君の従者、ツェルナー殿といったかな?
彼から保護の要請を旨とする報せを受けて、救援に馳せ参じた。
残念ながら追手の野蛮さが予想以上だったために、
彼を救うことは適わなかった……改めて力不足をお詫びしたい」
自己紹介と同時に、従者を救えなかったことに対して今度は深々と首を垂れて謝罪の意を示す。
黒尽くめの装束の男性改めサダューインは、一メッテと九十トルメッテ近くの長身に、真珠の如き銀輝の髪が特徴の美丈夫といって良い風貌であるが、左目は翡翠を彷彿とさせる眼球であることに対して右目の瞳は異質な黄金色の上に爬虫類を思わせる瞳孔をしていた。
とはいえ一つ一つの所作から、教養の高さを伺わせるには十二分であった。
故にエデルギウス家の一員というのも法螺ではない、とラキリエルは確信する。
そして改めて己が置かれた状況と、故郷を脱してから今日まで導き続けてくれた従者を喪ったことを実感し、肩を震わせながらも哀悼の意を表するべく、その場で短い黙祷とともにツェルナーの魂が正しく巡るよう祈りを込めた。
「いいえ、サダューイン様! どうかお顔を上げてください
ツェルナーのことは耐え難い悲しみではありますが、
彼はわたくし達が故郷を発った日から覚悟を決めておりました」
短い祈りを捧げた後に、次いで眼前で謝罪の意を示す美丈夫へと向き直る。
「いずれ正式な弔いの機会を設けてあげたいとは思いますが、
今は危険を顧みずに救援に赴いてくださった貴方と、
街道を駆け抜けて来られた騎士様方に心より感謝させていただきます」
眼前で両手を重ねて相掌し、恭しくお辞儀をする。
これが、彼女の故郷での最上位の感謝を示す作法なのだろう。
「こちらこそ申し遅れました。
わたくしはラキリエル……ラキリエル・ミーレル・ファルシアムと申します。
力無き我々の願いを聞き遂げてくださったばかりか、
自らご足労いただいたことに深く痛み入るばかりです」
視線をサダューインの瞳に合わせるべく顔を上げる。
かなりの身長差があるために、少しだけ首が痛い。
「既にツェルナーからの手紙を読まれたのなら、ご存じかと思いますが
この地より東の方角に位置します、アルドナ内海の遥か水の底、
海底都市ハルモレシアより参りました」
グレミィル半島からすれば南イングレス領を跨いだ先に位置し、大陸中央部から南部に掛けて大きく広がっている最大規模の湾をアルドナ内海と呼ぶ。
仮に陸路で直線的に向かったとしても一月以上は要する距離であり、追手から逃れながら亡命するとなれば更に日数が嵩むことは容易に想像できた。
「故郷では海神龍ハルモアラァト様の"声"を届ける巫女として生きて参りました。
ですが、ある日ラナリア皇国の艦が海底を訪れて、警告なく襲い掛かりました」
亡び逝く故郷の凄惨な光景を思い出し、ラキリエルの表情が大いに曇る。
「一晩のうちにハルモレシア中に呪詛と炎が蔓延し、地獄絵図と化しました。
数多の犠牲と引き換えに、わたくしと少数の従者だけが辛うじて脱出に成功して 恥ずかしくも生き延びてしまったというわけです……うっ、うぅ……」
「……いや、君だけでも救うことができて良かったよ。
辛い境遇であることは承知しているが、どうか気を強く保ってほしい。
生き延びることが出来たということは何らかの導きがあったのだろう」
瞳に涙を浮かべ始めたラキリエルの眼前へ一歩踏み出し、極自然な所作で両腕を広げながら抱き締めた。
一見すると細身に見えるが、極限まで鍛え上げられた肉体による胸板は分厚く、抱擁により伝播する熱に包まれた彼女の悲しみは、一時的に和らげられていった。
「我らが領土に亡命したからには、例え本国からの追手だとしても
奴等に好き勝手な真似はさせないさ……君の身柄と尊厳は、俺達が必ず護る!」
「サダューイン様……」
偽り無き本心。真っ向からの言葉を受け思わずラキリエルは頬を朱色に染める。そうして彼女が落ち着くのを待ってから、サダューインは抱擁を解いた。
「それにしても海神龍を奉る海底都市の巫女……か。非常に興味深い。
母上の生家に遺されていた書物で、そのような記述を目にした記憶があるが
こうして実在する住人の姿を目の当たりとする日が来ようとはね」
遥か古の時代では、地上世界には神々と呼ばれる上位存在だった者達が君臨し、人々は彼等を信奉していた。……と限られた書物や、古来より続く氏族の口伝などでのみ辛うじて伝えられている。
そして彼女の故郷である海底都市の海神龍とは、奇跡的に地上世界で生き残った神性存在か、或いはその残滓なのかもしれないが詳細は不明。
いずれにせよ一般的には神々などという存在は、忘れ去られて久しい遺物であり進化を繰り返された純人種にとっては、取るに足らない矮小な概念に過ぎない。
「(書物で目にしたとおっしゃっておられますが)
(そのような本が、そう滅多に遺されているとは思えません)
(サダューイン様は大層な読書家で努力家、そして探求心がお有りなのですね)」
もしサダューインがここまで博識でなかったとしたら、従者ツェルナーが伝えた亡命の要望など絵空事だと一笑に伏していたことであろう。
救援に駆け付ける検討すら成されていなかった可能性は高い。
事実として、ラキリエル達はグレミィル半島に辿り着く前にも北イングレスと呼ばれる地で逃げ隠れしていたのだが、亡命を受け入れてくれる者は現れなかった。
「ラキリエル殿、先ずはグレミィル半島へようこそ!
