017話『白亜の壁の裡へ』(1)
グレミィル半島と南イングレス領の間には『ナグファルルス海峡』と呼ばれている南北に伸びた長大なる水の路が広がっていた。
更にこの海峡より枝分かれするかの如く、大小様々な幾つかの河が派生しており中でもグラニアム地方へと延びる『グリスナ大河』は半島内で最大規模の河川として知られている。
グリスナ大河の伸びる先にはグレミィル半島の丁度 中央に位置し、半島内では二番目に大きな湖……『シーリア湖』が風光明媚な景観を形成していた。
平時に於いては訪れた者達の心を打つことで、近年はラナリア皇国内でも有名な観光名所になりつつあったのだ。
然れど、このグリスナ大河からシーリア湖へと繋がる一帯は、古来より半島に住まう者達を南北の領界で隔てきた過去を持つ。
南部で暮らす純人種達……『人の民』と、北部のグラナーシュ大森林に棲息する亜人種達……『森の民』の生息域を別つ絶対的な境界線であったのだ。
その長い歴史の中で、シーリア湖に隣接する小高い丘陵地帯には『人の民』の防衛拠点が築かれていったことは必然の流れであった。
多くの血を流した種族間の諍いの果て。年月の経過にともない増改築を繰り返された城塞は、いつしか『鮮血で染めあげられる境界線』と呼ばれるに至った。
ところが英雄にして先代の大領主ベルナルドの代になってからは『人の民』と『森の民』が友誼を結び、少しずつ種族間の軋轢を埋めていった結果、現在では『尊重すべき境界線』として生まれ変わっている。
生活様式や価値観の違い、過去の確執などから完全には交わることのできない二つの民の橋渡しを行い、互いの領界を保持し合うための要衝と成り得たのだ。
[ 城塞都市ヴィートボルグ ~ ヴィンターブロット丘陵 ]
グレミィル半島に於ける最大の都市にして、丘の上に聳え立つ白亜の城壁。
二層構造から成る多重環状外壁の外側の壁に守られた一帯ではグリスナ大河の恩恵を余すことなく享受して発展を遂げ、戦を鬻ぐ者達の血と熱と欲と矜持とによって盛大に栄えてきた市街地が広がっていた。
更に、内側の壁の奥ともなれば、峻険な地勢を利用した堅牢な防衛設備により守られている鉄壁の城館が威風堂々と建っているのだ。
そんな城塞都市へ至るまでの丘陵地帯では、緩やかな箇所の傾斜に沿って蛇行する路が整備されており、頑丈な石材で編まれた坂道を登っていくと合計二十棟から成る側防塔を備えた外側の城壁が視界に入ってくることだろう。
グラニアム地方を渡る長き道程の果てに、サダューインとラキリエルの二人はついに城塞都市ヴィートボルグへと辿り着いたのである。
「大きい……です」
白亜の城壁の出入り口を担っている鋼鉄の塊で象られた門扉の傍まで近寄ったラキリエルは黒馬リジルの馬上にて、まるで海底から断崖を見上げるかのような所感を懐き、思わず感嘆とした声を零してしまった。
質実剛健な無骨さの体現。その威容を、ただただ見上げることしか出来ない。
門扉の両隣には、これまた巨大で無骨な四角柱の側防塔が左右一対となって聳え立っており、これだけでも並の要塞施設に匹敵しそうであった。
「最初は丘の上に立つ小さな砦だったそうだが、数百年もの年月を重ねていく間にここまで巨大な壁になったそうだ。
代々の大領主達が、如何に『森の民』を恐れてきたのかが伺える」
「戦いの歴史によって積み上げられていったお城なのですね」
「その通り。だからこそ現在では半島の秩序と平穏の象徴、そして二つの民の
橋渡しの場として在り続けてほしいと誰もが願っている」
ラキリエルに倣ってサダューインも門扉を見上げ、嘘偽りのない想いを説く。
「……さて、もうすぐこの鋼鉄の扉が開く時間だ、少し待っていよう。
開門は一日の間に三回行われる。朝と昼、そして夕刻には壁の外の田畑を耕している農民達が自宅へと帰るためにね」
既に空は茜色に染まっている。黄昏時の白亜の城壁の周囲には、土に塗れた手に農具を携えた者達が一日の仕事を終えて帰路に着くべく賑わいを見せていた。
ラキリエルがその様子をどこか寂しそうな瞳で眺めるのは、故郷を蹂躙されて帰るべき場所を失ったからであろう。
そんな彼女の心境を察したサダューインは開門を待つ一群の中に混ざりつつ、さり気なく彼女の肩に掌を添え、耳元で優しく声を掛けた。
「君の生活が落ち着いた後も、好きなだけここで暮らしてくれてかまわない。
『尊重すべき境界線』は同胞に仇成す者以外を須らく受け容れる。
……姉上もきっと同じことを仰られる筈さ」
「本当にここまで良くしていただいて、なんと御礼を申し上げれば良いか……」
「君が健やかに、少しでも安らかな人生を送れるようになるのなら
それが俺達にとっての報酬であり栄誉だ。君の救けに、なりたいんだ」
「はい……ありがとうございます。
わたくしも、いつかサダューイン様のお役に立てるように
精一杯ここでの生活に順応していきたいと思います」
朱色に染まる面貌で一度瞼を閉じ、少しだけ気持ちを整えてから目を開く。
背後で手綱を操るサダューインの方へと向き直ると、微笑を浮かべながら今できる限りの御礼の言葉を口にして、そっと彼に体重を預けたのだ。
「(わたくしも、この御方が抱えていらっしゃるものを知りたい……)
(そして少しでも救け合えるようになりたい……)」
複雑な経緯ではあったものの、彼に導かれて垣間見たグラニアム地方の景色、厳しくも美しい外の世界の光景の数々は、鮮烈なる記憶となって刻まれていた。
悪漢達に攫われる寸前で救出に駆け付けてくれただけでなく城塞都市に至るまでの道中で何度も優しい言葉を掛けてくれたサダューインの存在は、ラキリエルの中で既に途方もなく大きなものとなっていたのだ。
故郷が滅ぶ光景を目に焼き付けながら落ち延び、行く先々で一人、また一人と僅かに生き残った同胞達もラキリエルを生かすために率先して身を投げ打った。そして遂には、最後に残った従者ツェルナーすらも喪った。
今、ラキリエルの心が壊れずに原型を保てているのは、この美丈夫が常に傍に居てくれたからこそ。
ならば、心を奪われるな というほうが 酷な話ではないか。
幼いころから繰り返し焦がれ続けた『翳の英雄と群青の姫君』という御伽噺の登場人物に、己とこの美丈夫を重ねてしまうほどに、少女の心と貌は蕩かされたのだ。
「…………」
「…………」
それから門扉を通過するまでの間、特にお互い言葉を発することはなかった。
黄昏時の橙色に伸びる輝きは、ただただ二人を優しく包み込んでくれていた。
朱色に染まる頬も、早鐘を打つ胸の鼓動も、体重を預けた先で感じる温もりも、
全ては宵闇の帳とともに隠してくれるのだから――
・第17話の1節目をお読み下さり、ありがとうございました!
・いよいよ主人公姉弟の本拠地である城塞都市ヴィートボルグへ到着です。
ヴィートボルグのモチーフは、カルカソンヌ城やスオメンリンナ要塞、そして某国民的RPGの竜王の城などなど・・・。
・第3章辺りでは本格的な攻城戦を予定しておりますので、今のうちから少しずつ描写を加えていきたいと考えています。