001話『嵐の夜を越えて』
ラナリア皇国に編纂されたグレミィル半島は、大別して十の地方によって成り立っている。
南部の五地方、純人種である『人の民』が住まう土地にはそれぞれの地方で最も有力な貴族家が管轄を担っている。
北部の五地方、即ち『大森界』を区分けした土地では亜人種である『森の民』の各氏族が伝統的な支配体制を築いていた。
これらを統括するのが姉弟の父、ベルナルドの代からのエデルギウス家の使命であり、グレミィル侯爵の権限として認められている。
尤も、大戦期以前のエデルギウス家は貴族ではあったものの、十の地方の一つ、グラニアム地方にささやかな領地を持つだけの政治的影響力の低い家柄であった。
そんなグレミィル半島の南部側に位置するエルディア地方には、半島どころかラナリア皇国内でも有数の港湾都市エーデルダリアを要していた。
皇国の西側に広がるナーペリア海を往来する多数の船舶が日夜 入れ違いに入出港を繰り返し、皇都リゼリシアとの交易路が解禁されてからは数多の富を半島に齎し続けている。
栄えた都市、その艶やかな街並みから少し離れた場所にて、サグレナ岬という誰も近寄らない峻険な崖地が存在しているのだが、この日は例外的に一艘の舟が漂着し、二人組の男女が覚束ない足取りで宵闇の中にも関わらず上陸を果たしていた。
二人組の片割れの男性が周囲を入念に見渡し、後から上陸した女性を先導する。その挙措は丁重で、高貴なる人物を遇するかの如し。
おそらく男性は従者の身分、女性の方はその主筋に該当する貴人なのだろう。互いの衣装を鑑みても女性の方は一段と質の良さそうな白き法衣を身に纏っている。
女性の容姿も衣服に劣らず高貴さを纏っていた。
整った顔立ち、疲弊の色が顕れてはいるがそれでも健康的で美しき肌、薄めの黄金色の髪は腰まで届く長さで纏まっており、手足はすらりと長く、まず美女といって差し支えない完成された美貌といえた。
そんな彼女を導く従者もまた同様の肌と髪の色なれど、頭髪はオールバックで整えられており、角眼鏡を掛けた面貌は如何にも生真面目そうな雰囲気を醸し出していた。
「ラキリエル様、お急ぎください。どうにか上陸に成功したとはいえ、ボルトディクス公に与する者が放った悪漢達の船も既に港湾都市へ入っております。
夜通しの移動となりますが、どうかお覚悟を……」
忸怩たる想いが滲み出ている様が如実に伝わってくる程に、従者の男性は心の底より申し訳なさそうに進言した。
「悪漢達を撒いてこの地の街道沿いの旅籠屋まで辿り着ければ、暫くの間は休息を採れることでしょう。それまで、どうかご辛抱下さい」
「ええ、ツェルナー。身を挺して わたくしを追手から逃してくださった衛兵の皆様方の意思を無碍にしない為にも今はただ進み続けましょう……。
貴方にも多大な負担を架してしまい申し訳ありません」
「勿体ないお言葉です! ラキリエル様の御身と、我らが故郷が誇る秘宝は我が命に代えてでもお護りいたします」
ツェルナーと呼ばれた従者が恭しく首を垂れて一礼した後に、再び周囲を警戒しつつ宵闇の直中を人知れず突き進み、最寄りの街道を目指していった。
現在の季節は春の終わりから夏の入り口に差し掛かる頃合い。グレミィル半島の西側に広がるナーペリア海では嵐が最も多く発生する時期であり、予定より大幅に遅れてサグレナ岬に漂着することになったのも、この時期の天候の影響を大いに受けた結果であった。
一刻ほど歩き通したころ、二人組はエルディア地方を南北に横断するためのエペ街道へと辿り着く。
この街道を北上していけば、隣接するグラニアム地方との境目へと至り、地方と地方の間には旅の商人や冒険者を相手に宿泊業を営む旅籠屋が建っている筈である。
安堵しかけた二人組は、しかし街道付近に無数に灯る提燈の輝きを見咎めて急速に表情を強張らせた。
その提燈は乱雑な間隔で灯されており、どう見ても地方を移動中の商隊や警邏隊といった風情ではない。追手である悪漢達が待ち伏せしていたのだ。
「……拙いですね。あれは魔具の携行提燈です。
一人一人がそんな高価な装備を身に着けているとなると、あの者達はさぞや羽振りの良い、強力な冒険者ギルドの一員か何かでしょう。
ボルトディクス公に与する者が金に糸目を付けず雇い入れたか……」
「彼等とは、まだ二百メッテほど距離が開いています。このまま音を立てずに迂回することはできないのでしょうか?」
「残念ながら、強力な冒険者ギルドであれば索敵能力に優れた者も在籍している筈。おそらく我々のことは既に……ッ!?」
危機的状況からか苦渋に満ちた表情を浮かべるツェルナー。
説明の最中にて急遽、大きく瞳孔を見開いた、次の瞬間……。
ヒュン…… バ ズン !!
