007話『裏拍-其は足元に這い寄る濁り水』(2)
※(2026.9.5) 本文の改稿を行いました。
其は二年と半年の歳月を遡った、ある冬の日。
当時、騎士へと至るための厳しい修行に励んでいたノイシュリーベは、南イングレス領の角都グリーヴァスロに滞在していた。
しかし騎士叙勲を目前に控えた時期に、両親が病に伏したという報せを受ける。
そこで急遽、日程を繰り上げての叙勲式が執り行われ、ヴィートボルグへ帰郷する運びとなる。
それが可能となったのは、南イングレス領の大領主が英雄ベルナルドの旧友であったからこそだ。
それでも報せを受けてから二ヵ月の時間を要してしまった。
彼女が帰郷した頃には、既にダュアンジーヌの肉体は全身が結晶化しており、ベルナルドも肩部を中心とした右半身の血肉が濁った翡翠に侵食されていたのだ。
[ 城塞都市ヴィートボルグ ~ 城館三階 大領主の私室 ]
「……ノイシュリーベ、か。よくぞ戻った、立派になった……な……」
寝台の上に横たわり、ぎこちなく結晶化した首と口元を動かして、掠れるような声を紡ぎながら精一杯の笑顔で出迎えてくれた。
自慢の槍を振るうどころか、もう自力で起き上がることすら適わないほどに衰弱してしまっているようだ。
「お父様……! 戻ってくるのが遅くなって本当にごめんなさい!
お母様も、あのような御姿になっておられるなんて……。
こんなことなら雪が積もる前に無理やりにでも馬を走らせていれば……」
念願の騎士となって尊敬する父の前に帰ってきたノイシュリーベは、しかしながら己を誇れずに瞳いっぱいの涙を浮かべ、罪の意識から総身を震わせた。
父と母が斯様な悍ましき姿に至る前に、どうして駆け付けることが出来なかったのだろうか?
"偉大なる騎士"である父を目指す以上は、自身もまた正式な騎士叙勲を受ける必要があったとはいえ、それとこれとは話が別なのである。
きっとこの悔恨は一生涯、ノイシュリーベに付き纏うこととなるだろう。
「いいや、お前が……エデルギウス家の責務を果たそうと……。
我々の後を継ごうと頑張って……くれていることは妻も承知していた、よ」
「お父様……」
「時折、お前が送ってくれていた手紙をいつも……楽しそうに読んでいたからね。
だから、どうか気に病まないでほしい……お前は、我々の……誇りだ」
娘が自責の念に圧し潰されそうになっているのを見て、ベルナルドは優しく微笑んで諭すように告げてくれた。
「……この時期は、街道にも大雪が積もるから……な。
グリーヴァスロからは、さぞ大変な道程……だったのだろう?」
「お、お父様が戦っておられた戦場に比べたら、あんな道なんて……!」
「ふふっ、本当によく戻ってきてくれた……。
お前とサダューイン、それにエバンスが無事に大きく育ってくれて……。
私達は、嬉しい……よ……」
凄惨な状態に陥って尚も子供達のことを第一に気に掛ける。
労わり、慈しみ、安堵させようと心を砕くベルナルド。そんな父の姿と心配りを前にして、ついにノイシュリーベは声を挙げて泣き崩れてしまった。
これが彼女の本性なのだ。
「……うぅ、お父様! お父様………うっ、うぁぁぁ!」
彼女は騎士としては矮躯で、非力な肉体。その上、女性であり亜人種との混血であることによる差別意識に、騎士修行中ずっと晒され続けていた。
それでも"偉大なる騎士"である父のようになりたくて厳しい修行を耐え抜いた。
周囲から軽んじられないために、常に気丈に振舞い続けていた。
だが本来のノイシュリーベという女性の精神は、陽溜まりの中で静かに暮らすことを好むような、穏やかで脆く優しい性質なのである。
「うぁぁ……ぅぅっ…………」
暫しの慟哭。大領主の私室の窓の外では、無慈悲な猛吹雪が舞っている。
泣き崩れる彼女の頭を、ベルナルドは辛うじて動く右掌で優しく撫で続けた。
一頻り(ひとしきり)の涙を流した後、ノイシュリーベは顔を上げる。
そして穏やかな表情を浮かべる父の姿を瞳の奥に焼き付けようとした。
完全に結晶化して死に至るまでの僅かな間だけでも、この"偉大なる騎士"にして心優しき父の生き様を脳裏に刻み付ける。
それが今できる己の義務なのだと理解した。
「……お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ありません」
「いいや、父として嬉しい限りだよ」
ノイシュリーベの性格と気質を知悉するベルナルドは、彼女ならそのように捉えて必ず前進してくれるだろうと確信していた。
故に、それ以上の言葉は不要だった……。
長い冬が続いた。