貴殿達に嗾けられた追手の正体は非常に気掛かりではあるが、
我らエデルギウスの者が、この家名と紋章に懸けて貴殿の身の安全を保証する」
黒尽くめの装束の一部に刻印された、大樹と剣をモチーフとした紋章を示す。
これこそがエデルギウス家の家紋なのだろう。
「謹んで貴家の温情と保護に縋らせていただきます。
サダューイン様は、あの者達について心当たりがお有りだったのですか?」
「ああ、奴等は最上位の冒険者ギルド『ベルガンクス』の一員だ……。
悪名高く、善悪問わずに興味を懐いた依頼を率先して熟そうとする自由人達。
その分、腕は確かなんだが 凄まじく高額な依頼料を要求することで有名だ」
「まあ……! 道理で高価な魔具や武器を使っていたわけですね」
悪漢達の一人一人が魔具製の提燈を持っていたこともそうなのだが、「お頭」と呼ばれていた巨漢の男……バランガロンが振るっていた大戦斧も、一目で逸品であることが判る素晴らしく上等な武器であった。
「奴等が興味を示す依頼の多くは、世界的に希少な秘宝が絡むことが多い。
……何か心当たりはあるかな?」
「……ッ!? そ、それは」
明らかにラキリエルが動揺し始める。恐らくは海底都市に纏わる重大な代物を持ち出して来たのではないか……とサダューインは瞬時に察した。
「ふっ、まあ追々にでも話してくれれば良いさ。
ともあれ奴等を雇用できるだけの資金力を持った人物が背後に居るのだろうな」
『ベルガンクス』は油断ならぬ難敵だが、大局的には尖兵に過ぎない。
警戒すべきはその雇い主と、海底都市に襲い掛かったラナリア皇国の艦である。
「ありがとうございます……いずれ必ず、全てお話いたします……」
「ラキリエル殿の状況が落ち着いてからでかまわないさ。
とりあえず今日のところは、この宿で充分な睡眠を採ったほうが良い。
察するに、長らく船での逃亡生活が続いていたのだろうしね」
「そのお言葉に甘えさせていただきます。ですがその前に……、
わたくしのことは、ただのラキリエルと呼んでいただけないでしょうか」
故郷を失い、奉るべき海神龍の遺骸も海の藻屑と化した。
その現実を受け入れるためにも巫女ではなく、貴人でもなく、只の個人として、今後の人生を自らの脚で歩んでいくためにも敬称で呼ばれることを拒んだ。
「ふむ、ではラキリエル。
俺は暫くそこの机で伝文を綴っているから、君は先に休むと良い。
他には誰も、この部屋に入れる心算はない」
部屋内に備え付けられた簡素な机と、それなりに上等な造りの寝台を指差す。
厳しい逃亡生活で疲弊した彼女を安心させるために、サダューインは極めて優しい声色を心掛けて諭した。
「そうして君の身体の調子が戻ってきたのなら、
グラニアム地方の城塞都市ヴィートボルグへ向けて発とうと思う。
そうでなければ、もう二~三日くらいは様子を見て滞在しよう」
「何から何まで本当にありがとうございます。
……それでは、失礼……いたします………」
既に疲労が極限まで達していたのか、安堵と共に急激に微睡始めた。
羽織っていた白い法衣だけ脱いで行儀よく畳むと、寝台の脇に置いてから清潔な布団に倒れ込むようにして深い眠りに着いていった……。
数秒と経たないうちに、静かで安らかな微かな寝息が等間隔で響き始める。
「もう少し警戒されるとも思っていたが、それだけ疲れきっていたということか」
救援に駆け付けた者とはいえ、仮にも異性との相部屋だ。
然るべき非難は覚悟しての申し出であったが、予想以上にあっさりと状況を受け入れた彼女に対して、拍子抜けすると同時に憐憫の情を懐いた。
「スー……スー……」
「本当に過酷な旅路だったのだろうな……不憫な娘だ」
美女の面貌には疲労の相が色濃く滲んではいたが、それでも彼女が持って産まれた無垢なる輝き……貴人としての質は聊かも損なわれてはいなかった。
正直なところ、サダューインは草地の茂みに潜伏しながら、悪漢達より逃げ惑う彼女の姿を一目見た時より見惚れていた。
彼と深い関係にある者の中には、ラキリエルに酷似した容姿の女性が存在するのだが、その者とは別種の存在感を放っており、故に目を離す事が出来なくなった。
己とは異なる世界で生きて来た貴人。
