影踏みのアルバム
聖の手は、空を掻いた。
漠然とそう察してはいたものの、ことに触れられぬ寂寞は、胸に堪えた。
肩を越すくらいの髪が、さらさら、白桃のような少女の頬に被さる。
瞳には、年に似合わぬ諦観と、誇りが深沈として在る。
児童の社会で孤立しようと、彼女を迎える家庭が慈しみに満ちていたならば、あんな眼差しは生まれなかった。
音ノ瀬の本家はことの力の養育と制御には腐心したが、心を慮ることは少なかった。
縁側に座る少女を見向きもしない大人たちの、輪郭のぼやけた影が、聖の目の前を行ったり来たりする。
それはそのまま、ことの心象風景であったのかもしれない。
〝その脳髄文化の冷血、残酷さを見よ〟
あの声は確かに、音ノ瀬家先代当主・ことの父親の声だ。
聖もよく知る冷たい声音。
〝そんなコトノハを使うんじゃない〟
〝力があるからと言って、驕るな。見苦しい〟
〝まだそんな物で遊んでいるのか〟
〝――――育て方を間違えたな〟
清らかで穏やかな時間の流れるふるさとでも。
聖のいる前でも。
ことは父から容赦ないコトノハを浴びせられていた。
身を竦めて俯き、耐えていた彼女の小さな握り拳を、クローズアップしたように聖は憶えている。
固く白く、今にも粉々に砕け散りそうな拳だった。
聖はことの背中に、手を添えるしか出来なかった。
副つ家の守り人が、音ノ瀬家当主に反論や口答えをすることは許されない。
ことの母も、娘を擁護はしなかった。夫の意見に従うことを当然と考えていた。旧家・名門の当主の妻であれば、ありふれた思考の持ち主だ。
それでも親を慕う子の悲しさ。
ことは両親をいつも待っていた。
何度裏切られ、傷ついても、期待を捨てられなかったのだ。
親を一切〝諦める〟とは、それ程に困難なのだ。
聖の赤い瞳が、瞬く。
赤は一瞬、厳寒の如く冴えた。
(だから僕は、いつか自分が謀反人となるのではないかと考えていた)
力による、強制的な世代交代を。
鬼兎の呼称は、ゆえに聖自身、甘受するものであった。
彼は雌伏していたのだから。
副つ家にあるまじき聖の思惑は、姉の真葛以外に知る者は無い。
思惑が火種のままに留まったのは、それを実行すれば、ことが嘆くであろうと容易に想像がついたからだ。
泣いて、両親を排斥した聖を恨むかもしれない。
彼はことに憎しみの眼差しを向けられる苦痛を恐れ、沈黙を守り続けた。
自分を真っ直ぐに慕う彼女の目を失うなど耐えられない。
(貴方の純真と好意が、僕の支えでもあった)
孤独を嘆き自分を拠り所としてくれる少女の笑顔に、昏い悦びを覚えていた。
ことを愛するようになってから、聖の心はどこまでも清らかに輝くかと思えば、どこまでも鈍い色に淀みくすんだ。
この異空間は、負に傾いた時の、彼の心境を反映しているのかもしれない。
映像は変化し、今度はことと、同世代の少年の姿が見えた。
ランドセルを背負い、並んで歩いている。
場面がうっすら赤く、二人の影が長いところを見ると、学校からの帰り道だろうか。
『音ノ瀬さんはすごいね。いっつも作文で褒められて』
『そうかな』
『うん。破った犯人、誰だろ。許せないな』
『……うん』
義憤に唇を尖らせる少年と、顔色を曇らせる少女。
思い出した聖は、顔をしかめた。
(これは、あの時の……)
小学校の掲示板に張り出されたことの作文が、誰かに破られる事件があった。
その犯人が、義憤の仮面を被った少年であったと判明したのは後のこと。
当時の、ことの当惑と悲しみを、聖は我が事のように感じた。
〝ずっと仲良くしてくれて、お友達だと思ってたの〟
〝……はい〟
〝ウサギさん。どうして? 私、何がいけなかったの?どうすれば良かったの?〟
〝こと様。人の心は、他人に扱える代物ではありません。己で処するしか無いのです。こと様には、彼に何もしてあげられなかったでしょう。それは、その子自身にしかどうしようもない、心模様の問題ですから。こと様と仲良くしていた彼の全てが偽りとは限りません。中には、本当のコトノハもきっとあったでしょう。彼も自分の気持ちが解らず、持て余していたのかもしれません〟
ことは瞬きせず、聖の声に一心に耳を傾けていた。
〝…………ウサギさん。私が羨ましいと思う時、ある?〟
〝僕は無いですね。強いて言うなら、こと様くらいの才能が僕にあれば、もっと貴方をお守りすることが出来るかもしれないとは思います〟
〝……本当に?〟
〝はい〟
〝本当の本当に?〟
〝はい。僕はこれでも長く生きていますから、こと様を羨める程に若くはないんです〟
そう言って笑うと、切羽詰まった表情で問い詰めていた少女の身体は弛緩した。
しかし、彼女の人間不信はしばらく続いた。
(僕の精神を、なぶろうという仕掛けか?)
ことの過去の、影に当たる部分の上映会の意図は。
悪趣味な嗜好だ。
このままで行くと、次は―――――――。
マーブル状に狂った色合いに鎮座する映像が、また変化する。
黒に近い濃い緑の葉、葉、葉。
椿の繁みを、掻き分け進むことがいる。
やがて明るい光。
ことが、びくりと足を止めた。
そこには一見して「一般の子供」とは明らかに違う目、違う気配の少年が佇んでいたのだ。
神経質そうな双眸が、ことを射抜くように見る。
彼の足元には、蜥蜴や蝙蝠、鼠、猫などの死骸が散乱していた。
躯の放射線の中央に君臨する少年は、さながら小さな死神のようだった。
映像を見る聖の鼻腔にまで血の臭いが届きそうだ。
ことが怯えている。
少年は、文句があるなら言ってみろ、と言わんばかりの、挑発的な目で彼女を睨む。
華奢で顎が尖って、全体的にぎすぎすしている。
『……貴方が、したの?』
か細いコトノハに、少年がぎょろりと目を剥いた。
茜色の空を舞う烏たちが、獲物を喰らわんと近づいたり遠のいたりしている。
邪魔な子供たちがいなければ、迷わず急降下していただろう。
『お前、音ノ瀬か』
『うん。貴方も……』
少年の頬が皮肉に歪む。
『こっちは所詮、はぐれ者だ。――――落ちぶれた、惨めな!』
己自身に腹を立てるように、彼は激昂して叫んだ。
ことの表情の僅かな変化から、聖は、彼女に同情心が湧いたと悟った。
『どうして、こんなことしたの』
『……命が何なのかを知りたかったからだ』
遠くから、ことを呼ぶ声が届き、二人は同時にはっとする。
少年がおもむろにことを見た。
『誰にも喋らないでくれ』
『……』
『頼む』
『もう、……殺さないでくれる?』
『……ああ』
『……解った』
『――――……助かる』
去りゆく少年の背中。
画面が暗い藤色と闇色に沈んでいく。
聖は、ことと音ノ瀬隼太が初めて邂逅した時を目の当りにした。




