007話『裏拍-其は足元に這い寄る濁り水』(2)
其は二年と半年の歳月を遡った、ある冬の日。
当時、騎士へと至るための厳しい修行を積むべく南イングレス領の角都グリーヴァスロに滞在していたノイシュリーベは、叙勲式を目前に控えた時期にて両親が病に伏したという報せを受けた。
英雄ベルナルドの盟友であり、グリーヴァスロを含む南イングレス領の大領主を務めるイングバルト公爵の計らいにより、急遽 日程を繰り上げて騎士叙勲を執り行った上でヴィートボルグへの帰郷を果たす。
それでも報せを受けてから二ヵ月近くの時間を要してしまった。
彼女が到着したころには既に母ダュアンジーヌの肉体は全身が結晶化しており、ベルナルドもまた右肩を中心とした右半身の血肉が濁った翡翠と化していたのだ。
「……ノイシュリーベ、か。よくぞ戻った、立派になった……な……」
寝台の上に横たわり、ぎこちなく結晶化した首と口元を動かして、掠れるような声を紡ぎながら精一杯の笑顔で出迎えてくれた。馬上で自慢の槍を振るうどころか、もう自力で起き上がることすら適わないほどに病状が進行してしまっているのだ。
「お父様……! 遅くなってごめんなさい……ごめんなさい……!
お母様も、あのような御姿になるまで戻れなくて……私、私……!!」
念願の騎士となって尊敬する父の前に帰ってきたノイシュリーベは、しかしながら己を誇れる筈もなく瞳に一杯の涙を浮かべ、罪の意識から総身を震わせた。
父と母が現在のような姿になる前に、どうして駆け付けることができなかったのだろうか?
"偉大なる騎士"である父を目指す以上は、自身もまた正式な騎士叙勲を受ける必要があったとはいえ、それとこれとは話が別なのである。
「お前が……エデルギウス家の責務を果たそうと……我々の後を継ごうと頑張って……くれていることは妻も承知していたよ。
だから、どうか気に病まないでほしい……むしろ……お前は、我々の……誇りだ」
娘が悔恨の念によって圧し潰されそうになっているのを見て、ベルナルドは優しく微笑んで諭すように告げた。
「……この時期は、街道にも大雪が積もるから……な。グリーヴァスロからは、さぞ大変な道程……だったのだろう?
本当によく戻ってきてくれた……お前とサダューイン、それにエバンスが無事に大きく育ってくれて……私達は、嬉しい……よ……」
凄惨な状態に陥って尚も子供達のことを第一に気に掛け、労い、安堵させようと心を砕くベルナルド。そんな父の姿と心配りを前にして、ついにノイシュリーベは泣き崩れてしまった。それが彼女の本性なのだ。
"偉大なる騎士"である父のようになりたくて、しかし騎士としては矮躯であることや女性であることを周囲から軽んじられないために常に気丈に振舞い続けていた。
だが本来のノイシュリーベという女性の精神は、陽溜まりの中で静かに暮らすことを好むような穏やかで脆く、優しい性質なのである。
暫しの慟哭。大領主の寝室の窓の外では、無慈悲な猛吹雪が舞っている。
一頻りの涙を流し尽くした後にノイシュリーベは顔を上げた。そして穏やかな表情を浮かべる父の姿を瞳の奥に焼き付けようとした。
完全に結晶化して死に至るまでの僅かな間だけでも、この"偉大なる騎士"にして心優しき父の生き様を脳裏に刻み付けるのだ。それが己の義務なのだと理解した。
ノイシュリーベの性格と気質を知悉するベルナルドは、彼女ならそのように捉えて必ず前進してくれるだろうと確信していた。故に、それ以上の言葉は不要だった……。
長い冬が続いた。否、冬季の期間は例年通りなれどノイシュリーベにとっては永遠に感じるほどの吹雪の夜であった。
父を喪う事実を受け入れる覚悟は済ませた。
父が悍ましき鉱物のような物体と化して潰える瞬間を見届ける意思も固めた。