そしてこれからも、本質的に交わることは許されない無垢なる女性。
サダューインが抱える数多の"腕"を伸ばしても、掴み獲れない遠い遠い存在。
だからこそ、これまで関わってきた如何なる女性達よりも純粋に惹かれるのだ。
「俺のような穢れた存在には、彼女は眩し過ぎる……」
椅子に腰掛けながら左腕の袖を捲り上げると、そこには魔具製の包帯で厳重に巻かれた腕が垣間見えた。そしてゆっくりと、その包帯を解いていく。
定期的に交換しなければならないと直属の部下から忠告を受けているからだ。
「今の内に全ての包帯を換えておいた方が良いな」
包帯が解かれた彼の左腕は、ヒトのものではなかった……。
肘から下の二の腕には痛々しい縫合痕が刻まれており、その先は真紅の鱗で追われた亜人種の腕が備わっている。
識者が検分したならば、竜人種の左腕を移植したのだと分析することだろう。
それだけではない、上腕部には濁った翡翠の如き結晶体で覆われていたのだ。
「……まだ動いてくれよ。これからが大変な時期となるのだから」
己の腕に生え渡る濁った翡翠に向けて厳しい視線を傾けた。
この結晶体こそが、現在のグレミィル半島を影から蝕む謎の呪詛の一端。
サダューインやノイシュリーベの両親は、この悍ましき呪詛によって完全なる結晶体へと姿を変え、粉々に砕かれた末に焼却されるという非業の死を遂げたのだ。
そして息子である彼の左腕もまた同種の呪詛によって侵され始めていた……。
それから半刻の時が経過した。 (※約一時間)
包帯の交換を済ませてから、暫し机に向かって伝文を綴っていたサダューインは、ふとラキリエルが安らかに寝入ったかどうか気になり椅子から立ち上がった。
彼女が横たわる寝台の傍へと赴いて寝姿を見詰めていると、彼女の身体の周囲より静かに漂う深い魔力と、常時展開している魔法の痕跡に気付いたのである。
「珍しい魔力の波長だな、これは……もしや古代の……?
アルダイン魔導帝国時代に編み出された存在置換の魔法、なのか」
持前の博識さにもの言わせた検分により彼女の身体に施された秘法を類推する。
「成程、興味深い。俺が今 視ている彼女の肉体は、
古代魔法によって換えられた偽りの姿というわけか」
視界に映るラキリエルの容姿は、純人種の女性そのものであった。
しかし海の底で海神龍と共に暮らしてきた以上は純人種である筈はないのだ。
そして海底都市の住人が本来の姿のまま陸に上がって生活することは出来ない。ましてや追手から逃亡し続けなければならない状況ならば尚更に。
必然的に何等かの手管を用いて地上の環境に適応する必要があったのだろう。
「(擬態というよりは地上で暮らすための、もう一つの姿といったところか)
(だからこそ彼女から感じるこの無垢な輝きだけは、偽りではないのだろう)」
そして海底に潜伏したまま難を避けることが許されなかったからこそ、地上のグレミィル半島まで逃れなければならなかったのだろう。
海底都市で起こった惨事が如何に凄惨であったのかを改めて感じさせられた。
詳しい事情までは従者の手紙には記されていなかった。
であれば折を見て直接、彼女が持ち出したという海底都市の秘宝と合わせて、聴かせて貰うより他に知る術は無いのだろう。
「我が両親や、俺の左腕を蝕むこの呪詛……『灰礬呪』の浸透が
看過できなくなりつつある時期に、海底都市の竜の巫女が現れた。
これは偶然か? それとも……誰かが仕組んだ戯曲なのか?」
願わくば前者であって欲しいと零しながら神妙な面持ちで浮かべ、安らかな寝息を立てるラキリエルの美しき面貌を暫く眺めていた。
斯くして大領主の弟であるサダューインの不吉な予感は、遠くない未来に於いて的中していくことになるのである――
【Result】
・第2話を読んで下さり、誠にありがとうございました。
次なる第3話はエペ街道で交戦した悪漢達のシーンを挟む予定をしております。
そしてサダューインとラキリエルのお話の続きは第9話からの予定となっておりますので、どうぞ ご期待ください!
・時折、物語の舞台の説明を添えさせていただいておりますが
プロローグⅡの後書き欄にてMAPのイメージ図を掲載しておりますので、
もし良ければ、そちらと照らし合わせてお楽しみいただければ幸いです。