突如、彼の頭部に何かが飛来し、激突と同時に大量の血飛沫を挙げて仰向けに倒れる。
飛んできたのは小振りの片手斧。今際の叫びを挙げる間もなく絶命したのだ。
「えっ? ……え? きゃああ!」
突然の事態の把握に数秒を要し、無残な骸と化した従者の姿を見咎めたラキリエルが悲鳴を挙げる。
それを皮切りとして街道付近に屯していた悪漢達が一斉に押し寄せ、彼女を包囲してしまった。迅速にして無駄のない動き、間違いなく手馴れている。
「へっへっへ……居やしたぜお頭ぁ!
奴等、エーデルダリアじゃなくて隣の地方へ逃げ込もうとしてやがりますよ。勘のいい連中だぁ~」
包囲する悪漢達を掻き別けながら、小柄な純人種の男性がツェルナーの亡骸とラキリエルを検分しつつ後ろに控える総大将へと声を掛けた。
焦げ茶色の癖毛と放置された無精髭は自堕落さを醸し出し、卑屈さが滲み出る面貌からは人生に草臥れた様子を垣間見せる中年といったところであろうか。
「おう、良くやったぞグプタ! お前の読み通りだったなぁ、ガハハハハッ!!」
グプタと呼ばれた小柄な男の背後より、凄まじい巨漢が姿を現した。
「よーし、お前等! 生意気にも俺様達の船から逃げ腐った獲物共がやっと網に掛かりやがった。後は例のお宝をぶん獲ってから、思う存分お楽しみといこうじゃねーか!」
初老と思しき白髪に白髭を携えた風采なれど活力に満ち溢れ、筋骨隆々にして全身に刻まれた傷痕が歴戦の無頼漢であることを物語っている。
この悪漢達を纏め上げる立場の者なのだろう。
巨漢の男に呼応するかの如く、周囲の悪漢達が下卑た表情を浮かべながら躙り寄る。絶体絶命とは正にこのことか。
然れど常理は、ラキリエルの命運を見放さなかった。街道の北側の方角より、砂塵を巻き上げながら急接近する馬蹄の音が鳴り響く。
騎兵の一団。それも隊列の見事さから、かなりの練度であることが伺えた。
「貴様達、話に挙がっていた亡命を願い出た者を付け狙う破落戸だな?
我が領地での蛮行を即座に止めよ!」
先頭を駆ける、白く輝く甲冑を着込んだ騎士が凛とした声色で悪漢達へ警告。
既に悪漢達が平穏を乱す輩で、包囲されたラキリエルが庇護すべき者であることを前提としたかのような口振りだ。
「あぁん……? 巡回の警邏隊か? それにしちゃ豪勢な鎧を着てやがる」
「うわわわ……お頭! あれはこの半島の大領主が率いる精鋭騎士団の旗ですぜ。
たしか『翠聖騎士団』とか云われてる連中でさぁ。
普段は隣のグラニアム地方の城塞都市に駐屯してる筈なんですがねぇ?!」
「……はぁ? 何でそんな連中が、こんなに早く隣の地方まで出て来やがるんだ。
気に要らねぇ! 仕組まれてんなぁ、こりゃあ!!」
巨漢の男が悪態を突きつつも、背負っていた大戦斧を引き抜き臨戦態勢に移る。
それに応じて周囲の悪漢達も提燈を足元に置き、各々が持参する使い込んだ得物を構えた。
「おうおう、精鋭騎士だかなんだか知らねえが
このバランガロン様のシノギを邪魔するとぁは、いい度胸してやがる」
騎士の放った警告を正面から突っ撥ねたばかりか、堂々と応戦の構えを採る。
「小娘を追い回すのも飽き飽きしていたところだ!
鬱憤晴らしに手前ぇ等の首も跳ね飛ばして
そのクソ高そうな鎧を売り払って大宴会を開いてやるぜ! ガハハハッ!」
大戦斧を高らかに掲げた巨漢の男―――バランガロンが宣言すると、彼が率いる悪漢達もそれに応じて怒号を発した。
「……下郎が。見知りおけ! 我こそはこのグレミィル半島を統べるエデルギウス家の当主、ノイシュリーベ・ファル・シドラ・エデルギウス・グレミィル!