急激なる覚悟と意思は、ノイシュリーベの視界より一時的に色彩を奪っていく。
其は吹雪いて止まぬ永遠の雪化粧の如し。常世は、灰色と銀の回廊へと光を喪い狭まった―――
然れど、然れども、徐々に広がる結晶化した部位を見る度に。やがて完全に言葉を発することもできなくなった父の姿を見る度に。
あれほど鍛え上げられた逞しき肉体……残った部位の筋肉もすっかり衰え、それ以外は濁った翡翠へと腐り逝く光景を見る度に。
何よりもノイシュリーベの心を締め付けたのは、濁った翡翠の如き結晶体は、解析すら困難な悍ましき呪詛であると判明したこと。
故に寝室で寝かしていれば他の者に感染する恐れが示唆されたので、地下深くの隔離部屋に移送されたことである。
英雄と称えられ、数多の戦友達と肩を並べ、『人の民』と『森の民』を問わず多くの者達に慕われたベルナルドの最期は、誰も近寄れぬ地の底にて孤独に息絶えるしかなかったのだ。
肉体が完全に結晶化した後は、母ダュアンジーヌだった物体とともに隔離部屋の更なる奥へと移された。
遂に呪詛の解析は間に合わず、下手に蔓延させないためにも人知れず処分されることになったのだ。
ノイシュリーベ達はラナリア皇王に事情を話し、如何なるものも灼き尽くす"絶対に消えぬ焔"と云われし秘宝……『ラナリアの聖火』を借り受けた。
結晶化した肉体を粉々に砕き、『ラナリアの聖火』によって完全に灼き祓うことで呪詛もろともに焼却する。それが、ベルナルドだった物体の最期の望みだったのだ。
轟々と、消えぬ焔が燃え盛る。父と母だった物体は、生きたまま粉々に砕かれて薪のように焼べられていく。
その光景をノイシュリーベは、隣に立つサダューインとともにずっと見詰め続けていた。
「あぁ……お父様……お母様……!! うぅ……ぅぅぅ…………」
「…………」
ノイシュリーベは何度目か分からぬほどの嗚咽とともに涙を零していた。
サダューインは感情の消え失せた虚無の表情で、淡々と『ラナリアの聖火』を稼働させていた。
二人は一言も言葉を交わすことなく、焼却処分は完遂された。
その後、中身の無い棺桶を用いた葬儀が執り行われ、各国にベルナルドとダュアンジーヌの訃報が伝えられた。表向きには流行り病による急逝であるとだけ添えて。
ノイシュリーベは新たなエデルギウス家の当主となることを願い、サダューインと家臣一同が賛同。グレミィル半島を統べる大領主の座に就いたのだ。
大領主として父が背負っていたものを引き継ぎ始めてからは忙しい日々が続いたが、それが救いとなった。
目の前の政務に没頭するうちに喪った色彩は徐々に戻り出し、やがて現在のノイシュリーベという清廉潔白にして鮮やかな為政者が象られていく。
濁った翡翠に関しては、サダューインを中心として解析班が結成され地道な研究が水面下で続けられている。
容易には蔓延しない類のものであることや、特殊な呪詛封じの魔具を用いれば結晶化の進行を遅らせる手立てが立証されはしたものの、出処は未だに不明な上に完全な解呪への目途は立っていない。
父と母を喪う原因となった悍ましき呪詛の正体については今日まで足取りを掴めなかった。少なくともノイシュリーベの視ていた範囲では……。
それが今、足を踏み入れた貧民街の最奥にて、あの吹雪の日々と同じものを目にすることとなったのである。
・第7話の2節目を読んで下さり、ありがとうございました!
・補足となりますが、旧イングレス王国は"騎士の国"と呼ばれていて騎兵の質に関しては当時 大陸最強と謡われていました。
旧イングレスの気質を最も強く継いでいる南イングレス領で騎士叙勲を受けるということは、それだけで騎士としては一目置かれる・・・という形になります。