007話『裏拍-其は足元に這い寄る濁り水』(1)
テルペス宮殿を後にしたノイシュリーベは、なんともいえない表情を浮かべるしかなかった。理由は明白で、面会したセオドラ卿から滲み出る器の卑小さに辟易してしまったからである。
父ベルナルドの死去にともない大領主の座を継いだ際に、各地方の有力貴族や氏族長を集めて襲爵の儀と、新たな大領主のお披露目を兼ねた宴席の場を設けたことがある。
その際にセオドラ卿とは一度だけ直接顔を合わせたことがあり、ある程度はどのような人物であるのかを見知ったつもりになっていたのだが、どうやら宴席では優秀な余所行きの装束で塗り固めていたらしい。
彼の居城たるテルペス宮殿では本性の制御が杜撰となってしまうのか、醜悪にふんぞり返る姿に呆れを通り越してしまった。
明らかにこちらのことを年若い女、それも純人種と亜人種の混血ということで、忌避感と侮蔑感が態度から滲み出ていた。
おまけに父の代から続く因縁も合わさり、まるで敵対者を謗るかのようですらあった。無論、表面上の言葉遣いは大領主を遇するに値するものではあるのだが。
ノイシュリーベが一人で面会に赴いたことも、セオドラ卿が舐めて掛かってきた要因の一つではあるのだろう。そんな事情もあり相手の考えていることは手に取るように分かってしまった。彼がエペ街道で交戦した悪漢達とも繋がっている可能性を察したのだ。
「(……まあ、あれだけの数の悪漢達を搔き集めて街道を占拠していた冒険者がいるというのに)
(エルディア地方を管轄する者が知らぬ存ぜぬなんて言い出す筈がないわよね)」
色々と探りを入れるための言葉回しは試そうとした。しかしながら相手は「知らない」の一点張りで聞く耳を持たない様子。
ならば、とこちらも詰問するような口調となってしまったことは否めないが、それを差し引いたとしてもセオドラ卿の対応は稚拙であったように思う。
ノイシュリーベの所感としては「叩いてみようとしたら最初から埃塗れだった」といったところであろうか。憤りと拍子抜けが綯い交ぜとなり、微妙な心境へと至った。
「この分だと、この街も調べれば色々と出てきそうね……そういうのは"あいつ"の領分だろうけど」
宿泊施設への最中、エバンスから手渡された質素な外套に身を包みながら独り言を嘯く。"あいつ"とは勿論、弟のサダューインのことであり暗部の精鋭部隊を率いる彼ならば何かしら情報を掴んでいる可能性がある筈なのだ。
大領主であるノイシュリーベは挙がってきた報告を元に然るべき裁断を下すのが役処となるのだが、先刻のセオドラ卿の態度が引鉄となり自ら動いて情報を掴んでおきたいという想いに駆られ始めていた。
このような状態に陥ったノイシュリーベは停まらない。留まれない。自ら率先して行動しなければ気が済まなくなるのだ。
幼少のころから長い付き合いのあるエバンスが知れば「またノイシュの猪突猛進なとこが出ちゃったよ~」などとぼやいている場面だろう。
[ 港湾都市エーデルダリア エルゲミル広場 ]
エーデルダリアに於いて人の往来や物流の要となる大通りが交わる広場へと差し掛かる。
西に伸びる路を進めば港湾都市の顔でもある埠頭が並ぶ区画。東へ進めば愛馬と甲冑、そして愛用の斧槍を預けてある宿泊施設へ戻ることができるのだが、ノイシュリーベは敢えて広場を横切って南西の方角を目指すことにした。
この先に続くのは港湾都市の外端であり、貧しい者達が身を寄せ合って違法に築いた破屋の連なる貧民街である。
彼女自身が貧民街に足を踏み入れる理由と機会はなかったのだが、先刻から広場や大通りを行き交う顔ぶれの中に貧困層の者の姿が異様に少ないことが気掛かりだったことと、エペ街道で交戦した悪漢達が潜んでいるとすれば、そういった場所に拠点を構えているだろうと推察しての行動であった。
「……ちょっと見に行って、直ぐに戻ればエバンスだって文句は言わないでしょ」
などと呟きながら、ずいずいと歩を進めてしまう。徹夜明けに加えて管轄者との面会を済ませた直後の、ある種の解放感が行動力に変換されているのかもしれない。
外套に備え付けられているフードを目深に被り直し、エーデルダリアの影の部分へと踏み込んでいった。