余所から流れ込んだ悪辣者をのさばらせておくほど、私が率いる騎士達は寛容ではない!」
先頭を駆けるノイシュリーベが馬足を速める。駈足から突撃体勢へ。
彼女が率いる騎士達も同様に馬足を増して騎槍の穂先を悪漢達へと傾けた。
騎士達の接近に備える悪漢達。彼等もまた烏合の衆ではないとばかりに各々が手にしていた片手斧を投擲し、短弓を射掛け、長槍を突き出して騎馬突撃に対する緊急の迎撃策を試みるが、ノイシュリーベと、その愛馬の疾走はまるで威勢を損なう素振りを見せない。
「グレミィルの空を巡る、大いなる原初の風の精霊達に希う。
我が身、我が領、我が腕! 巡りて循る、環にして圏と成れ!
『――風域を統べし戴冠圏』!」
手綱を操りながら朗々と詠唱句を唄い挙げて魔法を発動させ、自身の周囲に豪風の膜を築いてみせる。
さすらば飛来する斧や矢の悉くは、先頭を駆ける騎士を避けるようにして、明後日の方角へと飛び散っていった。まさに王に近寄る不埒者を撥ね退ける絶対防護領域といった具合である。
「風の魔法で防護圏を張りやがったってとこですかい。
突撃中の馬に乗りながらやるなんて正気の沙汰じゃあない。
舌を噛まないのが不思議だぁ……って、そんなこと言ってる場合じゃないぞ、こりゃあ!!」
目敏くノイシュリーベの手管を検分していたグプタであったが、次に起こるであろう事態を予測して、慌てた様子で咄嗟にその場を飛び退いた。
果たして彼の目算は正しく、飛び道具を防いだ豪風の膜は、そのまま彼女が握る斧槍の刀身へと収束されていく。
「研ぎ澄ませ、グリュングリント! 嵐を纏い蹂躙せよ。
――――『過剰吶喊槍』! 突撃!!」
白く輝く甲冑のうち、肩と腰の草摺りに該当する箇所が彼女の意思により稼働。
装甲内に設えられている噴射口を後方へと傾けるように変形・展開した後に、風魔法によって起こした豪風を一挙に放出。
愛馬の走力が瞬間的に強化され、吶喊の勢いもまた飛躍的に向上するのだ。
数秒の後にノイシュリーベを先頭とした『翠聖騎士団』が悪漢達と克ち合う。
ビュゥゥゥゥゥ…… カ ッ ! ドゴォォォン!!
豪風の膜を収束させた斧槍を突き出すと、蓄えられていたエネルギーが一挙に解放され、対騎兵用の長槍を構える悪漢達を爆風によって紙屑の如く吹き飛ばした。
更に後続する騎士達が騎馬突撃の有効性を存分に発揮して悪漢を躙っていく。
そうしてラキリエルを包囲していた人員の半数近くを一挙に削り潰した後に、街道上に即席の攻勢陣地を築いて生き残った悪漢と手堅く切り結んでいった。
一方で、自慢の大戦斧を盾代わりにしてノイシュリーベ達の突撃を耐え凌いでみせたバランガロンは、大質量の得物を巨躯に物言わせて振り回しながら反撃に転じ始めており、一帯では乱戦の様相を呈し始める。
悪漢達の総数は約七十名、ノイシュリーベ率いる騎兵は十騎ほど。
数の上ではノイシュリーベ側が圧倒的に不利なれど、初撃で半数を潰したことに加え、大領主であるグレミィル侯爵が直接率いることによる士気の高さが五分五分の戦いを描いていた。
むしろ悪漢達のほうこそ、精鋭騎士を相手によく奮闘していると称えるべきである。
「はぁぁ……これだから田舎は嫌なんでさぁ。
こうなりゃ、とっとと秘宝を隠し持ってる巫女さんだけ確保してずらかるのが一番ってなもんだ」
乱戦に参加する気がないグプタは、より草臥れた表情を浮かべながらラキリエルに近寄ると彼女を連れて一人でさっさと逃げ隠れようと細い肩を掴もうとした。
だが、その時 グプタの後方より小粒だが鋭く伸びる炎弾が飛来し、着弾する。
「うわっちぃぃぃ!! 何だ何だ? 後ろから??」
慌てふためくグプタの背後より黒尽くめの装束を纏った長身の男性が出現。
素早く足払いを掛けてグプタを転倒させ、手にした魔具杖の先端部分……銀色の光沢を放つ流線形状の部位で、容赦なく腹部を打ち据える。
「ぐべぇぇっ!!」
無様に口から吐瀉物を撒き散らしながら地面を転がるグプタを見下ろし、入れ違いにラキリエルへと忍び寄ると、黒尽くめの装束から伸びた掌が彼女の腕を掴んで足早に、音も立てずにその場から離れようとした。
「あの……貴方様は、いったい?」
「説明は後だ。しかし少なくとも俺は君の味方だと明言しておく」
長身の男性に腕を引かれて連れていかれようとしている場面にも関わらず、ラキリエルは不思議と恐怖を感じなかった。
状況が状況だけに男性の放つ声色は若干の焦燥の色を孕んではいたものの、故に真摯に彼女の救出を考えている素振りが見受けられたからだ。
直後であった。ラキリエルから見て左へ僅か三十メッテほど離れた地点より凄まじい冷気の波濤が押し寄せ、周囲の大地を瞬く間に凍て付かせる。
冷気の根源は、悪漢達を束ねる巨漢……バランガロンが振るう大戦斧。魔具術の触媒とも成り得る特殊な武器の真価を発揮させたのだ。
思わずラキリエルはその方角へ視線を傾け、何が起こっているのかを垣間見た。
「糞餓鬼にこれ以上 舐められて堪るかよ!