否、冬季そのものは例年通りなれどノイシュリーベにとっては永遠に感じるほどの吹雪の夜であった。
父を喪う事実を受け入れる覚悟は済ませた。
父が悍ましき鉱物のような物体と化して潰える瞬間を見届ける意思を固めた。
急激なる覚悟と意思は、ノイシュリーベの視界より一時的に色彩を奪っていく。
其は吹雪いて止まぬ、永遠の雪化粧の如し。
常世は、灰色と銀の回廊へと光を喪い、狭まった。
幸か不幸か、彼女は騎士修行時代に著しく心が摩耗してしまい、同じような状態に陥ったことがあった。その時は悪友の援けによって危機を脱した。
即ち、灰色と銀の回廊に足を踏み入れるのはこれが二度目であり、辛うじて独力で現実を受け入れられるだけの強さを父に示し続けることが出来たのである。
だから耐えられた。
耐えられたが……心の痛みがそう容易く晴れることはないのだ。
徐々に広がる結晶化した部位を見る度に。
やがて完全に言葉を発することも出来なくなった父の姿を見る度に。
残った部位の筋肉もすっかり衰え、あれほど鍛え上げられた英雄の肉体が喪われていく。濁った翡翠へと腐り逝く光景を目の当たりとする度に――
その度に、彼女の心は着実に蝕まれていった。
何よりもノイシュリーベの心を締め付けたのは、この悍ましき呪詛が解析すら困難な代物であると判明したこと。
寝室で寝かせていれば他の者に感染する恐れが示唆されたので、地下深くの隔離部屋に移送されたことである。
英雄と称えられ、数多の戦友達と肩を並べ、『人の民』と『森の民』を問わず多くの者達に慕われたベルナルドの最期は、誰も近寄れぬ地の底にて孤独に息絶えるしかなかったのだ……。
肉体が完全に結晶化した後は、母ダュアンジーヌだった物体とともに隔離部屋の更なる奥深くへと移された。
遂に呪詛の解析は間に合わず、下手に蔓延させないためにも人知れず処分されることになってしまった。
ノイシュリーベ達は極秘裏にラナリア皇王に事情を話した。
そして如何なるものも灼き尽くす『ラナリアの聖火』を借り受けた。
結晶化した肉体を粉々に砕き、聖火によって完全に灼き祓うことで、呪詛もろともに焼却する。
これが、英雄ベルナルド……だった物体が告げた最期の望みだったのだ。
[ 城塞都市ヴィートボルグ ~ 城館 地下十一階 ]
轟々と、"絶対に消えぬ焔"が燃え盛る。
父と母だった物体は生きたまま粉砕されて、薪のように焼べられていく。
その光景をノイシュリーベは、隣に立つサダューインと共にずっと見詰め続けていた。見詰め続けることしか出来なかった。
「あぁ……お父様……お母様……!! うぅ……ぅぅぅ…………」
「…………」
ノイシュリーベは何度目か分からぬほどの嗚咽とともに涙を零していた。
サダューインは感情の消え失せた虚無の表情で、淡々と『ラナリアの聖火』を稼働させていた。
二人は一言も言葉を交わすことなく、焼却処分は完遂された。
その後、中身のない棺桶を用いた葬儀が執り行われ、北イングレスとラナリア皇国内の各属領にベルナルドとダュアンジーヌの訃報が伝えられた。
表向きには流行り病による急逝であるとだけ添えて……。
ノイシュリーベは新たなエデルギウス家の当主となることを願い、サダューインと家臣一同が賛同。グレミィル半島を統べる大領主の座に就いたのだ。
大領主として父が背負っていたものを引き継ぎ始めてからは忙しい日々が続いたが、それが救いとなった。
目の前の政務に没頭するうちに喪った色彩は徐々に戻り始め、やがて現在のノイシュリーベという清廉潔白にして鮮やかな為政者が象られていく。
両親を死に追いやった濁った翡翠に関しては、サダューインを中心として解析班が結成され、地道な研究が水面下で続けられている。
その成果もあってか。容易には感染しないことや、特殊な呪詛封じの魔具を用いれば結晶化の進行を遅らせる手立てが立証された。
しかし出処は未だに不明な上に、完全な解呪への目途は立っていない。
濁った翡翠……この悍ましき呪詛の正体については今日まで足取りを掴めなかった。少なくともノイシュリーベの視ていた範囲では……。
それが今になって、目の前に現れた。
何かの予兆を感じて足を踏み入れた貧民街の最奥にて。
あの吹雪の日々で嫌という程に目に焼き付けた結晶体と同じものと、再び対峙することになったのである。
・第7話の2節目を読んで下さり、ありがとうございました!
・旧イングレス王国は"騎士の国"と呼ばれていて
騎兵の質に関しては当時 大陸最強と謡われていました。
・現在の南イングレス領はその気風を最も濃く受け継いでいるので
そこで騎士叙勲を受けるということは、それだけで騎士としては一目置かれる……とされています。




