さざれ石の巌となるまで
さあ、フィナーレを。
暫時、続いた少年との攻防に、秀一郎は切り札を使うことに決めた。矯めつ眇めつ客観視せずとも、時間の惜しい状況であることは明白なのだ。
こうしている間にも、誰の命がこぼれ落ちるか知れない。悔やみは、「死」という圧倒的なものに対して何の役にも立たない。一度喪われれば、腹立たしい程に揺るがない真実が、死だ。
薔薇と血の香る中、半身の構えを解いて無防備に立つ。
逆に警戒心を煽られた少年の、オレンジ色のパーカーがやや後退した。
ふ、と秀一郎は唇を緩める。
コトノハ使いは、短いコトノハの応酬で、対峙する人間の性分を見極める観察力にも長けている。
コトノハから香る、漂う人間性を捉える。
ましてこの少年のようにある意味開けっ広げであれば、捉えることも、より容易となる。
唐突な秀一郎の戦闘解除の姿勢に疑心暗鬼に陥り、心に虚が生じるのはこちらにとって僥倖。
切り札を使うに適した好機だ。
「僕の名前は音ノ瀬秀一郎」
「――――はあ?」
「音ノ瀬分家の三男。年齢は二十九歳。誕生日は三月三日。血液型はO型。身長は百八十六センチ」
「おい、」
「体重は八十キロ、体脂肪率は十三パーセント。もっと筋肉をつけたいと考えている」
「訊いてねーし」
秀一郎は笑う。――――嗤う。
「趣味は読書と武術。映画鑑賞。好みの女性は芯が強い人。けれど脆い美も備えた人。想う女性は子供の頃からことさん一人だ」
それがどうした、と。
血迷ってんのか、と。
少年は言うことが出来なかった。
唇が、石と化したように動かない。身体も然り。指の一本まで。
彼の自由になるものはないのだ、と判った時、少年は初めて、恐怖の眼差しで秀一郎を見た。じわりと噴き出す汗を感じる。
秀一郎の、何の変哲もない自己紹介の正体は、コトノハによる緊縛の術であった。
幼少より自己紹介を切り札と選び、繰り返し繰り返し、口にして発声を重ねることで、言葉の羅列に対象者を縛る強い効能があると、自分自身に刷り込んできた。
強力な自己暗示のコトノハは、相手にも同様に作用する。
「君はもう戦えない」
絶対的な敗北宣告のコトノハが、蒼ざめた少年の心身に沁み通った。
黄昏の、逢魔が時の邂逅が過ぎ――――――――。
小さな殺戮者の懇願を聴いた少女は、重い十字架を背負った。
彼女に突出したコトノハの才があったことも災いした。
音ノ瀬隼人の子孫が近辺に出現した。
その人物が、娘と接触した節がある。
そうと知った当時の音ノ瀬当主・ことの父は、娘に問い質した。
『お前は何も知らないね、こと』
本来であれば、当主が是非を問うコトノハの圧力に逆らえる者はいない。
しかし、ことはその圧に抗し、更に自らが処方した偽りのコトノハを、父親に服用させる、つまり、嘘を信じ込ませるだけの力を持っていた。
『知らない。私は何も知らない』
そうして、彼女の悲しみは幕を開けた。
聖は、場面転換を繰り返しながら流れ続ける映像を見ていた。
(御両親が生還されれば、こと様の自責の念とて融けたものを)
聖の薦めもあり、ことは後に父に真実を打ち明けたのだが、隼人の縁に連なる人間を音ノ瀬一族が知る千載一遇の機会とよすがは、既に失われたあとだった。
やがてその朝は訪れる。
『食事をちゃんと摂りなさいね。こと。……貴方は、私なんかよりずっと、コトノハの才能があるわ』
隼太の行方を追う出立の日。
ことの母は娘から目を少しだけ逸らしながら、そう告げた。
自分をはるかに凌駕する才能に恵まれた娘を正視する辛さを、彼女はずっと抱えていた。
娘に劣等感を抱く自分を恥じてもいた。
聖はそれを知っていた。
だが知っていただけだ。
どうすることも出来なかった。
人の心ばかりは。
彼はただ、細れ石のように世と人を見つめ佇むばかり。
長く生きるとは、無常と無力を知ることでもある。
『万一の時もある。そう覚悟していなさい』
妻の心情を察していたのかどうか、今となっては解らない夫は、家督を譲った娘に厳かに言い渡した。
『……元気に帰って来てね』
泣きそうに笑う、ことの顔が映る。
聖の心情に共鳴するように、大きく。
彼女の精一杯のコトノハが、微弱に震えている。
その祈りの結末を知る聖は遣る瀬無くて、面を伏せた。
(こと様――――――――)
両親が戻らぬと訴え、孤独を嘆き、聖に詫びて、泣いた彼女を一生忘れることは出来ない。
静かに、聖の頬を涙が伝う。
赤い目から生まれる雫は、血の滲むような悲しみと痛みに反して、透明だった。
異空間における「上映会」は、副つ家の鬼兎と畏怖される男に、己の無力をまざまざと知らしめた。
紫や緑の渦巻く色調が、聖の涙に呼応する如く、淡く澄んだ青に変化する。
この時点で聖が悲嘆に呑まれれば、ことたちの命運も尽きたかもしれない。
だが幸いにして、聖の長く重ねた齢は、彼に生半では心折れぬ巌の強靭さをも与えていた。
涙に暮れても現実は変わらないと。
濡れた頬は乾かし、また明日に備えねばならない。
そのようにして彼は生きてきた。
「僕は桔梗色を生涯、愛する。だから、この空間は閉じさせてもらうよ」
ここにはいない、術者に向けて語り掛ける。
手にしていた物差しを、空間を切るように縦横無尽に振る。
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」
仏教用語のコトノハを唱える聖の顎から、光が滴り落ちた。