ノイシュリーベとか言ったか? 年季の違いってやつを教えてやるぜええ!」
そこには白馬に跨る甲冑騎士……ノイシュリーベに対して全く怯む様子を見せず対峙するバランガロンの姿が在った。
巨漢に似合わぬ体捌きを駆使して、己が凍て付かせた大地を滑走しながら一方的に接敵してみせる。如何なる名馬であったとしても氷上の備えがなければ、その俊足は封じられたも同然だ。
そうして諸手で握り直した大戦斧を袈裟懸けに振るい、白馬 諸共にノイシュリーベを両断しようとした。
「見た目に反して狡い真似をしてくれるわね。……往くわよ、フロッティ」
主人の号令に、白馬が嘶きを以て呼応する。人馬一体と化した俊敏な動きで右斜め前方へと跳び、大戦斧の刃をやり過ごした。
ビュゥゥゥ…… ボッ ヒュゥゥ!
白馬が氷上に着地すると同時に、ノイシュリーベが纏う甲冑のうち真横に傾けた腰部の草摺りの噴射口より豪風を噴射。
続けて噴射口を後方に傾けた肩の草摺りより豪風を噴射することで前進させ、白馬に跨ったまま自由自在に氷上を滑走してみせる。畢竟、この甲冑騎士にとって戦場の地形などは関係ないのだ。
そして間髪入れずに斧槍を突き出し、バランガロンの頭部を串刺しにしようとした……が、相手も歴戦の猛者。異常なまでの反射神経で躱されてしまう。
「面白ぇ動きをしやがる! だが突きが正確過ぎるぜ、見え見えなんだよ!」
大戦斧を袈裟懸けに振り抜いた体勢のまま身を屈め、相手が突き出した斧槍の脅威を避けきったバランガロンは、即座に身を起こした勢いのままに自身の得物を高らか掲げた。
すると刀身より再び冷気を産み出し、瞬く間に吹雪と化してノイシュリーベ達に襲い掛かった。凡庸な騎士であれば瞬時に馬と甲冑を凍結させられて動きを封じられてしまうことだろう。
機動力や抗う術を奪ってから、大戦斧による容赦ない一撃で粉砕していくのが、この初老の巨漢の常勝戦術なのである。
「こんな小細工で、我等グレミィルの『翠聖騎士団』を屠れると思うな!」
冷気の影響が及ぶ前に、先刻と同じ風魔法による防護圏を形成。吹雪を散らす。
次いで襲い掛かってくる大戦斧による怒涛の斬撃には、右掌で握る斧槍を振るい手堅く打ち払うことで着実に往なしていく。
キィィン! キ キィン! ……ガッ ギィィン!!
何度も大戦斧と斧槍が克ち合い、刃と刃が重なり合い、金属同士の激突音による闘いの旋律が鳴り響き続けたのだ――
大将同士による一騎打ちに目を奪われかけていたラキリエルであったが、腕を引かれて強引に連れていかれ始めたことで、ふと我に返った。
「……済まないが、君の従者の遺体を回収している余裕は無さそうだな。
姉上、いやグレミィル侯爵達が上手く拾ってくれることを祈ろう」
黒尽くめの装束を纏った長身の男性が申し訳なさそうに告げる。これだけ激しい戦いが繰り広げられ自始めたのだから、さもありなん。
そうして街道近くの茂みに入り、隠していた黒馬にラキリエルの身柄を放り投げるようにして乗せてから自身も騎乗、未だに乱戦を続ける者達を後目に街道を一挙に北上して離脱を果たした。
後に残されたのは、未だに乱戦を継続する精鋭騎士達と悪漢達。
その最前線に立つノイシュリーベとバランガロンは、互いの掌に携えし得物を振るい合って一歩も退かず、只管に激しい攻防を演じていた。