整備された路地、艶やかな商館、景観を意識して統一された趣の民家。エーデルダリアを構成する明媚な街並みとは打って変わり、そこは粗末な木組みの小屋や、ボロ布と藁で固めたような天幕が並ぶ薄暗い区画であった。
悪臭も絶えず漂っており、高貴な身分の者であれば数秒で退散したくなるような有様が広がっている。
そんな貧民街の中をノイシュリーベは少し眉を顰めるのみに留めて、歩を進めていく。
彼女は騎士見習いの修業時代に、汗と涙と泥に塗れて厳しい修練を積んだ経験があった。貧民街など天国に思えるような、野獣や魔物が潜む洞窟の奥深くに連れていかれたこともあった。騎士として叙勲を受けた後も幾度となく野戦の機会を体験している。
故に煌びやかな社交の場でのみ咲くことができる通常の高位貴族の令嬢などとは、まるで胆力の強さが異なるのだ。
とはいえ、甲冑を纏っていない上に愛用の斧槍も置いてきた状態では、少々 心許ないのは確かであった。一応は細剣こそ帯刀してはいるものの、これは直接的に切り結ぶことを想定されていない代物である。
「確かこの辺りは、『人の民』と『森の民』の諍いが激しかった時代に旧イングレス王国の外から雇い入れた傭兵達の末裔や、
ラナリア皇国との大戦期に戦災孤児となった人達が集まって形成された区画だとエバンスは言っていたわね……」
勿論、大領主として知識の上では知っていたし、実際に他の街でも同様の理由で貧民街化した場所を巡視した経験もある。
しかしグレミィル半島全域を見渡しても有数の都市であるエーデルダリアは表の顔があまりにも豊かで艶やか。流入する船舶は巨万の富と希望を運ぶ象徴として強く人々に印象付けられるがために、こういった区画の存在は視界に映らなくなってしまうのだ。
貧民街の淀んだ空気と、時折 異物ないしは侵入者を警戒するような目付きで睨みつけてくる住人の視線を堪えながら、ノイシュリーベは薄暗い路地を突き進んだ。
「(うっ……これは想像以上ね……)」
異臭に気付いて足元に視線を落とした時には既に手遅れ、汚水と思しき液体に上質な革製のブーツの爪先が浸かってしまっていた。
おそらく何年も放置されているのであろう煮詰まった悪臭に加えて、蠅や蛆が湧いていた。
「(……まるで戦場跡のようだわ)」
死臭を感じないのは、異臭が余りにも強すぎるが故か。汚水で履物が汚れることも厭わずに尚も突き進む。衣装の汚れは後で洗い流せば良い。しかし歴史が育んできた薄暗き街並みは、そう簡単には拭えないのだ。
そのことをよく知るノイシュリーベは、自分が今なにをする為に歩いているのかを噛み締めながら更に、尚更に路を進んだ。
様々な破屋が無秩序に乱立する様子を目にした先には、いよいよボロ布ですらない木箱の欠片のようなものを組み上げただけの寝床が並ぶ区画へと辿り着く。
貧民街の最下層といったところか。そこでは年端も行かない子供達や、痩せ細った成人男性達が力なく路地に座り込んでいる。
空腹からの無気力……という雰囲気とはまた異なる凄惨さが漂うのを目にして、それが病魔に由来するものではないか? と漠然と察した。
その予感は的中し、膝を抱えて蹲る少年の肌を見てみると皮膚の一部より濁った翡翠の如き鉱物が突き出していた。
否、身体の一部が鉱物そのものへと置き換わり、結晶化していたのである。
「こ、これは……まさか?!」
思わず悲鳴に近い声を挙げ、少年の前まで近寄り身を屈めて覗き込んでしまった。痩せこけて悲惨な有様の肉体には健常な部位など元より見当たらないが、別けても結晶化した皮膚は一際に目を逸らしたくなってしまう。
ノイシュリーベは、過去にその症状に陥った者を目にしたことがあった。
忘れはしない、忘れられる筈もない……彼女の両親であるベルナルド達を死に追いやった忌むべき最期の姿こそが、濁った翡翠による結晶化だったのだ――
・第7話の1節目を読んで下さり、ありがとうございました。
今回は文章量がかなり多くなってしまったので切りの良いところで別けさせていただきました。
予定では、おそらく第7話は5回ほどに別けて投稿させていただきます。